津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家略系図作成--余談

2011-12-19 13:17:31 | 史料

護貞様の御著「魚雁集」に興味ある一文がある。「吾が家の人口」というものだが、細川家略系図作成の過程でいささか疑問に感じることがある。
           1、初代・藤孝公から護久公までの約330年間の於ける子供の数は111人である。
           2、側室がいないのは初代藤孝公と、七代宗孝公の2人である。                とされるが、

(1)については若干の食い違いがあり、頭を悩ませている。夭折された方が結構多くこの数が影響していると思うのだが。
又、忠興の子供については、綿考輯録が暴露(忠興公・下 p372~375)している忠興晩年の子二人は、当然の事ながら入っていないのだろう。
(2)については、このブログで何度か書いたが、有岡城で黒田如水が幽閉されていた折、懇ろな取り扱いを感謝された加藤又左衛門重徳の二男が如水の養子となり三奈木黒田家(12,000石)となるが、その加藤家の系図に次のような書き込みがある。(その他細川家とかかわりある事項を記す) 伊丹家・加藤重徳家と細川家がかなり近いことを感じさせてくれる。 細川兵部太輔藤孝室 については細川家側には当然その詳細は見受けられないのだが・・・・・ありえない話と切り捨てるにはいかない史料である。


                     細川忠興
                         ∥------古保         
          +---郡宗保---藤(松の丸)
          |
   伊丹親保--+-----●
               ∥
          +---加藤重徳----+---加藤吉成・図書
          |           |
          |           +---黒田一成(三奈木黒田家)
          |           |
          |           +---●(細川家士・黒田蔵人室)
          |           |
          |           +---●(細川家士・藪内匠忠綱室)
          |
          +---女子 細川兵部太輔藤孝室 法名大法院日周 越中守忠興母也

 

 忠興側室・松の丸の事については、綿考輯録の荒木村重謀反の記事に詳しい。

    郡主馬宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕ハれ候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠興君の御前様へ被遣候、おこほ
    殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云う

 

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正岡子規 言葉と生きる

2011-12-18 18:26:54 | 書籍・読書
       正岡子規 言葉と生きる (岩波新書)

             岩波書店


            最近俳句のほうは全く不作です。歳時記を眺めてみても、まったく浮かびません。
            やる気を無くしているのでしょうか。しょっと刺激を与えてみようと・・・・

            話は変わりますが「坂の上の雲」の子規役の香川照之は役作りのために18キロ(?)痩せたんだそうですね。
            横顔がびっくりするほど似ていて、彼の役者根性に脱帽しました。
            今日はいよいよ、「艦隊見ゆ」ですね。

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細川家略系図作成

2011-12-18 17:43:55 | 史料

 昨日から「細川家略系図」の再製に向けて作業に入りました。都合8時間ほど掛けて、一応の形ができましたがチェックが大変です。商売道具であるCADを使っての作成です。上下方向は13~14代、左右方向は65列、普通は宗家を縦一列にして書くのが普通ですが、今回は養子の関係は無視してそれぞれの家の父子関係を重視して書いていました。そうすると現在の細川宗家がまさしく宇土細川家の家系が濃厚であることが一目瞭然です。
細川家と近衛家の関係も宇土細川家が強く関係していることもわかります。ガラシャ夫人の血が9代治年で途絶えたことも良く理解できます。
忠興公が愛してやまなかった立允(立孝)の系列が10代以降の宗家となっています。都合227名の略系図となりました。
完成の暁にはPDFでデータをご提供できるようにしたいと思っています。

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memo上田久兵衛家初代周辺

2011-12-17 12:00:00 | memo

         山本源五左衛門      源左衛門
         勝安---+---------勝命・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・家老松井家臣山本家
          |   宮本武蔵二天一流・五輪之書相伝
          |
          +-------●      +---●(山本家に嫁ぐ)
           初代   ‖     |  二代
          +--上田忠左衛門-----+---久兵衛・・・・・・・・・・・→細川藩家臣・上田久兵衛家
          |         |
          |         +---加左衛門
          |         |   ↓
          +-------弟=========加左衛門------○ 15・6歳男子
             平戸在住     |                            
                    |
                    +---忠蔵

 

上田久兵衛家の初代、忠右衛門に関する消息(細川家文書・御印之物 2-1)
 
