津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「武士道」解題

2011-09-12 14:15:44 | 書籍・読書
 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは (小学館文庫)
 
               小学館

 いつ文庫化されたのか承知しないが、帯にある田原総一朗は次のように解説している。

『新渡戸稲造の『武士道』には、現代の日本人が忘れてしまった普遍的思想が貫かれている。その深遠な日本精神を、戦前日本の教養教育を受けて育った台湾の哲人政治家が、古今東西の哲学知識を総動員して解説する。 ノーブレス・オブリージュ―高貴な身分の者に課せられた義務。著者は「武士道」の本質をそこに見出す。 日本の知識人が大絶賛したベストセラーを、満を持して文庫化!』

 読むべし。

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再スタート

2011-09-11 09:19:07 | 徒然

 昨日の、「細川家家臣略系譜のPDF」公開のニュースは大変衝撃的だった。
一方侍帳の充実を決意した私には、改めて再スタートを再確認するきっかけともなった。
ずっと心の隅にあった想いを、結実させようと思っている。ちょっと季節外れだが

            埋み火を熾して決意新たなり   といった心境である。

 なにせ個人を除いても1500~1600家くらいあるから、5~10年ではとうてい終了しそうに無い。こういう作業はあと五年くらいが限度だろう。
ここ一両日はどういう手順で作業を進めるのかを考えようと思っている。

 私がくたばったら、何方か跡を受け継いで下さる方は居られないものだろうかと考えるこのごろでもある。喜んでデーターをお渡ししたいと思うのだが・・・

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Big News 「細川家家臣略系譜」PDF化

2011-09-10 18:39:35 | 徒然

 ぴえーるさんのブログを開いたら、ビッグニュースが目に飛び込んできた。
川口恭子先生のご労作「細川家家臣略系譜」が、PDF化され一般公開されたというのだ。昭和58年11月15日の発刊だから、すでに28年ほど経っており、古書籍店に現れることもなく貴重本になっていた。それがこのような形で公開されるとは・・・・・
ただただ感謝申上げたい。

 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/13950/1/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%B6%E8%87%A3%E7%95%A5%E7%B3%BB%E8%AD%9Cr.pdf

  私の「新・肥後細川藩侍帳」も、先生のこの本があってこそである。
昨日のこと、侍帳の更なる充実を目指してコメントをした矢先である。
全国の皆様に大いに活用していただくことが、川口先生のご恩に報いることだと強く思っている。

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最近思うこと

2011-09-09 10:58:01 | 徒然

 我がサイトはUP以来8年を経過したが一向に進展を見ない。一年ほど遅れてUPしたブログの方が主流になってしまって、ネタ切れを心配しながら毎日を過ごしている。

 最近「原点に返ろう」と強く思っている。すなわち「侍帳」の充実である。過去にも何度かそう言ったような気がするが、今回はちょっと本気になっている。いろいろ間違いがありそのままに成っているところもあるし、お優しい皆様はあからさまに間違いを指摘して来ることも為さらず、このままでは悔いが残る。各家の書き込みについてその出典を明らかにし、先祖附を読み返してより詳細なものにしたいと考えている。

 例えば堀内傳右衛門の「旦夕覺書」を読むと、親戚関係がよく理解できるし、女性の名前など貴重な情報がある。同様の史料を大いに読み込んでいかなければ成らない。
時折「我が家の先祖の家は何処にあったのでしょう」というお問い合わせがある。新・熊本市史には多くの城下地図が紹介されており、江戸判ゼンリン地図といった感じだが、これらも判る限り紹介していきたい。系図が残るお宅については別途リンクをはって、ご紹介したい。関係する出版物や論考等もご紹介したい。家紋についても「肥陽諸士鑑」や「家紋付侍帳」などからご紹介したいと考えている。これは家紋の名称が判らないものが過半で、実物を貼り付ける作業が必要となってくるが、これは助っ人を頼まなければならないようだ。没年や戒名、又墓所なども判明しているものはご紹介したいし、やりたいことが多すぎて頭がくらくらしてくる。

 もう数ヶ月図書館通いもストップしているが、先祖附のデジカメ撮影にそろそろ腰を上げようと思っている。以前のサイトは私が「ホームページビルダー」で作成したものだが、現在のものは人の手(長男)にゆだねたので、今では自分で変更や新たな書き込みが出来ずにいる。この当りも勉強して自分で修正が出来るように頑張らなければ成らない。

