宗孝公江戸城殿中で凶事に遭遇された際、介抱のために殿中に入ることが許された供頭で小姓頭の生田又助のことに触れておきたい。
その後熊本に帰国した際、自宅に帰るより早く藤崎宮に詣で、「日頃は弓矢の御神といとも崇み奉りつれども、萬民の事は扨置、君(宗孝公)の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」といいて絶交をつたえた。「生田の神義絶」というが、又助の無念のほどがひしひしと伝わる話である。
享保19年家督、560石、元文2年2月川尻奉行、其後御使番に召直、寛保元年8月御奉行、延享元年9月御小姓頭、延享4年8月15日・宗孝公逝去、同5年7月御役御断、寛延4年2月御番頭、宝暦2年5月同役御断、同年10月隠居43歳、号・長風。
養子の又兵衛が跡を継いだが、いつの頃か御暇となり生田家は断絶している。又助隠居後の約32年間どう過ごしたのだろうか。
天明4年10月22日歿・75歳 墓・高麗門禅定寺。
御小姓・御使番・大阪御留守居 御使番・御側弓頭・同筒頭 御切米触頭
初代・生田又助ーーーーー 2代・又助(坂崎清左衛門三男)ーーー 3代・又助(小坂半之允三男)ーーー 4代・又助(上月十郎大夫二男)ーーー5代・又兵衛
(貴田角右衛門二男)御暇・断絶