細川藩には「在宅」という制度がある。地方勤務の者以外は、本来家士は城下に住まうのが原則であるが、藩財政のひっ迫を受けて、城下を離れて地方に住まうことが許されるようになった。これがいわゆる「在宅」と呼ばれるものである。
地方に住むことによって家政の立て直しをすることが第一の目的であるが、そのほかにも城下における住宅不足なども影響している。
火災や風水害などが原因であろう。
文化十一年藩が調査した四百石取以下の「一年間暮らし方見積もり」という興味深いものがあるが、これによると二百石以下の家では1石から3石の赤字であることが記されている。
在宅の制度は五百石以下に許されたものであるが、全家士の20%に及ぶともいわれ、約88%が二百石取以下の家であり、上記見積りの正しさが裏付けられている。
K家に残された宝暦の改革の目玉ともいえる「知行世減」を伝える文書である。
忠興公代家士の扶持は、その人物の勲功によるもので家督相続もない一代限りであった。忠利公の代に及んで父子相続が定められ、忠興公(三齋)をして嘆息せしめた。
凡庸なる人物でも家禄として継承され、才能ある人物でも加禄されて重用されることはなかった。
藩の財政が危機的な状態になるに及んで、慶安三年を境にしてそれ以前の被官の者を旧知、それ以降の者を新知と称して知行の世減が行われた。
宝暦の改革により一時期財政の好転が見られるものの、その後再び悪化をみるのだが、旧知の家に改革の手が及ばなかったことが一因であろう。
さらに時習館での勉学がおろそかであったのも大身の家や旧知の家が多かった。
今日は史談会の7月例会、会員のK氏による長瀬真幸著「山わけ衣」の第二回目である。
和文で書かれた古文で、国学者の著らしく万葉集からの引用や古いやまと詞など、その釈文の完成までにはK氏のご努力がしのばれる。
注釈なども微細にわたっており、感じ入ってしまった。一回目・二回目ともやや時間不足があったことは私の責任である。
しかしながらこのような難題を会員の手で終えたことは、我が史談会の誇りである。
相も変わらず史談会が終わると疲れがどっと来る。台風一過と共に梅雨も上がったらしいが、暑さも本格的になり帰宅後はクーラーの中でだらだらして時間を浪費してしまった。8月例会では何を取り上げるか、又悩みの種である。
いささか疲れ気味に而、「ぶらタモリ」も見たしビールでも飲んで今夜は早寝しようと目論んでいる。
ヤフオクで応札者がなく、不落となったこの品物、「昭和八年皇族葛城茂麿伯爵と細川敏子御結婚 銀製ボンボニエール」である。
細川敏子は細川護立侯の長女、護貞様のお妹君である。皇族葛城茂麿伯爵に嫁がれたが昭和21年茂麿伯薨去後N氏に再嫁されたと細川家記は記録しているが、ウキペディアは離婚だとしている。私も母からそう聞かされているが、詳細に触れられることはない。
この様な品物が現れると、少々鬱陶しい過去のことがらがちらりと顔をのぞかせてくる。
加藤家の系図を拝見していたら「某男・加藤甚右衛門種香」という一文があった(Ⅰ)。「種香」と云う名前が気にかかり読んでいると、天草氏(武家家伝-天草氏)の養子になった人物であり、特に実家で書き残したのであろう。
下に記す天草家代々の略系譜(Ⅱ・津々堂作成)からすると、三代甚右衛門の事だと思われるが、ここでは甚右衛門は種勝を名乗り、種香を名乗るのは四代十大夫であり食い違いがみられる。この出典は「肥陽士鑑」でありこの食い違いが何所で生じたのかが良くわからない。天草家の先祖附は未読なので、早い機会に確認をしたいと思っている。又初代十大夫が転切支丹であることから細川家が幕府に届け出た「私家来転切支丹天草十大夫系」という略系図(Ⅲ)も残されている。参考のために表示しておくがここでも齟齬がみられる。
(Ⅰ)某男
加藤甚右衛門種香 正徳元年七十七歳ニ而病死左候ヘハ寛永十四年御誕生ト見ル
