この度の台風通過について早々にお見舞いを頂戴し恐れ入ります。
幸いにも熊本市内は大した風も吹かず、雨も近所の水無川の水位を危険なものとするようには至りませんでした。
台風は熱帯低気圧に変わったようですが、福岡県に接する県北・荒尾では一時間120㎜の大雨だったという報道もあります。
台風そのものより、四国地方などの方がひどいようで被害が心配されます。
熊本もまだ今日中は雨が降り続きそうですが、現況では被害もなく過ごしております。有難うございました。
徳川家が覇権をにぎった初頭の時期、證人という名の人質が遣わされた。後にはこれが制度化される。
働き盛りの人は避けられ、幼子や老夫人などが江戸詰となった。
細川家の最初の證人が慶長五年の細川忠利15歳であったし、筆頭家老・松井家からは元和六年に松井興長の生母・自徳院があてられた。
細川家の家臣で早い時期に證人を江戸へ遣わした家に沼田家がある。
沼田延元は、息・十五郎延之を五歳で江戸へ遣わした。「延元様一代御事」によると、一時期姉の多阿が入れ替わったことがあるようで、三十人扶持を拝領したという記録もある。
その沼田勘解由延之は娘を証人として江戸へ遣わしていたが、これに変えて息の小兵衛延将を証人にしたい旨を願い出た。娘とは後に清田石見の息・主馬乗治に嫁いだ國であろうと思われる。
寛永十八年の十二月には幕府の許可する処となった。
寛永十八年十二月十一日証人奉行衆よりの奉書
一筆申入候、家来長岡勘解由証人娘之儀、弟之小兵衛被差
替度之由達 上聞之処ニ、其通可仕旨被仰出候間、可被得
其意候、恐々謹言
十二月十一日 奉行四名連署(氏名略)
沼田家の記録によると、そののち、弟・延晃、末弟・延春も證人に遣わされている。延晃は新知500石、延春は分知500石で創家が許された。
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また今回有吉家に係わる、知らなかった新たな情報を見つけ出した。
寛永廿一年六月十四日の幕府の証人奉行から細川家に対しての奉書
其方家中有吉頼母証人実娘と同妹と被差替度由達上聞候処、
代候様ニと被 仰出候、可被得其意候、恐惶謹言
六月十四日 奉行三名連署(氏名略)
三卿家老有吉家の有吉頼母佐(英貴)の娘と実妹を入れ替えたいという申し入れに対しての許可である。
娘については四女の志弥美(シアミ)が證人として出されたことはすでに承知していた。■有吉家のシヤミとは・・・・
しかし妹の話は初めてである。系図を見ると壽桂という人がいる。後に富田与兵衛に嫁ぎ三男平十郎の子の市郎兵衛が有吉姓となり別家を宗家し、家老などを輩出した。その壽桂であろうと考えられる。
年令は判らないが幼女であったろう。お国意識が強い中、規制がいろいろある証人としての長い江戸暮しは如何だったろうか。
こういう人たちの犠牲があって沼田家・有吉家の為となり、ひいては細川家の為であったことを理解しなければならない。
細川家の下屋敷は忠利代までは将監橋際にあった。光尚の家督と共に三田村すなわち白銀邸に移る事になるのだが、これは寛永十八年正月廿九日夜~晦日夜にかけて、日本橋桶町から出火して「九七町,家屋一九二四戸,うち武家屋敷一二一,同心屋敷五六,焼死者数百人を出した。」いわゆる寛永の大火が影響している。
この時三斎の上屋敷(場所不明)も類焼したという記録が残る(綿考輯録巻58-出水叢書・光尚公p179)
将監橋際の下屋敷の転居については、徳川家の菩提寺・増上寺に近く、幕府からの申し入れであったようだ。
寛永廿年十月廿二日の長岡監物宛小笠原備前長元の書状の中に、その経緯が伺える。
(前文略)次ニ御下屋敷増上寺江近く御座候由ニ而上り候、何方ニ而成共替地可被成御望、可被進候由 上意ニ而
御座候、就夫方々見立ニ参候、江戸中ニ無御座候、芝之上千日寺之後ニ而大形見立申候、此所 御意ニ入候間、可
被仰上との事ニ候、其外ニは一円無御座候、今一ヶ所西之くほニ御座候、是ハ事之外能屋敷ニ而御座候得とも、へ
んと(辺土)ニ而万事不自由ニ御座候所ニ而御座候、柳生但馬殿下屋敷之北之方にて御座候、此二ヶ所之内ニ而御
座候、 殿様も去十九日二上之御屋敷へ被成御移候、同日より御家くずし申候、上屋敷ニ今迄居申者下御やしき江
参り、下御屋敷ニ居申候もの上御屋敷へ参、入替申候、爰元之体ハ中々無是非事由ニ而、拙者なとも下屋敷江参候
得と被仰付、迷惑可被成御推量候(以下略)
寛永廿一年二月廿七日正式に三田村領の内にて御屋敷を拝領、16、725坪の広さであった。のちに白銀御屋敷とよばれる細川家の下屋敷である。