明日上田忠左衛門出入御直ニ可被御尋旨被仰出候、左様二御座候ハバ忠左衛門二番めの世がれ加左衛門と申者平戸に忠左衛門弟居申候ニ養子ニ遣置申候が此中参居申候、又拾五六二成申せがれも壱人御座候、両人共二何もへ御預ケ可被成候処奉得御諚候、以上
    二月九日        西郡刑部少(花押)
                    浅山清右衛門(花押)
      飯田才兵衛殿
 (裏面)
平戸のハ他国之者ニ候間人ニあつけ候事ハなりましく候、今一人ハ誰ぞニ見合あつけ可申候、平戸のもやと可有之候間、やとよりわきへ参ましきよし申付、其もいやニ候ハハ帰候へと可申候、以上

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明治三年熊本藩坐班式

2011-12-16 15:42:52 | 史料

    藩政末期の座班についてのお問い合わせがあったので、「新熊本市史・史料編-第三巻」から引用してここにご紹介する。

 

    坐班式

一等官
 ・松井家
 ・米田・佐々木両家              注:佐々木とあるのは三家老・有吉氏の事である。
 ・松井家嫡子
 ・大参事
 ・米田・佐々木両家嫡子                       同上
 ・一等官同列

二等官
 ・諸局主宰 小笠原仁七郎・溝口三伍ハ一等官同列
 ・番士大隊長
 ・番士総隊長
 ・留守総長
 ・権大参事
 ・一等官免席
 ・組外
    一等官二代目
 ・組外同列

三等官
 ・二等官免席
 ・上着座
    持座
 ・上着座同列
    一等官嫡子
    大砲総隊長
    小銃大隊長
 ・中着座
    一門二男・末子弟
    松井家二男・末子弟
    米田・佐々木両家二男・末子弟
    佐敷番士長
    重士隊長
    番士隊長
    留守隊長
    二等官二代目
    一等官三代目
    上着座免席
 ・中着座同列
 ・比着座
    旧禄三千石以上持座
    同列持座
    八代番士長
    大司儀
    中小姓隊長
    少参事
    家令
    内家着座
    中着座免席
    持座
    一等官二男・末子弟
 
四等官
 ・一等小銃隊長
 ・権少参事
 ・公用人
 ・一等小銃隊長同列
 ・家扶
 ・監察
 ・二等小銃隊長
 ・同列
 ・留守中小姓司令
 ・別手銃隊長
 ・大砲隊長
 ・三等小銃隊長
 ・同列
 ・少司儀
 ・同列
 ・重士隊指揮士
 ・大砲副隊長
 ・小銃隊副長
 ・大組附
    持座
    上着座二代目
    中着座二代目
    比着座二代目
    持座
 ・川尻市令
 ・留守徒士司令
 ・留守大組附
 ・三等官嫡子
 ・二等官二男・末子弟
 ・大従
 ・新屋形大従
 ・内家四等官同列
 ・番士隊組脇
 ・留守隊組脇
 ・八代番士組脇
 ・八代番士隊
 ・佐敷番士組脇
 ・学監
 ・川尻・鶴崎兵隊長
 ・工作司長
 ・郡監
 ・鞫獄司長
 ・郡宰
 ・記室幹事
 ・会計局主計
 ・二丸屋形内傳
 ・内傳
 ・新屋形内傳
 ・隅屋形内傳
 ・重士大隊幹事
 ・衛卒長
 ・時習館訓導
 ・武庫司長
 ・厩牧司長
 ・四等官同列
 ・連枝附大従

五等官
 ・少従
 ・新屋形少従
 ・諸市令
 ・医師司令
 ・侍読
 ・医学提挙
 ・侍医
 ・同列
 ・時習館訓導
 ・五等官医師
 ・同列
 ・記室幹事
 ・会計局主計
 ・諸務少従
 ・新屋形諸務少従
 ・内家五等官
 ・茶道
 ・修築司長
 ・郡監試補
 ・諸観察
 ・小銃大隊幹事
 ・儀衛士
    重士上班
    時習館 句読師・習書師
    諸師範 兵学砲術 調役
    練兵場監押
    糾問士
    奉行所録事
    騎射検見
    練兵所倡役
 ・重士首座
    大砲隊指揮士
    小銃隊指揮士
    従士隊伍長
    時習館各斎長
 ・重士
 ・奉行所録事
 ・雑税士・米銀司録事
 ・吟味役
 ・郡中吟味役
 ・大司儀附属録事
 ・内官
 ・少参事触五等官
 ・少参事触五等官准席
 ・番士隊
 ・留守隊
 ・留守隊准席
 ・留守隊長之支配
 ・司馭
 ・八代番士
 ・佐敷番士
 ・連枝附五等官