右加藤甚右衛門儀加藤甚兵衛甥ニ而御座候処父母之姓名不相分候
妙應院(細川綱利)様御代明暦三年八月歩之御小姓ニ 被召加万治元年正月
江戸江罷登直ニ御詰御奉公仕度旨奉願候処願之通被 仰付四ヶ年
相詰寛文元年 御入國之御供仕罷下其以後江戸定御供被 仰付
寛文八年歩之御使番被 仰付候然処天草文右衛門養子ニ奉願
候処願之通被 仰付翌延寶元年御中小姓被 仰付御納戸役被
仰付相勤居申候内延寶四年六月養父天草文右衛門病死仕候ニ付
同年八月(以下判読不可)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・可申旨被仰付元禄九年五拾石之御知行被為
拝領同十年右之御役料御加増被置下外ニ五拾石之御役料被為
拝領新組之組脇被仰付元禄十四年右之御役料猶又御加増ニ
被置候本知都合三百石ニ被仰付座配御側御物頭之上座ニ被仰付
寶永三年正月西沢太郎右衛門跡御鉄炮拾挺頭ニ被仰付同年数年
江戸定御供相勤申候ニ付御國江被差下御休メ可被成旨被仰付
同三月江戸罷立同年四月下着仕御鉄炮頭當前之御奉公無懈怠
相勤居申候處正徳元年九月十七日病死仕候右甚右衛門御奉公惣年数
五十五年之内貮拾壱度御供ニ而江戸江罷登申候事委敷儀は
天草氏江相分り居候間略之
右甚右衛門嫡子天草十大夫・同人養子天草甚右衛門・同人嫡子天草甚大夫
同人弟養子天草甚右衛門・同人甥養子天草慶助・同従弟養子天草郡兵衛
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(Ⅱ)
■ 天草次郎吉 (南東44-9)
弾正忠 小西行長書状(年月不明)六千七百八十五石
刑部
与蔵
1、十太夫 (1)八代与力衆 弐百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)御馬廻衆四番筑紫大膳組 三百石(弐百石)
【転切支丹】 寛永十三年七月十三日 浄土宗に罷成り・・(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)
細川忠利公宛行状(寛永十年九月)二百石
細川光貞(光尚)公宛行状(寛永十八年)二百石
2、文右衛門 八代御城附衆 弐百石 (寛文四年六月・御侍帳)
三番平野弥五右衛門組 五人扶持廿石 (御侍帳・元禄五年比カ)
3、甚右衛門・種勝
御使番・柏原要人組 弐百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、十太夫・種香(初・八弥・友之進)
三百石三斗八升七合四勺壱才 御鉄炮十挺頭御番方八番 屋敷・山崎
5、甚右衛門
6、市之進 細川重賢公御書出
7、郡八(後・十太夫・甚助・勘右衛門)
8、慶助 御番方(木下平馬組) 弐百五十石
9、郡兵衛 旧知弐百五十石
10、甚次郎(後・甚右衛門)
11、平彦(後・文右衛門・次郎吉) 弐百五十石
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(Ⅲ)二つの略系図が示されているが、右では甚右衛門は末藤新右衛門忰とあり、左の系図では「加藤甚兵衛ト称す」とある。
夢うつつの中ぐらりと来た。横揺れがかなり長い時間感じられたが報道によると30秒ほどであったらしい。感じでは3強くらいかなと思ったら我が地域は3。
時計を眺めたら3時すぎ(本当は3時前?)、ちょっと身構えたが本棚から本が落ちてくるほどでもないようで、数分後には寝入ってしまった。
震源地は大分県南部で震度5強、どうやら日本全国地震や火山活動の活性期の真っただ中にあるようだ。
1975年には由布院周辺で地震が起きて、ホテルが倒壊し道路が隆起陥没してなみうち驚かせたが、マグニチュード6.4、震度は4であった。
