新代継橋が架橋されたのは明治34年(1901)年のことで、県立病院が白川左岸に新築移転 したため、その連絡路として新代継橋が
架けられて、通称病院橋と呼ばれていた。
かって■代継神社と新代継橋を書いた折ご紹介したのが下の写真で、白川の右岸やや下流側の西岸寺の南東の角あたりからさつえいし
たものか、橋の真向こうに病院が見えている。
この位置は、花畑邸の池に水を引くために「筧」がかけられていた場所だと伝えられる。
ヤフーオークションを眺めていたら、「新世継橋からの遠望」というこの写真が出品されていた。
病院橋と、行きかう人々の姿が見えるが、遠くに立田山のなだらかな姿が見え、右手の大木の下に見える一角には柴垣と思しき垣が見
えているが、ここがかっての「世継神社」である。
残念ながら都市計画者たちは、この道路を拡幅することをしなかった。
今でも当時と変わらない道路幅と思われるこの道は、メイン道路とはなりえていない。
県立病院は熊大医学部付属病院となり、正面玄関は真反対にむけられた。平成元年、白川の改修工事に際し代継神社も立田山の東峰山
上に移転している。大きく様変わりした懐かしい風景と言える。