細川宗孝を殿中で襲い死に至らしめた旗本6,000石・板倉修理(勝該)、その原因は乱心だとされるが一方では家紋がよく似ているが故に、
同族の佐渡守勝清(当時・若年寄)と間違えて切り付けたという話がある。
修理の病気(狂癇の質)などを理由隠居させ、勝清の庶子を跡継ぎに入れよういう話があったらしい。
一方氏家幹人氏著「旗本御家人・驚きの幕臣社会の真実」には、修理の屋敷が白金台の細川家下屋敷の隣のがけ下に位置し、大雨の時に汚水
が流れ込み浸水することがあり、これを恨みに思ったという確信犯的な理由を挙げている。
同書には写真が添えられているが3~4mの高低差が伺える。
氏家氏は人違い説より「恨み」説が真実に近いとされるが真実は闇の中である。
たしかに「分間江戸大絵図」を見ると細川家下屋敷の北側に「板クラ下ツケ」の書き込みがある。
処でこの板倉氏、一族四家が大名として明治を迎えている名家である。
板倉修理(勝該)の系を遡ると三河深溝藩主・重昌に行きつくが、この人が天草島原の乱で討死したその人である。
下総関宿 伊勢亀山
勝重――+――重宗――+――重郷――重常
| | 上野安中 陸奥泉
| +――重形――重同――勝清
| 三河深溝 下野烏山
+――重昌――+――重矩――+――重良
| | 武蔵岩槻 陸奥福島
| +――重種
| (旗本)
+――重浮――勝丘――勝該(断絶)