津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

中村汀女と大名塘

2011-12-11 08:51:27 | 熊本

 先に熊本県立図書館(旧・細川内膳家下屋敷跡)にある芭蕉林の中に、高濱虚子の句碑があることを書いた。その句碑の落成式の時、虚子の次女の星野立子が出席している。この場所から江津湖を挟んだ対岸のやや下流の所に、中村汀女の生家がある。汀女はこの江津湖周辺をモチーフにして幾多の俳句を作っている。
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月などという名句も、発想の原点はここにあると私は思っている。

汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女をして四Tと称するのだそうだが、星野立子は「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」といったとされる。ちなみに「汀」という字は「みぎわ」と読み「水際」を意味する。江津湖の清らかな水際で、汀女の豊かな感性は育まれた。

http://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%9F%E6%B4%A5%E6%B9%96&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=TO7jTp63CPGtiQetlJi2BQ&ved=0CFoQsAQ&biw=1280&bih=929

 最近はご多分に漏れず水質が悪くなったこの江津湖も、かっては阿蘇の伏流水が湧き出る水清らかな湖沼であった。瓢箪のようにくびれた湖沼は上江津湖・下江津湖とわかれ、くびれの部分に「齋藤橋」という橋が掛けられている。中村汀女の旧姓は齋藤(破魔子)であるが、其の実家はこの土地の名家であり齋藤家によってこの橋が掛けられたため、「齋藤橋」と名づけられている。かっては木橋であったが私の少年時代、釣りや水遊び等の格好の遊び場だった。狭かった道も今では「東バイパス」と呼ばれる熊本市の大動脈が通り抜け、橋も立派なコンクリート橋となった。その橋銘の由来を知る人もそう多くはないだろう。

 この橋から下流側の堤を「大名塘」と云ったそうだ。加藤清正の時代洪水の常襲地帯であったこの地帯の庄屋が、堤を作ってくれるよう願い出た。1,000石以上の侍の奉仕に依り立派な堤が出来「大名塘」と名つけられた。完成に当りその庄屋が人柱とされたと伝えられる。私の全くの憶測だが、その庄屋とは齋藤氏ではないのかと思うのだが・・・・・

 

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オークションにて

2011-12-10 09:30:21 | 書籍・読書

 甘露書房のオークションで二冊の本をゲット、皆さんが目をつけている本を競り合っておられるのを横目に、本当に欲しい本を安く落札するのが私の流儀、本が届くのが楽しみ・・・・

国絵図   ■ 国絵図 川村博忠著(定価2,600円)   吉川弘文館 (1990/11)


                         ■ 
句集 長子 中村草田男 復刻版付録付き(定価3,800円)

                        
こちらはヤフーオークションから 

夏姿 永井荷風著 S22年 初版函付          ■ 永井荷風 夏姿

           これは発禁問題になった本、ちょっと興味が湧いて「即落札」で手に入れる。
           
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_20-1/RitsIILCS_20.1pp153-159ASAOKA.pdf

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大組について

2011-12-10 09:07:00 | 史料

細川藩に於いては軍制のなかに「大組」というものがある。
明和六年の武備を見ると「御留守居組」の留守居大頭(2人)の下に「大組附」がある。番頭・着座・中小姓觸頭・切米取支配頭・掃除頭・物頭列・浦番・郡代・天守方などと組織図上は同列に記載されている。
               http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/26b6cd4337283944e1bf8b4d0278c682

                      
時代が下っての番方組織図を見ると、御備組(主戦闘部隊)に備頭(6人)の下に着座がありその下に大組が配されている。又御留守居組(留守部隊)にも城代(2人)の下の大頭(2人)の下に、御備組と同様着座の下に大組が配されている。
               http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/231477ec06ef22cc662bab86cb5d1529

大組とは果たして何なのか。ヒントは「嗣蔭令」の中にあった。
嗣蔭令(http://www.shinshindoh.com/shiinrei.htmは一門、一ニ三家老、家老、中老、備頭・側大頭・留守居大頭并同列、組外、着座以下、藩士の座班を決めたものである。重賢公代に定められた。この中から大組に組み入れられる人は次のようになる。

