津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■知っててよかった・・

2024-04-18 13:13:43 | 徒然

 今年の大河ドラマは登場人物の入れ替わりが激しく、又いろんな俳優が入れ代わり立ち代わりで、若い人たちも興味がわくのではないだろうか。
こちらはと言えば「源氏物語」と共に「枕草子」も読まずばなるまいと思って、本棚を探すが見つからない。
いよいよ見つからなければ古本でも購入せねばならない。
また「御堂関白記」もちょっと読んでみようかと思うし「東鑑」も読まねばと考えたりもしている。

 処で前回は藤原定子と清少納言の初まみえのシーンで、あの有名な白楽天の「香炉峰の雪」の話が出てきて、驚かされるとともに、大石静氏の脚本家としての力量を感じさせられた。
若い方々で知らない人は何の事と思われたろうが、私は「知っててよかった」とつくづく思ったことである。
下は清少納言の「枕草子」280段の文章である。この文章どおりのシーンがTVに再現された。

雪のいと高う降りたるを、例ならずこうまゐりて、びつに火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」とおおせらるれば、御格子上げさせて、を高く上げたれば、笑うはせたまふ。貴

 時の貴族の女性たちの教育の高さを思い知らされる逸話だが、つまるところ「白楽天」の歌も承知ということである。
この後の定子の運命は、寂しいものとなるが清少納言が御側に侍っていたことは慰めであったことであろう。
今年のドラマは、目が離せないでいる。

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■南海の眠りさますか豊後灘・・・

2024-04-18 08:34:53 | 徒然

 昨晩の地震はベッドに入ってしばらくした時、携帯のアラームと、たまたま持ち込んでいたポータブルTVのアラームがけたたましくなり出して飛び起きた。
5階のフロアで震度3程の地震を初体験したが、震源が豊後水道と聞いて二度目がくると危ないぞと少々構えてしまった。
熊本人は二度の強烈な地震を体験しているから、時折震度3位の地震の報道がなされているのを見ると、大げさなと思ってしまうが、改めなければ成らない。
しばらくして、ベッドにもぐりこんだが目がさえて眠れない。
色々考えていたら「太平の眠りをさます蒸気船・・」の歌が突然浮かんできた。
あれこれ考えてこんな歌になった。

      南海の眠りをさますか豊後灘
          耐えてくれよと夜も寝られず

相変わらずのくだらぬ作だが、こんなことを考えていたら眠りに落ちた。
被害のすくなからんことを願いつつ・・

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■元和六年四月十八日の忠興文書から

2024-04-18 07:32:34 | 歴史

    忠興文書の元和六年(1620)四月十八日項がなかなか多彩で面白いのでご紹介しよう。

 210、四月十八日書状
 ・和子入内ニ付上洛或ハ使者差遣無用トノ觸状アリ
     京都市上京区のサイトに「徳川和子の入内」があり有難い。これによると江戸を立つたのは5月8日であり、20日を費やして
     上洛二条城に入った。6月18日無事に入内している。14歳という若さであったが帝の御母・中和門院が優しく接せられた。
     元和九年(1623)には女一宮・興子(おきこ)内親王が誕生した。
     後に後水尾天皇が二条城に行幸、中宮和子が父である大御所秀忠、将軍家光に接するのは、寛永三年(1626)のことである。
 ・伊丹康勝ノ肝煎ニテ進物ヲ献上ス
     これは明らかに入内する徳川和子に対しての献上物であろう。
 ・松井興長母・自得院、江戸ニ著ス、松井政之ヤガテ帰国セン
     江戸證人として江戸へ赴く自得院は病となり、しばらく京で静養している。入れ替わりに證人として江戸に在していた甥の松
     井政之(実は沼田与次郎)が帰国することになる。
 ・和子上洛ニ付土井利勝ノ通達
     内容不詳
 ・五百坪ノ栗石
     下記、江戸城普請のための準備か?
 ・来年江戸城普請ニ付秀忠駿府滞在ノコトは不定ナラズ
 ・妻木之徳女房衆親類ノ者召抱
     之徳とは貞徳二男・旗本1,000石その奥方の召抱えのことだが、妻木勘兵衛だと思われる。
 ・木下延俊女ノ縁談
     こちらは忠興の外孫(女・加賀女)だが、長女(桜井松平忠重正室)、次女(北野松梅院某室)、三女(木下利当正室)と有
     るが、人物の特定ができていない。
 ・大阪城普請ニツキ大坂普請奉行細川家ノ為大ニ斡旋ス
     奉行の名は「渡邊勝」、慶長10年以降に、千姫附属となった人物であろうか。母親は二位局と称し、秀吉や淀殿の申次を務めて
     家康の覚えめでたき人である。大阪城落城に際しては脱出している。
     細川家との友好的な関係がどうしたものかは不明である。

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