私が建築設計の世界に入ったころは、メートル法と尺貫法が両立していた。
そして、現在でも建築の世界では尺貫法の名残として、柱は10尺ものとか2間ものとかで製材されるし、ベニヤとかボード類も36物というのは3尺×6尺である。
一時期尺貫法をなくそうという動きがあったとき、反対運動の旗を振ったのが永六輔氏である。
建築の曲尺に限らず、いろんな職人さんが尺の世界で働いていた。着物を仕立てる職人さんは鯨尺であり、曲尺の一尺(30.3㎝)は鯨尺では一尺二寸五分(37.8㎝)と独特の世界があった。
その騒動の結果は、うやむやの内に収束したが、鯨尺の物差しをある筋(Y)が買い占めたなどの話が残る。製造は禁止されたが、使用するものを罰するまでには至らなかった。
永六輔氏著「明治からの伝言」に20頁ほどを割いて「計量法を粉砕せよ」という項に、一部始終が書かれている。
今般の食品衛生法の改定などの話を聞くと、六輔氏黄泉の世界から大激怒されること間違いない。
道の駅などを訪ねると、地元の方々が細々と作られた地方の豊かなお漬物が並んでいる。
メーカーさんが大量に作る漬物とは違い、手作りの魂が感じられる。態々それを好んで購入するほどのことである。
昨今「紅麹」の問題で、食品・薬品の製造管理に関して役所が神経質になっている。
そのうちには、ウナギ屋さんの「タレ」とか、クサヤの干物の「タレ」とか、そんなものまで規制し始めるのではないか。
規制が過ぎると、日本の文化が失われることになる。かって「地方創生」という言葉があり、「一村一品運動」などが盛んになり地方の知恵が具現化されて、つまるところ「道の駅」などの賑わいを作り出した。
担当役所のお役人からすれば、事件につながるようなものはすべて規制の網をかぶせてしまえという、余りにも安直すぎる発想ではないか。
永六輔氏の後を引き継いで、大声を張り上げていただけるような人は居られないのだろうか。
誠に残念極まりない。
「御代々様御参勤帰国(3)光尚公」における、正保年以降死去されるまでの記録には以下のようにある。
叔父・細川立孝や祖父・三斎の逝去による八代分領の解体や、宇土支藩の創立、家老・松井興長を八代城城代に定めるなど、
種々難しい判断を強いられ、31歳の若さで逝去された。
参勤・帰国のスケジュールに、それら宇土支藩創立に関わる記事を重ねてみた。
一、正保元年 寛永二十一年改元 四月廿四日御暇被仰出 五月三日江府御発駕 同廿七日熊本御着
一、同二年二月十二日熊本御発駕 三月十二日江戸御着 同十五日御拝礼
・同年五月十一日、叔父・細川立孝逝去・31歳(江戸中屋敷)
・ 同 廿三日、同上の次第八代へ使者清田清十郎十一日出立、この日着す
・同年十二月二日、祖父・細川三斎逝去・83歳(八代城)
・同 五日、泰勝院にて葬儀、
・同 四~八日、殉死者・4名
・同 十二月九日~三年四月半ばまで 丹羽亀之丞の八代御附衆の動向の報告・8件
・同 十二月廿一日付光尚書状 八代に宮松(立孝)は置かない。宮松屋敷は領内二ヶ所(木山・隈部)に何れか。
・同三年二月二日・光尚書状 「宮松の屋敷構えは宇土」に内決
・同三年四月十七日、幕府三斎養女お三・宮松の身上問い合わせ。同日返答。
・同三年六月十一日、老中より「宮松殿之儀御内分之事候間、御心次第ニ可被成之旨被仰達候」の承諾
・同上、光尚使者家老小笠原備前・小姓頭田中左兵衛、宮松江「宇土・益城ニ郡之内ニ而御知行三万石、宇土ニ而屋敷被遣之旨」を伝。
宮松、帯刀と改名す。
一、同三年四月十八日御暇被仰出 六月十三日江戸御発駕 七月十一日熊本御着
・同年八月朔日、細川忠興嫡男・忠隆逝去・67歳(京都)
・同 八月四日、細川帯刀、将軍家光に御目見し行孝と改名す。
・同 八月六日、光尚「八代之侍共ニ申渡覚」伝達す。
・同 八月十日、三斎側室立法院・養女お三(後の行孝正室)、小川お茶屋に移る。
・同 八月十三日、松井興長、八代に入城
・同 八月廿六日、光尚宇土へ赴き、家老佐方与右衛門に土地境界その他を指示。
・同 九月廿六日付、行孝より光尚へ種々御礼の書状
一、同四年三月十三日熊本御発駕 四月四日江戸御着
・同年九月ころ、行孝居館完成。
・興津弥五右衛門、殉死を願い出十月廿九日御暇乞い、十一月二日江戸出立
・同年十二月二日、三斎三回忌ー京都にて興津弥五右衛門殉死す
一、慶安元年( 正保五年改元) 二月御暇被仰出 同十四日江戸御発駕 三月三日熊本御着
・同年春ころ、立法院・お三屋形完成、小川お茶屋から移る。
一、同二年三月三日熊本御発駕 同廿五日江府御着 四月朔日御拝礼
・同年十一月廿四日、御母堂保壽院様逝去・53歳(江戸)
一、同年十二月廿六日御逝去(31歳)