 家老 (一・二・三家老外)
一、家老ハ三家老之次席之事
一、嫡子ハ組外同列上席之事
一、二男・末子・弟比着座、用人次席之事
一、二代目ハ組外、三代目ハ中着座、留守居大頭同列二代目之次席、四代目ハ比着座、留守居大頭同列三代目之次席、五代目大組之事

 中老
一、中老二三家老嫡子之次席之事
一、嫡子ハ中着座・上着座免職之次席之事
一、二男・末子・弟ハ大組付末席之事
一、二代目ハ上着座定席之次席、三代目ハ留守居番頭次席、四代目大組付上席之事
一、家老・中老ハ、老衰辞職之節直ニ隠居可申付事備頭・側大頭・留守居大頭并同列
一、二代目ハ中着座、三家老二男・末子・弟之次席、三代目ハ比着座上席、四代目大組付之事
一、嫡子ハ比着座、八代番頭上座之事
一、二男・末子・弟ハ、着座之嫡男之次席之事
一、勤労等ニ応し老衰辞職之節、直ニ隠居之儀、其節々臨時ニ可申付事

 組外同列
一、二代目比着座、禄三千石以上同列定座之次席、三代目ハ大組付之事
一、嫡子比着座、家老二男・末子・弟之次席之事
一、二男・末子・弟ハ、着座之二男・末子・弟ニ准候事

 着座
一、松野主殿・木下平馬・津川平左衛門・三淵志津馬・楯岡源太左衛門・下津久馬・氏家甚左衛門・沼田熊五郎・小笠原備前家ハ右如次第上着座之上席、世々定席之事
一、上・中・比着座并同列二代目ハ、大組付上席之次席ニ上・中・比之次第之通席次申付候事
一、禄三千石已上之者ハ、世々比着座家老四代目之次席之事
一、三宅平太郎家ハ、世々禄三千石已上定座之次席之事
一、西山大衛・槙嶋半之允家ハ、世々比着座同列末席之事
一、比着座已上之嫡子ハ、留守居大組付次席、二男・末子・弟ハ、者頭嫡子之次席之事
一、比着座已上役付之者老衰辞職之節、格別之勤労有之者ハ直ニ隠居臨時ニ可申付事
一、擬作遣之、比着座已上ニ申付置候者之二代目ハ留守居番方、三代目ハ中小姓二申付候事
  但、擬作高三百石之二代目ハ二十人扶持、四百石・五百石之二代目ハ二十五人扶持、或ハ三十人扶持可遣之事
一、右同三百石之三代目之中小姓ハ十二人扶持、四百石・五百石之三代目ハ十五人扶持、或ハ二十人扶持可遣之事右之各養子禁之、実子於無之ハ家類不
  飢様ニ臨時ニ可申付事    付、実子雖有之、右家累可令養育程之本家有之者ハ召出間敷事
一、比着座已上遺蹟幼若之者ハ、知行当前之見合にて扶持方遣之、留守居大頭組支配ニ申付置、及十五歳候上家督申付、留守居大頭組ニ召加、及十七歳
  備組ニ可召加事   但、抜群壮健之者ハ可為格別事


江戸留守居已下、佐敷番已上
一、禄二千石已上ハ、世々大組付ニ申付、大組末席ニ申付候家之上席之事
                                         ( 以下略)

このように、家老(一・二・三家老以外)、中老、組外并同列、着座等の子弟や、二千石以上の江戸留守居・佐敷番などが大組の資格者ということになる。
但し座班における大組資格者であっても、御備組・御留守居組・御側組において他のポストに据えられることもあるものと思われる。

 

 

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くまもんも冬支度

2011-12-09 12:56:42 | 徒然

                                        
                    http://kumamon-official.jp/goods/goods_detail?id=4481

 朝の一時太陽サンサン状態だったのだが、すっかり厚い雲に覆われ冬の気配が濃厚となってきた。阿蘇は-3.5℃とかいうし、熊本市内も日中10℃を下回るようで、慌てて靴下を履いたりカーデガンを着込んだりしている。室内で20℃を下回ることはまだ無いから暖房も必要ないのだが、こうだと早々に暖房機を準備しなければ成らないようだ。

