護貞様の御著「魚雁集」に興味ある一文がある。「吾が家の人口」というものだが、細川家略系図作成の過程でいささか疑問に感じることがある。
1、初代・藤孝公から護久公までの約330年間の於ける子供の数は111人である。
2、側室がいないのは初代藤孝公と、七代宗孝公の2人である。 とされるが、
(1)については若干の食い違いがあり、頭を悩ませている。夭折された方が結構多くこの数が影響していると思うのだが。
又、忠興の子供については、綿考輯録が暴露(忠興公・下 p372~375)している忠興晩年の子二人は、当然の事ながら入っていないのだろう。
(2)については、このブログで何度か書いたが、有岡城で黒田如水が幽閉されていた折、懇ろな取り扱いを感謝された加藤又左衛門重徳の二男が如水の養子となり三奈木黒田家(12,000石)となるが、その加藤家の系図に次のような書き込みがある。(その他細川家とかかわりある事項を記す) 伊丹家・加藤重徳家と細川家がかなり近いことを感じさせてくれる。 細川兵部太輔藤孝室 については細川家側には当然その詳細は見受けられないのだが・・・・・ありえない話と切り捨てるにはいかない史料である。
細川忠興
∥------古保
+---郡宗保---藤(松の丸)
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伊丹親保--+-----●
∥
+---加藤重徳----+---加藤吉成・図書
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| +---黒田一成(三奈木黒田家)
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| +---●(細川家士・黒田蔵人室)
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| +---●(細川家士・藪内匠忠綱室)
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+---女子 細川兵部太輔藤孝室 法名大法院日周 越中守忠興母也
忠興側室・松の丸の事については、綿考輯録の荒木村重謀反の記事に詳しい。
郡主馬宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕ハれ候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠興君の御前様へ被遣候、おこほ
殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云う