六等官
 ・中小姓組脇
 ・少従
 ・新屋形少従
 ・諸務少従
 ・新屋形諸務少従
 ・侍読
 ・医学提挙
 ・侍医
 ・時習館訓導
 ・六等官医師
 ・同列
 ・諸監察
 ・儀術士
 ・内家六等官
 ・茶道
 ・重士上班 五等官之通
 ・重士首座   右同
 ・重士
 ・組附中小姓
 ・組附中小姓列
 ・奉行所録事
 ・雑税司・米銀司録事
 ・吟味役
 ・郡中吟味役
 ・生産司録事
 ・大司儀附属録事
 ・六等内官
 ・少参事触六等官同
 ・同准席
 ・司馭
 ・連枝附六等官
 ・留守中小姓組脇
 ・留守中小姓上班
 ・留守中小姓
 ・留守中小姓准席
 ・家禄当前之扶持ヲ受ル十四歳以上之者
 ・四等官之嫡子并三等官ノ二男末子弟 
 ・五等官之嫡子并四等官ノ二男末子弟 
 ・六等官之嫡子并五等官ノ二男末子弟
 ・六等官之二男・末子弟
 ・留守隊員外
 ・留守隊員外准席
 ・留守隊員外准格
 ・医師之子
 ・茶道之子
 ・留守中小姓同列
 ・留守中小姓同列准席
 ・留守隊員外之嫡子
 ・留守六等官准席

七等官
 ・目見医師ヨリ独礼以上

八等官
 ・歩小姓以下ヨリ一領一疋以上

九等官
 ・別手足軽以下苗字帯刀以上

右之通、官等役目被改、七等官以下者是迄之通被仰付置候、尤根取者録事、物書者筆生と被改、其呼役目ニ御字相省可申事、以上
   (明治二年)十二月

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羊我=ボランタリー

2011-12-16 10:01:20 | 徒然

  ある番組で磯田道夫氏は「義」という概念には、ボランタリーという意味合いが包含されていると仰る。

 祖父が残した一本の軸と、あまり上手とも思えない句を記した一枚の色紙に残された雅号が羊我である。何故こんな雅号をと思いながら気にも留めずにいたのだが、あるとき軸をしみじみ眺めていたら、「何~んだ」と気づきちょっと笑ってしまった。これはおふざけではないかとおもったのである。祖父の名前は義雄、つまり義の字を上下に分けて書いただけのことであった。(と思った) 義の字は父の名前にもつけられ、私の長男の名前にもつかっているのだが、これがちゃんとした裏づけがあるというのを知ったのはつい最近のことである。

 義とは「己の威儀なり、我+羊の会意」とあった。字義としては、「かどめを立てる」ということらしい。

 

                                       義

                         http://www.konton.net/kanji/161_8.html


「義を見てせざるは勇なきなり」はまさにボランタリーの発露であり、今の時代にこそ「義」ということが求められている。
「羊我じい様」に一本取られた思いである。

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九州国立博物館特別展 珠玉の永青文庫コレクション「細川家の至宝」

2011-12-16 08:31:25 | 展覧会

         特別展『細川家の至宝 ~珠玉の永青文庫コレクション~』

                             http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s26.html
                             http://www.kyuhaku.jp/event/event_111012.html

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御恵贈御礼--記憶の歴史学 史料に見る戦国

2011-12-15 15:10:00 | 史料

 

記憶の歴史学 史料に見る戦国 (講談社選書メチエ)
          金子 拓
          講談社

              東大史料編纂所の金子拓先生から、御著 記憶の歴史学 史料に見る戦国 」をご恵贈たまわった。
              私ふぜいの市井の単なる歴史好き人間にお心遣いをいただき感謝申し上げる。
              ちなみに先生のブログもご紹介しておく。http://d.hatena.ne.jp/kanetaku/201112

 

内内容(「BOOK」データベースより)

「歴史」はどのようにして生まれるのか。本能寺の変、細川ガラシャ自害事件など、さまざまな文書、日記などに記された人々の記憶が一つの歴史上の事件として定着してゆくプロセスを探る。
目次
  はじめに
  第一章 史料学と記憶
     1、史料としての人間の記憶
     2、日本前近代史のなかで集合的記憶を考える
  第二章 記憶と史料と歴史のあいだ
     1、史料と歴史的事実
     2、史料同士のすれ違い
     3、歴史が記憶にたどりつく
     