 ゆるきゃら人気投票日本一となったわが「くまもん」も、マフラーなどして冬支度し冬眠の気配も無く元気いっぱいである。一方日本郵便では「くまもん切手」を発行したが、すぐ売り切れる状態で、私も昨日郵便局に出かけたのだが・・・振られてしまった。
                    http://kumanichi.com/news/local/main/20111208005.shtml

 某お寺でお墓の調査をしようとおもっているのだが、冷たい風に腰が引けている。

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どうなる高祖父・久兵衛の墓

2011-12-09 11:06:26 | 新聞

 今日の熊本日日新聞は、多くの歴史墓が存在する禅定寺の墓地1/3にかかる都市計画道路についての、県の今後の対応等について記事を掲載している。
               http://kumanichi.com/news/local/main/20111209001.shtml

記事にもある如く、加藤家・細川家時代の有力家臣の墓など多く残されており、墓域の1/3が削られることにつき檀家から猛烈な反対の声が沸きあがり、知事の指示に依り調査が行われるなど成り行きが注目されてきた。
熊本市の政令指定都市移行に伴い、この計画道路についても管理業務が移管されることになり、複雑な様相と成ってきた。
しかしながら、これまでの調査などで積み上げられた県の方向性は受け継がれると確信するが、どういう結論になるのか気になるところである。

高祖父・上田久兵衛のお墓も計画道路の中にあり、移転を余儀なくされるのかと心配しているのだが・・・・

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新書でお安く・・・日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ

2011-12-08 16:42:42 | 書籍・読書

  敬愛してやまない熊本在住の渡辺京二氏の著書である。洋泉社から新書版で発刊されていた。

 

 

 日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ (洋泉社MC新書)
                     渡辺京二
                     洋泉社

 

内容(「BOOK」データベースより)

日本のルネサンスともいうべき可能性をはらんだ室町後期の社会的活力を、血の海におぼれさせて出現したのが反動的、専制的な織豊政権ひいては徳川国家であり、日本の近代への胎動は徳川体制の下で窒息させられたという説はなぜ人口に膾炙したのか?戦国史学、とりわけ網野史観が流布させた戦後左翼の自由礼賛・反権力思考による錯誤を笠松宏至、勝俣鎮夫、藤木久志らの1990年代の研究成果に依拠しつつ徹底的に批判する。西欧近代を民衆意識の最も根源から乗り越えようとする著者の真骨頂を伝える「渡辺史学」の達成点!本書において戦国から徳川初期に至る壮大な歴史の再現に立ち会えると同時に単なる日本中世論を超えた現在的問題に繋がっていることを再確認させる。

内容(「MARC」データベースより)

中世は明るいのか、暗いのか? 百姓・侍・大名の関係はどうだったのか? 迷路のような中世史学を最先端まで辿りながら、戦国から徳川初期に至る壮大な歴史を再現する。自己衝迫の野心的試み。

 

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田邊城への密使

2011-12-08 08:27:05 | 歴史

小崎家を調査をする中で、幽齋公の田邊城籠城にさいし、忠興公が密使として派遣した人たちについて、色々な齟齬や良くわからない部分が出てきた。綿考輯録はこれらの使者について次のように記す。        

【捴て御籠城の内、忠興君より被進候御使者、森三右衛門両度、中津海五郎右衛門・小嶋六左衛門一度、魚住十助一度也、幽齋君よりは雲竜寺を御出し被成候外は、見へ不申候、但中津海は小崎兵次郎にたより、田辺に至、海辺より忍入候と有之、小島か事は小崎か家記にも見不申候、又一本には小嶋六左衛門名前一向に無之も有、委く不伝歟はかり難し・・・】