 いささか体力も落ちたし、5年かかるのか10年を要するのか、果たして何処まで出来るか判らないが最後のチャレンジを宣言しておきたい。
サイトの上で遅々たる歩みが確認される頃には、ご報告を申上げる。

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荒木村重系図について MAさまメールご紹介

2011-09-08 08:33:11 | 歴史

MAさまから再度のメールを頂戴した。全文をご紹介する。

「細田家系 本姓荒木氏」は、十次郎つまり村次以降はかなり信憑性がありそうですが、荒木村重の弟に元清と書いてあるのは、誤りです。
荒木元清は『寛永諸家系図伝』でも『荒木略記』でも荒木村重の従兄弟です。
一番重要な事は、『寛永諸家系図伝』は1643年迄編纂されており、荒木村常の系図は、1643年正月の記述で終わっている事から、1643年に荒木村常自身が徳川幕府に提出した系図と考えられ、現在伝わっている荒木村重の系図の中では最も古い系図で、しかも荒木村重の祖父までは、荒木村重の従兄弟の荒木元清の子孫の荒木家と石尾家の系図とも良く一致し、荒木村重の娘の荒木局も大奥にいる事から、村重の祖父迄は信頼性が高いと考えられるという事です。
荒木村重の父は『寛永諸家系図伝』で「義村 信濃」であり、「義綱 河内守」ではありません。
荒木村重の祖父は『寛永諸家系図伝』で、荒木村常の系図でも、荒木元清の子孫の荒木家と石尾家の系図でも、「某 大蔵」であり、「元義 河内守」ではありません。
荒木村常が徳川幕府に提出した『寛永諸家系図伝』の草稿(呈譜)の写しを、荒木村常自身は持っていた筈であり、それが「細田家系 本姓荒木氏」に反映されていない、という問題は、今後の研究課題です。多分荒木村重の謀反と荒木局事件を隠したい、という動機が原因の一つだろうとは思いますが。
実際、「百五拾石細田七蔵」では、荒木村重の謀反と荒木局事件は全くなかった様に書かれています。

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殿のお出まし

2011-09-07 13:25:12 | 徒然

 最近元首相としての細川護煕様のお顔を度々TVで拝見する。野田総理の誕生にあたっては小沢氏との橋渡しなどに係られたらしい。なんといっても日本新党の創立者としては、愛弟子ともいえる野田氏の首相就任は、湯河原に遁世とばかりにはいかなくなってきたようだ。今日もフジTVの葛西アナが湯河原を訪問してインタビューしているところが放映されていた。永田町はこりごりと言われるが、愛弟子が殿のように短命内閣に終わらないように、自分の体験を通じていろいろアドバイスを為さるのであろう。

 日本新党の立党の当時、熊本では「殿ご乱心」という言葉をよく聞いた。ところが首相まで上り詰められ、長い自民党政治の終焉という結果をもたらされたことは、短い期間であったが後世に名を留められることであろう。その後の見事とも言うべき身の引きようには驚かされ、ましては陶芸家として見事な変身振りに再度驚かされた。そんな中での野田政権の誕生は、殿のお心内の埋火が掘り起こされた感がある。湯河原からのお出ましの機会が増えるのではないかと察せられる。

 どじょうが出てきて今日は・・・ならぬ、殿のお出ましは多いに気になる処ではある。

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荒木攝津守村重子孫--熊本に於ける二つの流れ

2011-09-07 08:43:06 | 歴史

 過日「荒木村重研究会」のMAさまから、この10月会員の皆様が高守城や田辺城を訪ねられるというご連絡をいただき感慨深いものがある。

 高守城は細川家の下で荒木善兵衛が預かっていた城であり、幽齋が田辺城に籠城の際高守を出て田辺に馳せ参じ善兵衛は共に籠城して戦っている。

 荒木村重にかかわる史料は種々伝わっているが、熊本に於いても善兵衛の系統と共に荒木流細田家の史料が残されている。ところがこの二つの史料に相当の食い違いがあり、どう解釈すればよいのか頭を痛めている。随分以前このブログでいろいろ書いたところ、村重のご子孫であるMAさまからのご連絡があり以降ご厚誼をいただくと共に、九州に調査の為に入られたときにお目にかかったりした。いささかの史料をお送りしたが、細川家における二つの村重の流れの解明もMAさまの熱意溢れるご努力に依り明らかになろうとしている。
今般の「高守城、田辺城」を訪ねるという企画も、MAさまのご努力の延長上にあると理解している。