  第三章 歴史をつくった記憶
     1、大田牛一の視点
     2、細川家の視点
     3、史家の相対比と記憶
  第四章 記録と記憶
     1、記憶が日記になる瞬間
     2、記録の改変と記憶(一) 「断腸亭日乗」のばあい
     3、記録の改変と記憶(二) 「兼見卿記」のばあい
  第五章 覚書と記憶
     1、覚書の時代
     2、上杉家の集合的記憶
     3、上杉家・佐竹家と大坂の陣

  第六章 文書と記憶
     1、岩屋家と岩屋家文書
     2、岩屋家相論と文書のゆくえ
     3、文書から生まれる記憶

  終章 歴史と記憶                                                      

 

              
     
 

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如何したものか

2011-12-15 08:16:04 | 徒然

                           

十年ほど前、CADで作成した細川家系図なのだが、PCの故障でデーターを喪失してしまった。
最近、資料を整理していたらプリントアウトしていたものが出てきてちょっと感激・・・・
A2判にようやく収まっている。よくやったものだと呆れるし、私の歴史馬鹿はこのころからスタートしている。
いろいろ書き込みがあり完成に至っていないことが判るが、さてこれを復元するにはちょっと勇気がいる。
どうする津々堂

 

 

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赤穂民報

2011-12-14 20:14:54 | 徒然

 赤穂民報の独占取材の記事らしい。築地本願寺が収蔵する赤穂義士・間新七の槍が一部関係者に公開された。

http://www.ako-minpo.jp/news/5889.html

このことをお知らせいただいたのは、北海道室蘭在住の畏友・近藤健氏、あの「コーヒーブレイクエッセイ」でおなじみの、サラリーマンエッセイストである。今まで非公開とされてきた「間新七の槍」なのだが、近藤氏が大学時代の親友であるニューヨーク在住の僧侶・中垣顕實氏に頼み込みこれが実現したという奇跡的出来事である。
近藤氏は又、赤穂義士・堀部弥兵衛を解釈した米良市右衛門のご子孫でもある。赤穂義士研究家の佐藤誠氏と親しくされているが、「何とか見る手立てはないものか」というつぶやきが発端となってのことであるというから、まさに素晴らしい人つながりでの実現となった。

中垣顕實氏については近藤氏の次のようなエッセイがある。http://www.kitanihon-oil.co.jp/pc/essay/ny_bo-zu.htm
中垣顕實氏には次のような著作もある。http://www.cocosachi.jp/events/2010/06/post-48.html

今日はNHK「歴史秘話ヒストリア 巻き込まれた人たち-三つの裏忠臣蔵」がある。佐藤誠氏が歴史検証にあたられている。
あと二時間ほどである。

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各々方討ち入りで御座る

2011-12-14 13:53:17 | 歴史

                                

                                       ウイキペディアより

 今日は赤穂義士の吉良邸討ち入りの日である。本当は15日午前4時ころだとされる。(14日とするのは日の出から翌日の日の出までを一日とする習慣による)無事討ち入りをとげた義士たちは四大名家にお預けとなる。細川家は17名の義士を預かることとなるが、その生害まで世話役を務めたのが堀内傳右衛門である。彼が記した覺書などが、義士研究に大きな役割を果たしている。
以下の如く国会図書館の近代デジタルアーカイブスで見ることができる。

                   堀内傳右衛門覺書  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766735/148
                   御預人記録一巻    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766735/174

細川家は三宅藤兵衛以下家士36名、足軽100人余、駕籠17丁、予備駕籠5丁などで物々しく向かえたと記されている。
藩主綱利は夜半の事とはいえこれを向かえ、大石以下の者に直接懇ろに声をかけたという。
豪放な気質の綱利はその取り使いにも気を使っている。江戸っ子たちは「細川の 水の(水野和泉守)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と、細川家と水野家の取り扱い振りを賞賛している。

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新説 歴史法廷 本能寺の変に異議あり!光秀は悪人ではない!?

2011-12-13 13:37:32 | 徒然

12月13日(火)19:00~19:54 BS日テレ「新説 歴史法廷 本能寺の変に異議あり!」
       金子拓氏(東大史料編纂所助教)VS小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)

              http://www.bs4.jp/guide/entame/igiari/

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待望の展覧会

2011-12-13 08:53:56 | 展覧会

   松井康之没後四百年を記念して「戦国武将・松井康之の軌跡」展の開催が決定した。二度・三度と足を運ばなければならないようだ。



          

                 平成24年1月17日(火)~3月18日(日)会場/八代市立博物館未来の森ミュージアム第2常設展示室      

                              細川家を支えた名家老の実力を見よ!

