津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(133)寛永三年・日帳(六月朔日~五日)

2020-01-27 08:19:59 | 細川小倉藩

                        (寛永三年六月)朔日~五日

         
         |     朔日
         |

長崎買物奉行出船 |一、長崎へ為御買物奉行、石寺加兵衛・飯銅庄内両人ニ、御長柄衆弐人相添、今日出船仕候事、

         
         |     二日
         |

走小者ノ借銀ノ取 |一、江戸ニて、宮村専斎小者走り申、替之もの奉公相届罷下候、然処ニ、走り候小者借銀三拾目仕
立        |  候、去年借状帳おそく江戸ゟ参候ニ付、替りの小者ニ遣候切手之内ニて引不申候間、右之請人
小者与中へ取立  |           被     (豊岡)
         |  手前ゟ、当暮取立可申之由、甚丞ニ申渡候処ニ、被得其意、当暮与中ニかゝり候て取立カ申由、
         |  申定候、甚丞所へ之使ハ奥村少兵衛也、
         |                                 (隠カ)
織田信長法会泰厳 |一、於泰岸寺、如早晩、従中津御法事御座候、為 御名代、従中津、蜂屋讃岐守被罷越、焼香被仕
寺ニテ執行    |  候、小倉御侍衆何も被罷出候事、                (谷)
         |                釘本半左衛門
鋳銭諸道具    |一、鋳銭、手前ゟ万被 召上諸道具林小兵衛ニ被請取候へと申渡候、
         |                〃〃〃〃
         |一、渡部清兵衛儀ハ、手前之算用仕舞次第、友田二郎兵衛与之中山忠左衛門替ニ遣可申由、申渡候
         |  事

         
         |     三日
         | (曳島、長門豊浦郡)

海中ノ鹿殺生   |一、ひき嶋ノまへニて、鹿うミニ居申候処ニ、猟師共あミニかゝり申候を、うちころし申由申来候、
         |  御物師衆ゟ ( 宗 珠 院 )
伊与ヨリ宗珠院へ |一、いよ殿ゟそうしゅいん殿へ参候状壱通・ちや弐俵、くろ瀬九郎右衛門持来候を、御台所道具つミ
音信物      |  〃〃〃〃  (東)
         |  上り候御船頭ひかし次介ニ、相渡候事、

    本文に於いては「いよ殿」の下に間違いであることの表示「〃」をつけているにもかかわらず、頭注では「伊与」としている。
   どうやら「〃」が間違いと思われ、「御物衆が伊与殿の書状その他を宗珠院に届けた」ものと思われる。

         |一、下関へ被遣置候生源寺市兵衛・真下喜左衛門、与共ニ被罷戻候事、

         |      (ママ)
堀干上リ鮒取   |一、下ノ北方村堤ひ候ゆへ、ふな五十六枚取上ヶ候ニ付、平井五郎兵衛壱人相添、被差上候を、生候
長池へ放ス    |           (ママ)  
         |分ハ長池ニ入、死候分ハ

         
         |     四日
         |

         |一、御船頭東次介、今日出船仕候、京・大坂へ之書状共相渡候事、

         
         |     五日
         |

米銀不足ノ目録  |一、小早御船頭小出九郎左衛門ニ、御米銀不足之目録持せ上せ候事、
足軽兄ニ替ラント |一、西沢文右衛門与小頭庄平右衛門登城仕、申候ハ、与ノ内ニ中村長兵衛と申もの御座候、かのものゝ
帰農ヲ願フ    |  兄善吉と申ものハ、篠崎村ノ御百性仕居候へ共、めげはて、田地作付不罷成ニ付、右ノ長兵衛、
         |  兄跡ノ田畠を作、御百性を仕、主代を御奉公ニ出申度と申由、申来候ニ付、一段可然候ハん由、
         |  申付候事、
長崎ヨリノ巻物ノ |一、服部左次兵衛、長崎ゟ参候巻物ノ御算用被仕上候、切手共ニ我々加印無之分をつき候様ニと被申
算用       |  ニ付、財津惣兵衛ニ相尋申候ヘハ、不苦儀ニ候間、つき候へと被申ニ付、加印仕、遣候事、
         |                (藍島、規矩郡)
藍島ノ鹿ノ検分  |一、山田七左衛門与ノ有田弥左衛門、あいノ嶋ニ御はなしなされ候鹿居候か、不居か、様子見せニ被
         |  遣候事、
  

