津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■にたつよりもやあたつー異論

2024-04-26 11:46:40 | ご挨拶

 昨日書いた「にたつよりもやあたつ」に対して、悪友が異論を唱えてきた。
私は「にたつよりも、やあたつ」として解説したのだが、句読点の場所が違うのではないかというのである。
すなわち、「にたつより、もやあたつ」で「似た者よりも、燃やした者」ではないかという。
熊本弁では確かに「燃やした=もやあた」といったろう。
今回は御高説を静かに聞いたところだが、「にたつ」は「煮たもの」じゃなかろうなとの話だったが、これは話の前後からするとありえない話で、悪友も納得した。
「焼いた」も「燃やした」もあまり変わらないように思えるが、解説を加えた宇野廉太郎氏によると、薪を1.5m程離れた場所に取り囲むようにして火を放したという。
そうすると「焼いた」が正しいのかもしれない。
「火刑=火炙りの刑」は、火をつける前に命を絶つて実行することもあったようだが、これは苦しみを避けるためである。
この事件は藩の重職がそのような判断していないということは、この事件の凶悪性を大いに認識しての上でのことである。
しかしながら熊本弁はなかなか奥が深い。句読点の打ち方でこのような話になる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■藤原道兼の子孫・庄林隼人のこと

2024-04-26 06:37:24 | 人物

 熊本市横手の禅定寺に加藤清正の有力家臣・庄(莊)林隼人の大きなお墓がある。
飯田覚兵衛・森本儀太夫とともに加藤家三傑と呼ばれた人物である。
                  

 この庄林隼人が、まさに現在の大河ドラマを騒がせている道長の兄・道兼の三男のご子孫であるということを御存知の方はそう多
くはあるまい。
庄林家の名誉のために申し上げると、藤原道兼が紫式部の母を殺害したという事実はなく、ドラマの脚本家・大石静氏の創作である。

 庄林隼人のご子孫に関わる資料が二つあるが、一つは(1)「御擬作高百石・庄林曽太郎」家の先祖附である。
もう一つは、(2)「庄林氏由来」という庄林家四代にわたる詳細な記録で、明治32年当時醫科大学教授・近藤次繁氏が所蔵されていた
ものが写本となっている。東京大学図書館所蔵印が押されている。


初代隼人佐を除き、全く異なる資料が二つあるというのは、家系が二つ在ったことを示している。
(1)、「御擬作高百石・庄林曽太郎」は、旧熊本史談会の機関誌「石人」№243に掲載されている山田康弘氏の「莊林隼人佐について」
に詳しく説明されている。
まずは菊鹿町(現山鹿市)の原という部落に隼人佐の荼毘塚があることに触れ、曽太郎家の先祖附から庄林家の歴史を辿っておられる。
男子が早世し、隼人佐の娘聟が庄林家を継いだが火難に遭遇し没落するも、隼人から四代をへて細川家に仕官し家勢を取り戻し今日に至
っている。ご子孫で菊池市旭志にお住いの Y 様から種々資料を拝受した。


(2)「庄林家由来」は、初代隼人佐(一心)が養子を迎えている。こちらは曽太郎家とは違い、道兼のDNAはまったく入っていない。
二代目・隼人(一方)は山口(加藤)与右衛門の男子(太郎平)であり清正の娘を室としたとある。
加藤時代、名家・庄林家の名を絶やさないようにとの配慮があったことが伺える。
太郎平の姉が清正の養嗣子・百助(のちに離縁)の室となって、若上様と呼ばれていたことが記されている。

 「庄林曽太郎家・先祖附」「庄林家由来」ともに初代・隼人佐の没年は不明としているが、禅定寺の墓碑には寛永八年没とある。
細川家が肥後に移封されて入国した時に、御城の案内役を勤めた隼人は二代目ということになる。
そして、正保二年細川三斎が死去すると細川光尚の意により離国することになる。
嫡男・隼人一吉は志水伯耆守(日下部与助)女・菊を妻女とした。
姉娘は矢部城主・加藤越後室、妹娘は大友宗麟二男道孝孫・松野亀右衛門に嫁いだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする