井門宗中とは宇土支藩重臣・井門家の3代目・次郎左衛門重之のこと。寛永十年正月に細川立孝(立允)附となる。14歳。
天草島原の乱に於いて立允に付て先登す。新知150石。行孝代150石加増。承応2年200石、延宝元年200石加増都合700石となる。
細川行孝の死去に当たり剃髪して宗中と号した。元禄9年10月10日歿。77歳。
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井門宗中覚書 廿六歳
一、正保ニ乙酉五月廿五日、宮松様(宇土支藩初代・行孝)江戸へ初而御下之前日、河崎迄御着之儀相知レ申ニ付、文三郎(次郎左衛門父)、
清田弥八郎両人芝御屋敷江参上、肥後守様江、明日御着之儀ヲ田中左兵衛ヲ以申上候処、即刻両人御前江被召出、御直ニ段々御意被成候
は、宮松爰元へ被参候事思召モ無之儀ニ候、肥後守様ヨリ御差圖之外ニ、誰々之指圖ニ而被下候や、此段ヲ急度有之侭ニ可申上候。其刻
御立腹御機嫌之悪敷ハ、たとへに可申上様茂無之程之御事、御前ニハ林外記・田中左兵衛被召置、段々御意被成候処、文三郎御請ニは、此
儀弥八郎義ハ初中後不存儀ニ御座候間、御請ハ私可申上候。宮松爰元へ被参候儀たれ/\の御差圖ト申儀毛頭無之儀儀ニ候。中務病中甚
敷御座候時分、最早本復ハ難叶儀ニ候間、幼少ニ御座候トモ一生一代之義候条、末期ニ被参候様ニと存候。若其内被果候ハゝ焼香被仕被
罷登候共、一度被下候所ヲ本意ト存候、トケ様ニ申遣候。其刻奉得御意可申遣候処、病ハ甚敷十(途)方ニ暮、即刻申遣トひとへに心得、
至只今御意之旨行当、御尤之被仰出可申上様茂無御座候。私之外ニ申遣候者無御座候。ト申上候得は、又 御意被成候ハ、病中ニ申遣候所
は断(ことわり)ト被思召上候。十一日卯ノ刻被果候儀申遣、十五日ノ朝上方被罷立候日積ニテ候、ケ様ニハ不存候や、と外記、左兵衛ニ
御意被成候。又押返シ申上候ハ、何ケ度ニテモ右ニ申上候通ニ候。中務相果申、注進ノ飛脚道中ニ而如何滞申候や、関ニテ宮松ニ逢申候。
側ニ居申候者共心得ニも被果候義ヲ承其侭宮松江申聞候テハ、幼年之儀ニ御座候間途中ニ而歎キ、最早江戸ヘハ参間敷抔ト被申候は如何と存、
態と隠シ、河崎迄ハ果被申候義不被存候由、ケ様ニ申候得は、具ニハ不被聞召分甚御機嫌悪敷、暫ク物ヲも御意不被成、御前江謹而左兵衛申
候ハ、御前罷立候様ニト申所ニ、又 御意被成候ハ、最早此上ハ無了簡候。河崎迄被参候事ニ候間、明日屋敷迄被参候ラハ、注進可申旨御
意ニ付、其侭御下屋敷(芝)ヨリ夜通ニ河崎江参候。右ニ申通文三郎罷出候迄ハ中務様御逝去之段ハ不被聞召上、前廉ニ両人落髪之躰ヲ御覧
被成、不申上内御推量被遊、御落涙、中々の御事共ニ御座候。兎角仕候内夜モ明ヶ申ニ付御供仕、愛宕下御屋敷江御着之上、肥後守様江御注
進申上候ヘハ、先々御息災ニ御着目出度被思召候。暑氣之時分御煩不被成様ニ、と被思召候由ニテ、其後御使なと被進候。