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■「阿部茶事談」(27)釈文

2020-01-26 14:20:00 | 細川家譜

27        所尓居住す 以前小西尓仕後清正尓て千石
         給ふ 吉兵衛心尓不叶有て熊本を白昼ニ
         立退 此時討手を気遣ひ鉄炮を用心尓て
         退しか共無別儀豊前小倉尓落去たり 諸
         方ゟ抱度旨申来りけれ共忠興公元ゟ御懇
         意ニ而本知千石ニ而ゟ 召出其子も吉兵衛と云 予
         か祖父也 兄弟五人有御入国の後段々ゟ召出末
         弟数馬也 有馬御陳尓其嫡子吉兵衛御用ニ付
         宇治ニ参御供不申上七郎左衛門を初め不残御供
         申上し也 七郎右衛門ハ光尚公尓附有馬御陳の
         時疫を煩ひすり湯を漸く飲て城乗の御供
         仕たりと也 運強けれハ死なぬ物と老年尓成
         て咄しけり 数馬ハ十六才ニて御児小姓故御
         馬廻り尓居たりけれが先手尓参度と再三願
         申上ける尓御立腹被遊小忰のうせいと御意有
         けれハはつと云て馳出す 其時あれ怪我さす
         なと御意有る尓依て継て馳付しと也 数
         馬ハ乙名尓石垣尓付城乗致し手負けり 凱陳
         の上三百石被下都合千百五拾石尓成関兼光
         の脇差忠利公ゟ拝領して所持す 無類の業
         物御秘蔵なれ共数馬御意尓叶ひ拝領す 御

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■原文に触れる「阿部茶事談」(28)

2020-01-26 11:10:17 | 史料

                               

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■原文に触れる「阿部茶事談」(27)

2020-01-26 07:53:41 | 史料

                               

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■細川小倉藩(132)寛永三年・日帳(五月廿六~廿九日)

2020-01-25 17:31:44 | 細川小倉藩

                        (寛永三年五月)廿六日~廿九日

         
         |     廿六日
         |                                

忠利十九日大坂着 |一、御供舟下申由、三宅清兵衛申来候、今月十九日ニ大坂へ被成御着、廿三日ニ京都へ被成御上洛候由  
舟        |  候事、
長崎買物之覚   |     長崎にて被成御買物之覚
 赤玉 吹玉   |  一、赤玉五きん、但、ふき玉之内ニ御座候也、
 唐渡ノ碁石   |  一、唐ヨリ渡申ごいし三斤、但、白黒共ニ、
 吹玉      |  一、ふき玉拾きん、但、アホキこんノばかり、
         |     右長崎にて殊外やすく御座候、
         |      以上
         |    寛永三年五月六日         問太郎介判
         |  右ノ書付、石寺加兵衛方へ相渡、則長崎ニて被相調候へと申渡候事、但、右ノ分太郎介書上候
焼物ノ用     |  て、御やき物之御用ニ入申由候間、得御意候処ニ、長崎御買物奉行へ申付、かわせ可申旨、
         |  御意ニ付、右之通申渡候也、

         
         |     廿七日
         |                        (ママ)

詰小早      |一、御用之儀候て、上方へ詰小早差上せ申候、御舟頭
         |一、式ア殿ゟ言上之状、右之御舟ニ御言伝候也、

         |      (マ  マ)
         |     廿八日
         |五十貫文

初穂料      |一、彦山へ   東兵介
         |弐十貫文
         |一、求菩提山へ 池内源介
         |三十貫文
         |一、宇佐宮   松山小右衛門

