先に熊本県立図書館(旧・細川内膳家下屋敷跡)にある芭蕉林の中に、高濱虚子の句碑があることを書いた。その句碑の落成式の時、虚子の次女の星野立子が出席している。この場所から江津湖を挟んだ対岸のやや下流の所に、中村汀女の生家がある。汀女はこの江津湖周辺をモチーフにして幾多の俳句を作っている。
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月などという名句も、発想の原点はここにあると私は思っている。
汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女をして四Tと称するのだそうだが、星野立子は「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」といったとされる。ちなみに「汀」という字は「みぎわ」と読み「水際」を意味する。江津湖の清らかな水際で、汀女の豊かな感性は育まれた。
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%9F%E6%B4%A5%E6%B9%96&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=TO7jTp63CPGtiQetlJi2BQ&ved=0CFoQsAQ&biw=1280&bih=929
最近はご多分に漏れず水質が悪くなったこの江津湖も、かっては阿蘇の伏流水が湧き出る水清らかな湖沼であった。瓢箪のようにくびれた湖沼は上江津湖・下江津湖とわかれ、くびれの部分に「齋藤橋」という橋が掛けられている。中村汀女の旧姓は齋藤(破魔子)であるが、其の実家はこの土地の名家であり齋藤家によってこの橋が掛けられたため、「齋藤橋」と名づけられている。かっては木橋であったが私の少年時代、釣りや水遊び等の格好の遊び場だった。狭かった道も今では「東バイパス」と呼ばれる熊本市の大動脈が通り抜け、橋も立派なコンクリート橋となった。その橋銘の由来を知る人もそう多くはないだろう。
この橋から下流側の堤を「大名塘」と云ったそうだ。加藤清正の時代洪水の常襲地帯であったこの地帯の庄屋が、堤を作ってくれるよう願い出た。1,000石以上の侍の奉仕に依り立派な堤が出来「大名塘」と名つけられた。完成に当りその庄屋が人柱とされたと伝えられる。私の全くの憶測だが、その庄屋とは齋藤氏ではないのかと思うのだが・・・・・