このうち中津海五郎右衛門と小嶋六左衛門は八月末(一ニ九月中旬)「関東より著仕候処、敵の番所堅固にて、城に入難く候へとも、日比よく案内をよく存候ニ附き、あごと云海辺来たの口より、夜半しのひ入、忠興君の御書を差上、関東の様子具に申上候、此両人は八月三日三島より、忠興君・与十郎殿御使として被差越候、越前に廻り、大野宰相秀雄卿 常真の御嫡子・参議従三位、慶長十五年八月八日逝 之内、小崎図書方へ被頼遣候処、折節上京せしに図書子兵次郎 後ニ又兵衛、一ニ図書弟と有 甲斐々々しく頼まれ、中津海を供につれ、関所々々を通り、田辺に至り候となり」とある。

中津海五郎右衛門については史料の示す通りであるが、父・三右衛門二男とハッキリしているが本人の直系は絶えたのか、「其跡不詳」と記す。また小嶋六右衛門については「一ニ小嶋六右衛門ハこれなし」とあり、詳細は明らかではない。

二度大役を果たしたという森三右衛門についての史料も見当たらない。実は森四郎次郎という人物があり、一族とともに米百俵を城中に入れ尽力したが一族十三人が討死したという。この四郎次郎の子孫に三右衛門の名があるが、時代が違い人違いであった。人物の特定ができない謎の人物である。また中津海五郎右衛門の為に尽力した小崎兵次郎について説明する綿考輯録に於いて、関係者の中に庄之助なる人物があり「後森三右衛門」とあるが、これが何者であるのか小崎家関係資料からもハッキリしない。綿考輯録編者に於いての誤記ではないのかと考えている。

都合五度に及ぶ忠興公の密使派遣は全てが成功したのではないようである。毛利伊勢守の家臣・毛利隼人(後、細川家召出、沼四郎右衛門)をたより城中に入った某は、城から出た跡村田加賀なる人物に捕らえられている。其の節は毛利隼人の機転の効いた処置に依り無きを得ているようだが、この某についてはハキとした資料が無いようだが、魚住十助ではないかとされている。魚住市正を祖とする二家、魚住加賀を祖とする三家、魚住半右衛門を祖とする一家、都合六家の魚住氏が侍帳に存在するが、この十助の名は見当たらず詳細不詳である。

援助に手を尽くした人たちは、それぞれ後に細川家に召しだされた。

小崎氏、毛利氏(後・沼氏)、興津弥五右衛門、井門亀右衛門、遠坂助右衛門などが尽力した。

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手習いや・・・

2011-12-07 09:28:48 | 徒然

                           

 

  夏目漱石の俳句に次のようなものがある。

            手習いや 天地玄黄 梅の花

 この「天地玄黄」という言葉は、三体千字文の書出しにある語句であり、漱石も三体千字文を手習いのお手本にしていたことが伺える。
私も随分以前にこれを買って(写真)、三体千字三千文字を毛筆で書き終わる頃には、随分習字も上達することだろうと思ったものだが、それこそ「天地玄黄」を何度か書いて終わりとなった。

 般若心経276文字にも数回チャレンジした。こちらはお経も諳んじていたのだが、最近はいささか怪しくなって時折カンペの世話になりながら口ずさんだりしている。処が口には出してもこれを書こうとすると至難の技である。平田清耕師の「仏教を読む-一切は空 般若心経」を座右にして、その文字と意味を追いつつ一日20~30文字を心を込めて書く これを理想としたのだがこれも頓挫・・・・・

 私は上妻博之先生の筆写文書を数多く読んできたが、膨大で貴重な史料を盲目に成らんとする現実の中で、あの達筆を以って写し取られた偉業に驚かされる。明治12年のお生まれとはいいながら、見事な御家流の文字にて昭和40年代までの数十年間、書き続けられたことに敬意を表するものである。

 最近は多くの先祖附を読む中、達筆・悪筆に出会いながら悪戦苦闘しているが、上手に書くことよりも筆になれる事が、読むという作業にも有効であると考えが至った。上妻先生の見事な流れるような文字はまさに天賦といったものであろうが、先祖附を金釘流で綴られる方の文字もその努力の程が伺えて微笑ましくなるのである。

 