         
         |     廿八日
         |

波奈之丸下着   |一、御船頭甚右衛門、御めし舟波奈之丸乗下候、無事ニ下着候事、
         |       
         |一、式ア少輔殿御小早申付候へ、御休養之儀大坂へ申上せ候間、可被得其意之由、被仰越候、
         |                          五月十一日ニ江戸ヲ立、
         |一、江戸へ被遣候御鉄炮衆国友半右衛門与村岡少右衛門、〇今日罷戻申候、江戸ゟ殿様へ上り申御状
         |   (播磨加古郡)
江戸米価壱両ニ五 |  共、高砂まて罷出、差上申候由申候、御供舟之罷戻候ニ、のり罷戻下申候也、江戸ノ米ノ双場、
石四斗五升    |                              〃   〃
         |  小判壱つニ付、五石四斗五升かい可申由申候よし也、
長崎買物ノ借銀  |一、飯銅庄内・石寺加兵衛、長崎へ今日被罷下候、 御銀子十貫目、菊原五郎兵衛方ゟかり候て遣申
明寰へ口入銀   |  候、其外白井太郎左衛門所へ、明寰ニ口入銀五百目遣候事、
苅田ノ母馬壁蝨故 |一、かんたノ御牧ノ母馬一疋、今朝たに殊外つき候ゆへ死候由、申来候事、
カ死ス      |
         |一、式ア少殿・頼母佐殿・監物殿ゟ御休養之儀ニ付、大坂へ御小早差上申候、御船頭ハ宮崎孫左衛門
         |                                   (敦之)
        
 |  也、御奉行所ゟも野田小左衛門所へ之状、坂崎清左衛門・長良長兵衛・続平右衛門所へ之状、飯
         |  田才兵衛所へ之奉書之御請、右之御小早二差上せ申候事、
         |   (貞晴)                                  今日                 (牧興相)(三淵重政)
桑山貞晴書状三斎 |一、桑山左近様ゟ 三斎様へ被進御状、江戸ゟ御掃除坊主衆〇持下候を、則頼母佐殿・左馬殿・右馬
宛        |  助殿三人ゟ、中津へ次飛脚にて持せ被遣事、
         |       (浅山)    (田中氏次)
泰厳寺掃除検分  |一、泰厳寺へ、清右衛門・與左衛門、御掃除彼是見廻ニ参候事、
         |

         
         |     廿九日
         |
忠利廿二日上洛ス |一、鏡善右衛門夜前罷下候、 殿様去十九日ニ大坂御着、同廿一日迄大坂御逗留、同廿ニ日ニ京都へ
         |  被成御上洛旨申候事、
掃除坊主奉行用状 |一、御掃除坊主四人江戸ゟ罷戻候、江戸御奉行衆ゟ参候状持上り候処ニ、てんりう河にて、御状幷
等ヲ天竜川ニ流失 |  きかへ已下ながし申由ニ候、然共、江戸へ便宜御座候間、則江戸御奉行衆へ、右之通申遣由申
ス        |  事、
         |一、御船頭明石角兵衛夜前罷下候事、
         |

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■「麒麟が来る」から、三淵藤英という人

2020-01-25 15:14:52 | 歴史

 NHKの大河「麒麟が来る」は大方の予想通り好発進をしたようだ。
その出自が明らかではない人物なので、どのような扱いでスタートするかと思ったが、早々に光秀が三淵藤英と出会うというシーンには驚いてしまった。
三淵藤英という人物について詳しく知る人はそう多くはあるまい。熊本人でも同様であろう。
その人となりについては、サイト「明智家の館」に詳しいが、細川藤孝(幽齋)の実兄と紹介されることが多い。
藤孝は将軍義輝の子とされ、生母(清原宣賢女)が身ごもったまま細川晴員にお下げ渡しとなって生まれた。
藤孝は細川家に入って肥後細川家の祖とされている。
藤英にとって細川藤孝は異母弟である。又細川家家臣となった末弟・三淵好重も同様である。
藤英の嫡男・秋豪は父と共に戦死し、嫡流は秋豪の次弟・光行の嫡男・藤利が継いだ。
藤英の三男・昭貞は朽木氏(稙綱)を継承して細川家に仕えた。弟(五男)昭長が養嗣子となって以降明治に至った。
藤英は将軍家につき、藤孝はのち信長につくなど必ずしもその行動は同じではない。

