■沖津九郎兵衛、米田家馬乗り衆を殺害す (上妻文庫-風説秘話から)
忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差ける
か法花(華)坂ニ而小便を志けるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を
蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
沖津抜打ニ二ツに斬殺けり 夫より今の榭の後四角迄来 榭 = 時習館の東・西榭のことか?
りしに早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて大勢
門前ニ集り既二可押懸躰なれ者沖津引返シて大頭志水
伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
殿ゟ討手を被向様子ニ見へ候故差圖を受可申ため参
上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
物申候 沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々
御渡可被成と云しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
申候と云れしかとも監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
云募しか者伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
致覚悟と云れしか者監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
たる中使を馳て主人の方江云遣ハせしかハ監物殿怒られ
自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ監物者家来の
敵ニ討手を向候由尤左も可有事也 然るに若伯耆様討れ
候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
上意也 沼田殿警なから御請申上退出し斯成行てハ以の
外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ監
物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
共を被引取たるとなり
この事件に於いて知行召し上げ等の目立った処分は為されていないが、後始末はさぞかし大変だったろうと思われる。
殿様の近くにあったと思われるが外様に出されている。この事件がきっかけで出頭の道は閉ざされた。
この事件の時期は、以下に記すごとく九郎兵衛は天草島原の乱で戦死するから、入国の寛永9年の暮れから14年の暮れあたりの5年の間の話である。
知行は弟・弥五右衛門が引き継ぐが、この人物も寛永5年ころ(新資料による私の見解)横田清兵衛を殺害している。
又、弥五右衛門の嫡男・才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り(■推参者・・・おれも 真源院様御子)知行召し上げになるなど、九郎兵衛と弟・弥五右衛門、その嫡男・才右衛門などの共通する荒々しい性格が見て取れる。
■天草島原の乱における、死者の報告
口上
今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
之書立御陳場ニ而立なから書進候
尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
山川惣右衛門 平野弥平太
野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
角助殿ハ石疵少御おい候
一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
一椋梨殿御息も無事
一ゑへの四郎首も参候事
何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
二月廿八日 堀江勘兵衛
判
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿 (九郎兵衛三弟)
以上