            墨の香の文あたたかき 師走かな  津々

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御恵贈御礼--熊本藩士木村鉄太と侍ネット 他

2011-12-06 11:23:38 | 書籍・読書

 先日来メールをいただいていた、たまきな出版の代表・平田稔氏にお目にかかる。
その折に次の二冊の書籍を御恵贈たまわった。心から感謝申上げる。

   ■ 熊本藩士木村鉄太と侍ネット
           http://www.tamakina.ne.jp/tettanet01.htm

       万延元年熊本藩士・木村鉄太は遣米使節の小栗上野介に随伴し、其の類希なる洞察力をして正確かつ見事な
       図絵及び文章を書き残した。下に紹介する「万延元年遣米使節航米記」がそれである。
       その概略については崇城大学の松本寿三郎教授の下記の論考を御覧戴きたい。
       http://www.parea.pref.kumamoto.jp/koza/data/matsumoto/matsumoto_koza.pdf

       平田氏の今般の御著は、その木村鉄太の幕府遣米使節団の随員になることを可能ならしめた彼の行動や、援助の手を
       差し伸べた親族、熊本藩、高瀬町その他のネットワークを解き明かし、彼の壮図に花を添えられた。
       氏も又地元ゆえの強力なネットワークを駆使されての、広範な資料収集に依りこの著を上梓されたことが伺われる。
       ご一読をお勧めするものである。(購入については上記サイトを参照されたし)

   ■ 玉名歴史研究会「歴史玉名」第58号--平成23年冬季号

       こちらは氏が代表編集委員をされている、「玉名歴史研究会」の平成23年冬季号(第58号)である。
       それぞれに興味深い論考が掲載されており、飽くことを知らずに読了した。
       個人的には平田氏の「亀甲村鉄炮細工場はこの一帯にあった」である。比定された一帯は刀剣「同田貫」の刀工小山一
       族が住まいした場所であるが、私の姉がこの小山家に嫁いだ。詳しいことは承知しないが、畑を耕すと金くそという遺物
       を時折掘り起こすことが出来たと聞いた。まさかこんなところで鉄炮を作っていたとすれば驚きである。
       今後研究がかさねられ新事実を教えていただけるものと期待している。

平田氏は新たなテーマに向かって筆を進めておられる。その一端についてご質問を頂戴しているが、私ごときに声をお掛けいただいた事は光栄の極みである。確かな出典をお知らせしなければ成らない。

 

 

                                  万延元年遣米使節航米記 現代語訳 肥後藩士木村鉄太の世界一周記

 

                                    木村鉄太・著 高野和人・編訳
                                      出版 熊本日日新聞社

                                         発行 2005/04
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切支丹罰文

2011-12-05 08:57:47 | 歴史

 

 現在読み下しをしているU家の関係資料に、やたらと「切支丹」に関係する資料が多いことにきずいた。それと共に数家の細やかな系図が存在する。上妻博之先生の「切支丹」関係の史料を見てみると、U家のFなる人物が「転び切支丹」であることが判った。
本人は離國したのか絶家したのか、「転び切支丹」の追跡記録には登場してこない。しかしながら一族は長く、切支丹ではないことを一定の書式を以って藩庁に届け出ることが義務付けられていたようで、残された史料はその様式が記されたものであった。
諸家の系図も類族の届けのために作成されたものであることは、上妻先生の論考の中でも数多くの家の系図が詳細に残されていることからも伺える。下にご紹介する文は様式のひとつとして添付されたものと思われる「切支丹罰文(南蛮誓詞)」である。

(まず日本誓詞が書かれているが、現代においてはいささか不穏当な文言が含まれているので省略する)

 ていう春はて連ん飛い里よすい里つさんとを初奉り
 さん多まりや諸乃あん志よ遍あと野御罰越蒙り
 てう春野加らさ絶者て志ゆうたすの事/\た
 農毛しを失ひ後悔の一念毛起さゝすして人
 々乃嘲と罷成終尓頓死仕いん遍累の苦患尓責
 ら連浮事有御座満しく候 仍切支丹宗旨能
 志ゆら免ん之件如