俳優谷原章介の美麗ないでたちが印象的だったが、藤孝(眞島秀和)がどの様に登場するのかも大変興味深い。

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■「阿部茶事談」(26)釈文

2020-01-25 07:35:01 | 史料

26                       此木を伊達政宗尓てハ柴舟と云 歌尓
            世の王きのうきを身尓つむ柴舟の
             たかぬさ紀より古かれい川らん
         同木禁中尓てハ藤はか満と云 歌尓
            藤はかまならふ匂ひもなかりけり
             花ハ千種尓色か王れとも
         小堀遠州尓てハ初音といふ 歌尓
            聞たひ尓めつらしけれ(ハ)ほとゝきす
             いつも初音の古ゝちこそす連
         数馬御小姓役の節此名香を拝領して所持
         せしを討死の時留木とせし也
         又曰竹内と云ハ在名也 本来嶋村と云 島村弾正
         八隅氏を授て同姓として八隅市兵衛と名乗
         其後竹内と云所を領知し八隅を改て竹内
         市兵衛と名乗一子を吉兵衛と云 武功度々ニ而
         信州太田ノ城水攻の時各別働有て秀
         吉公ゟ白練尓朱の日の丸の陳羽織を拝領す
         初小西行長尓仕て朝鮮尓て武功有 日本
         和平の時行長ゟ人質として朝鮮尓三年
         居たり 此時金銀の膳椀など国王ゟ給り其
         外寶物貰たり 御家ニ被 召出御入国後手

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■正代関は小代氏なのか?

2020-01-24 20:14:50 | 徒然

 熊本人にとっては初場所の大相撲は大いにワクワクを募らせている。正代関の優勝争いだ。
明日が12勝1負同士の対決だから、明日勝てばかなりの確率で優勝が見えてくる。頑張って初優勝をもたらしてほしいものだ。
正代という姓は非常に珍しく思えるが、熊本では結構数居られるらしい。
そんなところから、正代氏の祖をたどると「小代氏」ではないのかという話が聞こえてくる。
何とも確かめようのない話ではあるが、有りうる話だとは思える。

          小代氏・wikipedia
          武家家伝・小代氏
          武家家伝・小代氏ダイジェスト

小代氏は1200年代半ば、地頭職を得て肥後入国したとされるから、古い歴史を持っている。
正代関もそんな武士のDNAを受け継いだ末裔だと考えると、心躍る処だがいかがであろうか?
ご存知の方がおられれば是非ともご教示いただきたいものだと切望している。
あと二日祈る気持ちで天皇杯を抱く正代関の雄姿を待ちたい。

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■「阿部茶事談」(25)釈文

2020-01-24 09:22:28 | 史料

25                           吟味の時八兵衛儀討手不被仰付処押而阿部
         か屋敷尓参候事何故哉と御尋有し
         尓弟義討手ム心元存候間罷越候也と申上
         尤の事也 然者数馬討死の時ハ一所尓居候哉
         と御尋有ける尓場所違不存と云 弟を無心
         許存跡ゟ参候程の者か討死を不知とは
         不都合の事也 第一御下知もなき尓罷越段
         不埒也かたく閉門被仰付と也 又曰添嶋九
         兵衛ハ初鉄炮衆也 有馬陳の時ハ立石市兵衛
                    本ノマヽ「賞」
         組にて手尓合帰陳の上御美有之新
         知百石被下也 添嶋子供男女二人也 嫡子九一
       郎九才遺跡拝領す 幼年尓て病死す 妹尓
       御扶持被下置後他尓嫁して男子壱人出生す
       亡父由緒を以竹内吉兵衛へ被預置添嶋灘平
       として小姓奉公し其後阿蘇坊主尓成て幸
       方坊と云 母ハ尼尓成て妙善と云て老極し
       幸方坊還俗して添嶋市兵衛と名乗御奉公
       尓出る 正徳年中の事也
       又曰白菊の名香ハ 忠興公御取出之木也 御
       歌尓
          たくひ阿りとたれかハい王ん末匂ふ
            秋より後の白菊の花

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■細川小倉藩(131)寛永三年・日帳(五月廿三~廿五日)

2020-01-24 07:12:30 | 細川家譜

                        (寛永三年五月)廿三日~廿五日

         
              廿三日
         |
         |  (三淵重政)(有吉英貴)

         |一、右馬助殿・頼母殿、中津へ御見舞ニ被成御越との御談合ニ御出被成候 思召被寄進、尤と申候
         |  事、
         |
間紹甫唐渡ニ銀ノ |一、同紹甫唐渡ノ時、銀拾貫目相渡候切手同状、河喜多五郎右衛門ゟ請取候事、
切手       |