 荒木流細田家については以下の様な事を、世にある史料との突合せも無いまま色々書いた。
今になっては冷や汗ものであるが・・・・・

            有馬一揆と細田栖院

            荒木家三系図を比較する

            荒木村重系細田氏消息

            伊也様御聟・田中半右衛門殿

            「浄勝院様御養女」谷家先祖附から

            荒木・細田系図-- 4 

            荒木村重系細田氏--谷氏--田中氏(長束氏)--三渕氏

            細川家家臣・谷氏 -2

            荒木・細田系図-- 3

            荒木・細田系図-- 2

            荒木・細田系図-- 1

今般のMAさまからのメールから、次第に細田氏系図の謎が私なりに理解できるようになってきた。感謝申上げると共にここにご紹介する。

■「細田系 本姓荒木氏」には村重の子供として荒木十次郎の弟に荒木村勝という名前があります。荒木十次郎は、『寛永諸家系図伝』によれば、荒木村重の童名が十二郎であり、嫡子荒木村次は賤ヶ岳の戦いで「疵をこうふり行歩かなはず」とあるので、「若年痛膝椚足故不継家」の記述と合っており、嫡子荒木村次と同一人物で良いと思われます。荒木村勝は『寛永諸家系図伝』には出ていません。荒木村勝の系図は、荒木善兵衛の系図とも合わず、荒木善兵衛と同一人物とも考えられません。しかし、これだけ細かい子孫の記述がありますので、実在の人物としか考えられません。塩川主膳の妹が母というのは極めて興味深いです。
荒木克之即ち荒木権右衛門については、他に資料はありますでしょうか?
以下の「津々堂のたわごと日録」に荒木権右衛門の名前がありますが、この人物と同一人物と考えて宜しいでしょうか?
荒木権右衛門克之が、初め京都所司代板倉重勝、1620年摂津三田藩主から久留米藩主になった有馬玄蕃頭豊氏の後、1620年から小倉藩主になった細川忠利に仕えたとして、年代は合っている様に思われますが。

■「細田系 本姓荒木氏」では、荒木十次郎つまり嫡子荒木村次の子に、荒木村完つまり荒木村常と、弥介があります。『寛永諸家系図伝』と比較すれば、弥介は荒木又兵衛村直に当ります。「一子小善ト云若年ノ時浅野安芸守ニ仕後不知行所」と書いてありますが、小善は『寛永諸家系図伝』では、福岡黒田家臣となる荒木村満に当ります。
『荒木村重研究序説』p373には、荒木村満について、『吉田家伝録』巻之十四が引用されており、「幼名 小膳 二歳ニシテ父没ス 故ニ浅野但馬守(長晟)小膳ヲ養育シテ長ナル」とあります。浅野但馬守(長晟)は1619年から安芸国広島藩主ですので、浅野安芸守が浅野但馬守(長晟)を指すと考えれば、書いてある事はほぼ同じ内容になります。
「細田系 本姓荒木氏」の記述の信憑性は結構高い様に思われます。

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とりとめもなく・・・

2011-09-06 10:58:31 | 徒然

 私がいま興味を持っている俳人・松根東洋城は、宇和島藩の家老の家の出である。その先祖を遡ると最上氏に至る。
(細川家家臣楯岡氏も同根であるが、祖光直はお家騒動に巻き込まれ130人の家臣を引き連れ、小倉細川藩にお預けとなり、この地で亡くなった。光直の死後二人の男子は罪を許され細川家家臣となった。)

   11代         12代
  最上義守---+--義光---+--義康
          |       |  13代  14代
          |       +--家親---義俊・・・・・・→交代寄合衆・・高家最上家
          |       |
          |       +--義親
          |       |
          |       +--(山野辺)義忠
          |
          +---●(伊達政宗生母)
          |
          +--義保・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊予伊達藩家老・松根家---→東洋城
          |
          | 一門家老・楯岡城主13,000石
          +--光直---+--孫一郎・定直--------→(細川家臣・楯岡小文吾家)
                  |
                  +--蔵之助-----------→(細川家臣・楯岡三郎兵衛家)


 そんな家柄のせいか、東洋城は大正天皇の御側近くに仕えた。
大正天皇の俳句についてのご下問に対しての東洋城の俳句が有名で、後の東洋城の俳句結社「渋柿」の命名の由来となっている。

            とのゐのあした、侍従して俳句奉るべく、ご沙汰蒙りければ
            かしこまりてたてまつるとて        
                   渋柿の如きものにて候得ど