記されているものをそのまま活字化してみたものであるが、お判りいただけるであろうか。

 ていうす、ばてれん、ひいりよす、いりつさんを初奉り
 さんたまりあ諸のあんしよへあとの御罰を蒙り
 てうすのからさ絶はてしゆうたすの事々た
 のもしを失ひ後悔の一念もきさゝすして人
 々の嘲と罷成終に頓死仕いんへるの苦患に責
 られ浮事有御座ましく候仍切支丹宗旨の
 しゅらめん之件如

大略このようになるが、どうもチンプンカンプンで理解できないで居る。何方かご存知であればご紹介いただきたい。
異教・異学の人たちはこの時代その名を負の遺産として一族に残した。現代の世の中では何の違和感もなく人々に受け入れられるものなのだが・・・・
時代が早すぎた先見の人たちともいえる。

   転びキリシタン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E3%81%B3%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3


 

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白スミレ

2011-12-04 16:42:03 | 徒然

                              種がとんで、株を増やすための松葉ボタンの鉢に定着しました。

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健気でしょ・・

2011-12-04 15:52:48 | 徒然

 駐車場の擁壁のコンクリートの打ち継ぎ部分からスミレが顔を出していました。随分暖かい日が続いて、我が家でも白いスミレが一輪綺麗な花を咲かせています。それにしても健気ですよね~。ちょうど車が入っていたので、僅かの隙間から無理な態勢でシャッターを切りましたから、写真の出来はご容赦下さい。

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細川家家臣--魚住氏(加賀流)

2011-12-04 10:18:53 | 史料

                                   IMG_1236.JPG

 慶長五年石垣原の戦に於いての功績により右衛門兵衛(加賀)は1,300石の加増を受け2,000石となった。
一方黒田如水からも感状をうけている。上の写真がそれである。この文書は勝門助家のご子孫が所持されている。
その勝門助家からこのたび沢山の文書のコピーを戴いた。細川家家臣略系譜には加賀の子孫は三家しか伺えないがその係累はその枝葉を大きく広げている。加賀流魚住氏のご先祖探しの一助になればと思い全てをUPする。

            +--久兵衛 (離國)
魚住加賀      |
 右衛門兵衛尉---+---與右衛門---+--杢之丞
            |          |                                         
            |          +--武右衛門---+--又助--傳四郎==又之丞==辰之丞--武右衛門--衛門太--賀門--賀衛
            |          |          |                              左源兵衛  勝門太  勝門助
            |          |          +--勘右衛門--勘助--梅助  (以下不明)
            |          |          |
            |          |          +--某(虎之助カ 早生)
            |          |          |
            |          |          +--十次郎
            |          |
            |          +--市郎右衛門--市郎右衛門--市郎右衛門--市左衛門--市大夫--藤七--万太郎--市郎右衛門
            |          |
            |          +--久太夫
            |
            +--與兵衛-----+--源右衛門--小右衛門--八大夫--源次兵衛--又大夫--源兵衛--堅次--信八--勝熊--太郎
            |          |
            |          +--角兵衛
            |          |
            |          +--小左衛門
            |
            +--藤三郎---------理左衛門
            |
            +--十助

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細川家家臣--小崎氏

2011-12-03 13:22:38 | 歴史

 一月ほど前、アメリカからメールをいただいたのが発端で小崎氏について調べ始めた。小崎氏は三家が明治に至っている。先祖附を取り寄せて読み下しを進めると、三家の記述に齟齬が見受けられ解明に苦労した。小崎家は幽齋公の田邊籠城の際、忠興公が中津海五郎右衛門を密使として田邊に送ったが12,000という軍勢に取り囲まれている城に入ることが出来ずにいた。その時頼ったのが大野宰相秀雄卿(常真織田信雄の御嫡子、参議従三位)の家臣・小崎図書である。あいにく図書は京都に在ったので、嫡子兵次郎が弄走して無事五郎右衛門を城内に入れるのに成功した。以下は兵次郎への感状である。

