(寛永五年正四月)十二日
| (長元)小笠原備前家二代・長基、ガラシャ夫人に殉死した少斎の嫡子 6,000石
小笠原長元困窮シ |一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用
借銀二ツキ忠利ノ | 候、左候て、当春被成御請返、 御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、 御前へ上申候処、御前
袖判ヲ乞ウ | 〃
銀二十貫上方ニテ | 判御やふりなされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状、 御前ニ上被置候をも、
ノ借状ヲ請返ス | (松井興長)
忠利借状ヲ破棄ス | 同前ニ 御前ゟ出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰
| 越候間、則式ア殿へ持せ遣候、
頭注には長元とあるが、長基が本当だと思う。豊前時代の話である。
寛永四年に家政が立ち行かないので、忠利公の袖判をお願いして上方で銀20貫を借用したが、その返済が済んだので借用書を受け
取り返上したというのである。
すぐさま破却(焼却か)するようにとの仰せつけであった。
この時期の金と銀・銭の関係は、1両=銀50匁=銭4,000文といわれるから、銀20貫=20,000匁/50=400両、1両=10万円とす
ると4,000万円という膨大な金額である。
なぜこのような借銀が必要であったのかは良くわからないが、6,000石の御大身ともなれば家臣その他相当数抱える必要があるから
その経費は莫大であったろう。
しかし、1年ほどで返却ができたということは、ざっと米400石+利息がコメ相場を見ながら返却されたのだろう。
袖判とは、藩主の確実な保証があることを示すために、藩主の花押が入った借用書の事である。
6,000石の大身であるとともに、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の嫡子であるということもあるだろう。
袖判での借銀だから利息は普通より安いのだろうが、それでも10%くらいは取られたのではないか。
侍の借金は年率18%だともいうから、身代はつぶれてしまう。