ている。しかし、熊本市中心部の建築物の地質調査などが当たり前になっている中、その痕跡の確認が待たれていた。
今般思いがけず熊本城備前堀の中からその形が確認されたというニュースは、富田先生の御説が改めて補強された事であり、先生にお慶びを申し上
げたい。昨日の熊本日々新聞電子版を引用してご紹介したい。
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(写真:熊本日日新聞)
熊本城備前堀で見つかった白川旧流路の痕跡。黄色の点線の手前(南側)が旧流路とみられ、黒色の砂層が確認できる=2023年2月
「白川蛇行説」は、1995年に熊本博物館副館長だった富田紘一さん(79)=熊本市北区=が、1605年に作られた「慶長国絵図」などの史料や現地調査をもとに発表。白川は江戸時代初期まで代継橋付近で北東に向きを変え、熊本市役所付近で坪井川と合流して南西方向に流れ、長六橋付近から現流路と重なっていたという。市によると、1607~10年ごろの加藤清正時代に河川改修して直線化し、現流路になったとみられる。 熊本城の南西部にある備前堀は、城内唯一の水堀。市が2022年度、熊本地震で崩落した石垣復旧工事のため、堀底に堆積した土砂を最大約1・6メートル除去すると、堀の中央付近から南側にかけて、河川の堆積物である黒色の砂層(深さ最大19メートル)が出土。北側には金峰山の火山噴出物が堆積した灰褐色の層が確認され、市は「旧流路の右岸側の境界が備前堀付近だったのではないか」と推測する。 市が17年度に坪井川沿いの長塀近くをボーリング調査した際には、深さ約17メートル付近から、厚さ3メートルほどの河川堆積物の層が見つかっている。今回は旧流路の表面が目視で確認され、市は「白川の蛇行を裏付ける重要な発見。熊本城との位置関係から、築城時の資材の運搬に旧流路が使用され、備前堀は船着き場のような役割だった可能性がある」としている。現在堀には水がたまっており、旧流路は見ることはできない。
富田さんは「今回の層が発見された位置は私が推定した旧流路と合致している。今後も中心市街地の工事などに伴う調査で痕跡が見つかれば、より正確な旧流路が特定できるだろう。熊本の原風景が分かり、熊本城築城時の作業状況を解き明かすことにもつながるはずだ」と期待を寄せる。(前田晃志)