            尚々懸御目候ハヽ今度之御礼可申、以上
          東より我等者上へ遣申候処 小図ハ上ニ御入候
          ゆへ 無十方処ニ 色々様々御きもいりの由
          其者罷帰候 満足中々存ほとは御礼不得申候
          懸御目候而 可申述候 あまりに其後無音申候
          間 先一書申候 恐(々脱)謹言
             十月六日        は越中 判
                小兵二殿
                     御中

 その後兵次郎は病気になったらしく、忠興は懇ろな見舞い状を父・図書に遣わしている。(綿考輯録・藤孝公p220)

小崎兵次郎は忠興の豊前入国後召し寄せられているが、「兄弟はいないか」との仰せがあり、弟喜平次が共に召しだされた。

         +--彦次郎・・・・・・・・・幽齋から太鼓の相伝を受け、禁裏における能興行などに其の名前が見える
         |                http://www.kyuko.asia/book/b10386.html
         |                   http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/83_ookaw.htm
甚右衛門    |
   図書---+--兵次郎-------岡部道宇---庄之助---又兵衛(絶家)
    又兵衛 |    長豊
         |
         +--喜平次---+--次郎左衛門---+---甚右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・眞右衛門家
        太郎左衛門長正   |            |
                   |            +---太郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・太郎左衛門(弘道)家
                   |
                   +--孫右衛門----------傳右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・杢之助家

 

 杢之助家の先祖附によると、図書の嫡男・兵次郎、次男・喜平次とするが、彦次郎という人物が嫡男であったようだ。太鼓(おおかわと読むらしい)の名手として禁裏で行われた能興行の番附に其の名前を残している。遡ると家祖は岡部次郎左衛門であり忠次郎→甚右衛門(図書)と続いていく。

今川義元--武田信玄・勝頼--織田信長・信雄に仕えて乱世の世を渡っている。織田信雄代小崎の姓を頂戴したとされる。
太郎左衛門家の弘道氏は東京霊南坂教会を作った方で、「伝記・小崎弘道」において弘道氏は小崎の姓は細川時代とされるがこのあたりにも齟齬がみえる。又其の先祖を藤原鎌足の末裔・岡部六彌太だと記されている。先祖附では見受けられないところだが、今後の課題である。宇城市中村に先祖累代のお墓が在り、岡部氏のものも存在するいう。

 

 

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観世音菩薩でしょうか

2011-12-02 13:17:03 | 徒然

                                     少し前かがみの良いお姿なのですが、そのうちに取り直して差し替えます。

 我が家は昭和19年、祖父母と父の三人が病没した。その時細川家から頂戴したという小さな木彫の仏像がある。もともとは御厨子に入っていたものだが、昭和28年の熊本大水害で壊れてしまい、仏像のみが残された。わずか75ミリという高さの仏様だが、見事な紫檀の彫刻である。左手には何か持っておられたのだろうと思われる痕跡があるが、水害の時痛めたものであろう。(右耳も少し傷がついた)
 長い間仏壇の中にあったものだが、母が亡くなってから取り出しお掃除をして、現在は私のデスクの脇に何時も置いている。
へんな座の上に御立ちいただいているが、これは私が最初使っていたPCを解体した時に出てきた部品である。金の棘の様なものが並んでいるが丁度中央部が仏様が納まるくらいに空いていたため、ボンドで接着したという、お粗末な取扱いである。(しかし重量があって安定感はこの上ない)

 この仏像がどのような類のものなのかずっと判らないでいる。お寺さまや仏具店などにお尋ねすればすぐ解決する話なのだが、ものぐさの私ゆえ気に成りながらの数十年である。実は今日は某お寺の掃苔を予定していたのだが、その折にお持ちして見て頂こうと思っていたのだが・・・朝から気分が勝れず急遽お断りをした。(不信心の故であろう)

 私は時折、般若心経を唱えたりする。一時期完全に暗証していたのだが、最近随分怪しくなったので再チャレンジが本当のところである。「観自在菩薩行深般若波羅密多時・・・」と唱えながら仏様を見ると、まさしく観自在菩薩(観世音菩薩)と思えてくるのだが如何であろうか・・・

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