一、百六拾石壱斗七升 本地城州神童子 (現在の京都府木津川市山城町神童子)
一、拾三石壱斗弐升 母地同 八瀬村 (現在の京都府京都市左京区八瀬)
合百七拾三石弐斗九升
右令扶助之訖、可全領地候也
文禄二年十一月十一日 (秀吉)御朱印
松井佐渡守(康之)とのへ
この宛行状は秀吉が松井佐渡守にあてたものだが、のち徳川幕府にも引き継がれ明治に至っている。
松井家は将軍の代替わりの時は、御禮の為に江戸へ下り江戸城に登城して将軍に御目見している。
元々は康之の母へ、茶湯料として13石余が与えられたのが始まりらしい。
この宛行状には「八瀬村」とある。あの天皇の棺を担ぐ八瀬童子(げら)がすむ村である。
八瀬村の村高は271石であり、松井家の他は儒者・林大学頭100石、施薬院65石、寂光院30石などの記録が残る。
東京都知事を務めた現参議院議員で作家の猪瀬直樹の作品に「天皇の影法師」があるが、その八瀬の童子について相当のページを割いて触れているが、これがなかなか面白い。
ウイキペディアによると、八瀬童子とは「比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。」とある。
都が東京にうっつてからも、明治天皇・大正天皇崩御の際には駕輿丁を勤めている。
これらのことについて猪瀬氏は80頁余(文庫本)を費やして書かれている。
明治天皇ご葬儀の際棺をかつぐ八瀬童子
隆慶一郎の小説「花と火の帝」は、後水尾天皇の女御たちが徳川幕府の隠密に次から次へと殺されていく悲惨な様が描かれているが、これに後水尾帝と八瀬童子(げら)達の抵抗ぶりを絡ませた痛快傑作な作品だと私は思って愛読している。
松井家のどなたかが八瀬を訪れられたという話を聞いたが、これが何方であったのかどういう話であったのかを、すっかりど忘れしてしまっている。