 天皇はさらに説明を求められたのかどうか承知しないが、私のような凡人にはなんとも理解しがたい句である。俳句に於いては「前書にたよる句は未完成」というが、この句の前書は名文としてつとに有名である。
漱石の弟子として終生その意識は貫かれたようだが、かっての同志虚子とは袂を分かちている。
全くの偶然だが、私が大好きな久保田万太郎や飯田蛇笏が東洋城の弟子であったという。
ど素人の私がこの三人に共通するものを見つけられるわけも無いが・・・・嬉しい。           

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かさね

2011-09-05 19:17:35 | 徒然

 なでしこジャパンのオーストラリア戦をTV観戦、ロンドンオリンピック出場が現実的に成ってきた。

実は歳時記をいろいろひも解いていたら、曾良の次の句に出会った。
           かさねとは八重撫子の名なるべし

芭蕉とともに「奥の細道」を旅した折、かわいい村娘に出会い名を訊ねると「かさね」と答えたという。なかなか優雅な名前だと思い八重撫子に例えこの句が作られたという。

 なでしこジャパンも勝利をかさねる事であろう。・・・・・・・・・・・・良い句ではないか。

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随兵寒合

2011-09-05 17:38:04 | 俳句

              風鈴の止むこともなく風あばる

 数日前「今年は冷夏?」と書いたら、その後三日ほど猛暑日がつづき、その後は台風のために一転風が強くなって凌ぎ易い日が続いた。あちこちに大雨を降らせ甚大な被害を出した台風だが、熊本では今日もカーテンを吹き上げるような風が吹いている。風鈴の音も鳴り止むことを知らない。熊本では九月中旬の藤崎八旛宮の秋の例大祭(随兵祭)のころになると、秋の気配が深まるのだがあと十日余りどういう天気模様になるのだろうか。
時折練習の祭り太鼓の音が風に乗って聞こえてくる。今年も68頭(団体)の飾り馬が奉納され、勇壮な馬追いが熊本の街中を駆け巡る。

                          ずいびょうがんや
                     
馬おいの威勢や随兵寒合かな

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史料所在--細川幽齋年譜

2011-09-05 11:23:37 | 歴史

細川幽齋年譜稿(一)(二)(三) 
          林 達也  青山學院女子短期大學紀要1974-11 1975-11 1976-11
(一)
http://www.agulin.aoyama.ac.jp/metadb/up/library01/BD90020404/Body/y2800031_082.html

(二)
http://www.agulin.aoyama.ac.jp/metadb/up/library01/BD90020427/Body/y2900037_064.html

(三)
http://www.agulin.aoyama.ac.jp/metadb/up/library01/BD90020448/Body/y3000029_040.html

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響きあう俳句と書

2011-09-03 21:12:27 | 書籍・読書
    響きあう俳句と書〈上〉室町・江戸・明治生れの俳人
 
               天来書院

 最近俳句に関する本ばかり読んでいる。スタートは松根東洋城である。漱石の弟子だが生まれ育ちのせいか、なかなか豪放な人らしくいささかの悪行も重ねている。魅力ある人だなーとおもっていろいろぐぐっていたらこの本に出会った。
天来書院はいわゆる書道に関する書籍を発行している。俳句とともに書の勉強もしてみたいと思っていたが、いずれも我流で進歩が無い。いずれの我流を我が流に仕立ててみたいと密かに思っているのだが・・・・

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もしかしたら・・・・光太郎?

2011-09-02 22:21:19 | 徒然

                            我が家の黒うさぎ

何を見ようとサーフィンしていたのか、全く偶然に高村光太郎の木彫の「兎」に遭遇した。思わずオッと声をあげて妻に声をかけた。高岡市美術館で行われている「企画展「抱きしめたい!-近代日本の木彫展」の写真http://www.e-tam.info/tenji-k.html#mokutyouである。

我が家に鋳造の「黒兎」の像がある。以前ブログでも書いたが、妻が母方の祖母の家から持ってきたものだ。        
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/c0062275b57a236e3947eea2a65eec81
祖父なる人については妻もよく知らないらしいが、画家であったという。ひょっとしたら祖父の作品ではないのかと思っていたが・・・これはどうも光太郎ではないのか。
画像を見た妻も「いや~そっくり」と驚いている。

私はすっかり「光太郎の鋳造作品だ」と思い込み、鋳造だから世の中には数百(?)の兄弟が居ると思われるが、なんとかこの黒兎の身元を捜索したいと思っている。

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光秀陣城跡

2011-09-01 08:45:26 | 保存

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110804000132/print

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高麗門遺構・・・

2011-09-01 08:37:33 | 新聞

        http://kumanichi.com/news/local/main/20110831003.shtml

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