                     出品リスト  http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/pdf/yasuyuki.pdf

                解説シート  http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/pdf/yasu@.pdf


   

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「あご」という場所

2011-12-12 10:11:13 | 歴史

                                       

幽齋公の田邊城籠城に際して忠興公は数度にわたり密使を送っている。其詳細はつまびらかではないが、中津海五郎左衛門は織田常真(信雄)の家臣・小崎図書を頼み、その息・兵次郎の手を借りて見事城内に入り役目を果たしている。史料は次のように記している。

「関東より著仕候処、敵の番所堅固にて、城に入難く候へとも、日比よく案内をよく存候ニ附き、あごと云海辺北の口より、夜半しのひ入、忠興君の御書を差上、関東の様子具に申上候、此両人は八月三日三島より、忠興君・与十郎殿御使として被差越候、越前に廻り、大野宰相秀雄卿 常真の御嫡子・参議従三位、慶長十五年八月八日逝 之内、小崎図書方へ被頼遣候処、折節上京せしに図書子兵次郎 後ニ又兵衛、一ニ図書弟と有 斐々々しく頼まれ、中津海を供につれ、関所々々を通り、田辺に至り候となり」

このあごという場所が判らずにいたのだが、舞鶴地方史研究会応援ブログ にお尋ねすれば判るのではないかと思い、投稿欄にコメントを入れた。早々に次のような回答を頂戴した。関係者の皆様に感謝申し上げる。

「あご」というのは中世の地名「安居」で、現在の字上安久・下安久です。西舞鶴の伊佐津川河口付近ですが、当時は伊佐津川はなく入江でした。現在は下安久に吉原という漁師町がありますが、これも当時は無くて芦が一面に生えている湿地でした。そこからだと城まで400mほどです。

関東よりの使者は、城を取り囲む12,000ともいう攻手の背後から海上を経て、夜に至りこのあごという海辺に入ったのであろうか。綿考輯録は「御使忍入候事、如何して敵方へ聞へ候哉、城より五町はかりにて、一夜の内に東西南北一間々々に柱を建、もかりを結きひしく守り、海手は磯辺にももかりを結廻し、沖にハ番船数多うかへ、堅く出入をいましめ申候」と記す。

籠城時のことを記した古地図と、現在の地図を見比べながら想像をたくましくしながら、五郎左衛門の苦労を偲んでいる。

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オークション「家老・沢村宇右衛門宛」

2011-12-11 23:28:23 | 史料

 毎度の事ながら、落札しようとは思いませんが、興味深いものですね~。ただいま1,000円、あと6日です。

                   江戸前期 『 寺社奉行 小笠原長矩 書簡 (2) 』 肥後国 細川家_画像1 

 

                                 江戸前期 『 寺社奉行 小笠原長矩 書簡 (2) 』 肉筆 古文書

                       三河国吉田藩二代藩主 小笠原山城守長矩が熊本藩家老 沢村宇右衛門へ宛てた書簡です。  
                       小笠原家と細川家には姻戚関係があり、二代藩主 細川光尚の母は小笠原長矩の祖父 小笠
                       原秀政の娘であり、  また、姻戚のよしみといい、領国も境を交えている叔父の小笠原右近将
                       監忠真は、幼少の細川綱利のために国政の相談役を酒井忠勝に命じられたようです。  
                       書簡の内容からも、両家の付き合いがうかがえます。 署名は初名の忠根(ただもと)です。 


                       ○ 小笠原長矩 1624~  奏者番、寺社奉行。従五位下、山城守。
                         三河国吉田藩二代藩主。  母は多賀光定の娘、室は菅沼織部正定芳の娘。

                       ○ 沢村宇右衛門友好 1604~1667
                              熊本藩家老、1万4千3百石。筆頭家老 松井康之の甥。 はじめ松井庄次郎、右近ついで宇

                         右衛門と改める。 細川忠利の児小姓に召出され五百石。寛永十年 沢村大学吉重の養子と
                         なる。五百石加増、島原陣の功により千石加増、寛永十七年若年寄となり、二千三百石加増、 
                         都合四千三百石、のち一万四千三百石老中職、寛文五年六月辞任。同七年十月七日歿。
                         諡晴機院。

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