津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■興津一族「興津九郎兵衛の法華坂での殺害事件」・他

2024-04-10 06:40:09 | 人物

■沖津九郎兵衛、米田家馬乗り衆を殺害す (上妻文庫-風説秘話から)
     忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差ける

     か法花(華)坂而小便を志けるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を
     蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却悪口せし故
     沖津抜打に斬殺けり 夫より今のの後四角迄来     榭 = 時習館の東・西榭のことか?
     りしに早此事監物殿聞へ討手を向らる様子て大勢
     門前集り既可押懸躰なれ者沖津引返て大頭志水
     伯耆殿 今の小笠原大部殿屋敷 只今様/\の訳て手打仕候処監物
     殿ゟ討手を向様子見へ候故差圖を受可申ため参
     上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
     を座敷通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
     砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
     沖津伯耆殿馳込たりとて志水殿門前押寄監
     物申候 沖津何某手前家来を討て其元罷在由早々
     御渡可成と云しか伯耆殿返答御家来不届之儀御座
     候沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
     申候と云れしかとも監物殿家来共猶強而御渡可成と
     云募しか伯耆殿申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
     受取度候て何様共致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可
     致覚悟と云れしか監物殿家来共ハ俄の事て着込
     抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
     たる中使を馳て主人の方云遣ハせしかハ監物殿怒られ
     自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
     尊聴達シ俄沼田殿を召て仰渡しハ監物家来の
     敵討手を向候由尤左も可有事也 然るに若伯耆様討れ
     候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
     上意也 沼田殿警なから御請申上退出し斯成行てハ以の
     外の大事也と直監物殿内々て此由云送られしかハ監
     物殿聞て我忠義を忘たりとて大後悔し早速手の者
     共を引取たるとなり

この事件に於いて知行召し上げ等の目立った処分は為されていないが、後始末はさぞかし大変だったろうと思われる。
殿様の近くにあったと思われるが外様に出されている。この事件がきっかけで出頭の道は閉ざされた。
この事件の時期は、以下に記すごとく九郎兵衛は天草島原の乱で戦死するから、入国の寛永9年の暮れから14年の暮れあたりの5年の間の話である。
知行は弟・弥五右衛門が引き継ぐが、この人物も寛永5年ころ(新資料による私の見解)横田清兵衛を殺害している。
又、弥五右衛門の嫡男・才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り(■推参者・・・おれも 真源院様御子)
知行召し上げになるなど、九郎兵衛と弟・弥五右衛門、その嫡男・才右衛門などの共通する荒々しい性格が見て取れる。

■天草島原の乱における、死者の報告
        口上

    今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
    松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
    今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
    候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
    之書立御陳場ニ而立なから書進候
        尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
        山川惣右衛門 平野弥平太
        野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
        弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
        西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
    此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
    手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
    角助殿ハ石疵少御おい候
   一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
    見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
   一椋梨殿御息も無事
   一ゑへの四郎首も参候事
    何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
      二月廿八日    堀江勘兵衛
                    
           監物様
           河喜多五郎右衛門殿
           椋梨半兵衛殿
           沖津作大夫殿        (九郎兵衛三弟)
                  以上

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■熊本史談会4月例会のご案内

2024-04-10 06:39:12 | ご挨拶

         熊本史談会・令和6年4月講演会の御案内                            
                    記
 期日:令和6年4月20日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
 場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
 講師:サイト「肥後細川藩拾遺」主宰、史談会会員・眞藤國雄
 演題:森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」引用史料の虚構と真実
         副題・横田清兵衛は生きていた

 一般参加自由:

    講演前に本会の「総会」を開催いたします。入場は9時30分頃とさせていただきます。
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
  今回は予定変更で私が講師を務めることになりました。
 副題にありますように、寛永元年に殺されたとされる「横田清兵衛は寛永五年まで生きていた」という
 ことを示す資料を発見するに及んで、森鴎外の史伝小説「興津弥五右衛門の遺書」の内容には大き
 な齟齬が生じ、小説自体が成り立たないことになります。内容を精査してお話しようと思っています。
 又、次のブログで御紹介する、兄九郎兵衛の「法華坂における殺害事件」や、弥五右衛門の嫡男・
 才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り知行召し上げになるなど、兄弟・嫡男に共通する荒々しい性格
 を感じたりしています。時間が許せばそんなことにも触れてみたいと思っています。  (津々堂)


 
 
 
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