典型的な直下型の地震であったが、被害の状況をみようとわざわざ見学に訪れて、つくづくと自然の恐ろしさを感じたものだ。
40年前の話である。
今回の地震の詳細を知らないが、被害のすくなからんことを願うのみである。
この屏風の発見者、熊本大学工学部の伊藤教授の許では昨年、「甲斐青萍の熊本の町並図に関する研究」を行っておられる。
これもその研究の過程で見つけ出されたものであろう。
甲斐青萍は先祖を細川家家臣とする説があるが、さらに上益城郡御船町の出身であることから甲斐宗運に関係するのではないかと思ったりしている。
伊藤教授から一度お問い合わせをいただいたが、確たるご返事を申し上げるには至らなかった。今後の課題としたい。
中央画壇には進出しなかった甲斐青萍は、熊本の地に根差した作品を多く残している。この屏風を始めとして作品が一堂に会する機会はないものだろうか。本物をぜひとも拝見したいものだ。
昨日の熊本日日新聞の夕刊に、隣県の宮崎日々新聞のニュースが掲載されていた。
阿蘇家家臣にして熊本・御船城の城主・甲斐宗運の生誕地では、宗運を顕彰しようと史談会が設立されて活動に入られたということである。
宮崎県と云っても熊本のすぐお隣の地域だが、熱気を感じさせるものがある。将来は我が史談会でも交流をさせていただきたいものだと考えている。
今日の熊本は35.9度まで上がるなか、熊本市中央区の中学では28人(?)とか熱中症になったと報じています。
私は朝10時過ぎから図書館に本を返しに行った後、江津湖のともを約30分ほどサイクリングしました。都合10㌔×2、かんかん照りの中を帰る途中、完全に脱力してしまい図書館の前にある公園のベンチに仰向けに寝てしばしの休憩を取りました。水分は十分とったのですが熱中症まがいで、自転車をこぐことが出来ず、何度も止まっては休憩を取り、最後には朦朧状態で自転車を押して帰りました。行きは1時間、帰りは2時間を費やし、シャワーをして冷房を利かせた中で2時間ほどの睡眠をとり、体はだるいのですが何とか平常に戻りました。
十分注意をしなければいけませんねー。皆様もどうぞお大事に・・・・
芦屋市在住の畏友・寺井正文氏から、芦屋古文書に親しむ会がこのたび発刊された「京都美耶解・全編 上」を御恵贈たまわった。
この文書の所在についてはかって寺井氏からお聞きしていたが、全五巻の内の第一巻と云うべきがこの「全編 上」である。
全157頁、釈文48頁、注釈他57頁、原文37頁に及ぶものだが、会員の皆様のご努力に敬意を表したい。
この「京都美耶解」は幕末期の京都の模様を書き記したものだが、その内容が詳細を極めて居り学術的にも大変貴重なものだと思える。
その一部分は「改訂 肥後藩国事史料」にも引用されていることからして証明される。
今回の刊行は全五冊の1/5であるが、全巻の刊行までは大変な作業が残されており、会員の皆様のご努力によって全巻刊行の日を御待ちしたいと思う。
有り難く拝受申上げる。
(寺井正文氏は田邊籠城衆のご子孫であり、まとめ役としてご努力戴いている。感謝申し上げる)
昨日ご紹介した安田靫彦が描いた幽齋の画には驚かされた。穏やかな表情が印象的だ。
藤孝が剃髪したのは、明智光秀謀叛の知らせがもたらされた直後の事である。幽齋玄旨と称して隠居、宮津城を忠興に譲って自らは田邊城に移った。
光秀の謀叛は天正十年六月二日未明のことである。三日愛宕山下坊の幸朝の使いとして早田道鬼斎成る人物がこの報をもたらした。忠興への家督や剃髪の事は、六月三日だといわれる。光秀から味方を要請する書の冒頭に「御父子もとゆひ御拂之由尤無余義候」とする有名な書は、六月九日付けである。こちらの使いは沼田権之助光友(幽齋室麝香の実弟、後細川家家臣)であった。
当時在京していた米田求政も丹後に駆けつけ、藤孝の剃髪を見て自らも剃髪宗賢と改めた。又有吉立言も同様剃髪して宗祐と改めた。