津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ひい爺様は最後の居寮生

2024-04-28 10:54:12 | ご挨拶

 資料の整理をする中で、1988年熊本大学・九州大学合同ゼミナール報告「熊本藩藩校時習館」33頁にわたるコピーが顔を出した。
そんな中に「時習館居寮生名簿」が掲載されているが、ひい爺様の名前があった。
慶応元年(1865)に鎌田平十郎(200石)・永田貞助(御番方)・田上慎三郎(150石)とひい爺様の四名が最後の時習館居寮生となっており、明治3年(1870)7月8日時習館はその歴史を閉じた。
宝暦4年(1754)の時習館創設と共に「居寮制度」も発足しているが、「時習館就学者の内で優秀な者が、藩から給与をもらいながら自分の希望する学問を学ぶ」という特待生制度がこの居寮生制度である。
しかし財政難も相まってその内容は幾度かの変遷を伴っている。
特に天保6年(1835)には時習館訓導・阿部仙吾が伊藤石之助・大塚半之助らに家を焼かれ焼殺されるという事件が起こった。
横井小楠が居寮生世話役となったのが翌年の天保7年(1836)であり、翌8年(1837)には大身の子弟の入寮を促進するための居寮制度改革が行われた。
これは、家格が上位の者は学問の有無にかかわらず、それに応じた役職に就けることがこの制度を形骸化している。
其後横井は時習館を去り、実学党の萌芽・成長の中で、天保14年(1844)実学党坪井派の米田監物が時習館の総指揮者となったが、弘化4年(1847)に至り、筆頭家老・松井佐渡や教授・近藤英助らの強い反対により辞職せられた。米田監物は家老職も辞している。
有用の士の育成が目的であったが、時習館にあった人々はただその家格の中で、その能力を発揮することができない閉塞感の中に無為に過ごした。
我がひい爺様25・6歳の青春時代のことである。




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■享保十四年四月廿八日「藪の内火事」

2024-04-28 09:31:44 | ご挨拶

 享保14年(1729・宣紀代)4月28日、屋敷1,380ヶ所、総家数2,584軒という大火事となった。(肥後国誌・上巻p102)
かって■享保の火事(1)でご紹介した。
「藪の内」という呼称の由来は、かってこの地区に広大な寺地をもつ天台宗の向蓮寺という巨刹があり、大藪があったことによるとされる。現在のホテルキャッスル・お隣のグランガーデンがある一画であったらしい。
2,584軒という大被害であったわけだが、我が家も被災し、又初代の姪が創建した宗厳寺(廃寺)や遠くは流長院・浄国寺あたりも類焼している。熊本は大風に見舞われる中での火災で手の施しようがなかったのだろう。
御寺さまの所在を線で結んでいくと、火事の範囲の広大さに驚かされる。そして、風の向きが御城や花畑邸などに被害をもたらさなかったことを物語っている。
宜紀は養父・綱利の35万両という幕府借入金を背負い、自らは多くの子女の結婚で多いに散在している。
そんな中での大火災の復旧は、元に復する迄何年を要したのだろうか。
その様な史料がまったく見受けられない。
永青文庫資料のなかに埋没しているのだろうが、そんな資料の登場を待ちたいと思う。


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