         
              廿四日
         |                十貫
松下掃部助新銭十 |一、松下掃ア助方寛弐十二月ニ新銭〇借用被申候つる、只今返上被申候ニ付、我々印判けし候也、
貫返済      |
豊後横目等ヘノ湯 |一、豊後御横目衆ひゃうノ湯へ可被成御入由、宇野七右衛門ゟ申来ニ付、御菓子・もうせん持せ遣
治見舞      |  候、慥ニ請取候との返事今日来、
米積ノ目録    |一、野田小左衛門仕置御米積ノ目録壱つ、加藤新兵衛方へ相渡候也、
忍ノ者用材ヲ求ム |一、吉田助右衛門しのひノ御用ニ、材木ノきれ、又五六寸廻之竹入申由申ニ付、切手遣候事、
         |          (長府、長門豊浦郡)
長崎等買物ノ造作 |一、去年飯銅少内長崎幷ちやうふへ御買物ニ被遣候時ノ造作料ノ儀、今度万事如御先代之と被 仰出
         |                (嘉左衛門)
料        |  候間、渡候儀いかゝ可仕哉と、金子被相尋候間、如 御印被渡置、重而被得 御諚、御意次第ニ
         |  沙汰可仕と申渡候事、
         |                (菊)
長崎買物銀借入  |一、長崎にて、当分御買物之銀子、きく原五郎兵衛ニかり可申候、利足壱ヶ月ニ何程宛と定被申候
         |              (神)
         |  へ、重而算用可仕由、中上與兵衛ニ申渡候事、
走者       |一、岡田一角走者走申ニ付、中国ニ居申由ニて、野尻五郎兵衛子を付置申候、此ふち方之儀、一角手
         |      〃     (成定)
         |  前ゟ被渡
候へ之由、坂崎道雲へ申候事、
         |  (以心崇伝)
崇伝書状三斎宛  |一、金地院様ゟ 三斎様へ之書状、三郎左衛門持下候、則御飛脚ニ持せ、中津へ差上候事、
         |一、土佐新太郎所ゟ奉書壱通、三郎左衛門被持下候事、
         |               (秀成)
京都調物奉行書状 |一、小野九右衛門・石本三介・佐藤少三郎ゟ状一通、三郎左衛門被持下候事、
         |

         
              廿五日
         |
長崎買物銀借状  |一、長崎へ被成御下シ銀子之儀、菊原五郎兵衛ニ申候ヘハ、爰元ゟ御使出船之前日ニ、銀子拾貫目御
         |  用ニ立可申候間、長崎へ先下り之御銀子ノ内を以可被返下との御借状被成可被下由申候通、中神
         |  與兵衛被申候事、
馬船ニテ馬ヲ上着 |一、御馬船ノ御船頭竹井弥兵衛、今日罷下、御馬共無事ニ上着仕由候事、
セシム      |
         |                 (可政)              (江島、宇佐郡)
嶋田直時返書   |一、嶋田越前様ゟ之御返書壱通、又加々山主馬助言上ノ状壱通、ゑじまニて 殿様へ上申由候事、
         |                                   (氏次)       (清忠)
薪        |一、加々山主馬方ゟ薪ノ儀ニ付、書状竹井弥兵衛持下候、浅山清右衛門・田中與左衛門・西郡形ア
         |     (重嘉)      (幸長)
         |  少・横山助進・野田小左衛門・金子喜左衛門・中神與兵衛、此七人ニ当ル状也、但、五月十四日
         |  ノ状也、
大坂調物奉行書状 |一、寺嶋平兵衛ゟ状三通、右ノ弥兵衛持下候、但、五月十五日ノ状二通、五月十六日ノ状一通、浅山
         |  清右衛門・田中與左衛門・横山助進・西郡形ア少、四人ニ当来、
         |   (慰英)
大坂米奉行等書状 |一、仁保太兵衛・堀長兵衛・米田久助・寺嶋平兵衛四人ゟノ状壱通、右同此方四人ニ当ル、弥兵衛持下、
         |一、加々山主馬ゟ一尾采女へ之状壱通、中ニ状数あまた有之と見え候、右弥兵衛持下、
         |       (津川辰珍)
         |一、大塚長庵ゟ津河四郎右衛門殿へ之状、右弥兵衛持下候、則持せ遣候事、
         |

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■神話のロマン「高千穂」

2020-01-23 11:26:04 | 徒然

 神話の故郷、宮崎の高千穂では多くの観光客でごった返しているらしい。今日のメディアが伝えていた。
シーズンには車の渋滞が起きえらいことになっているらしい。メディアの報道は高千穂峡の貸しボートの値段が3倍に跳ね上がるということらしい。二人で乗ると5~6,000円だというから、これは異常だともいえる。
年間150~200万人がおとずれる神話の故郷が物議をかもしている。

 最近私は長部日出雄著の「天皇はどこから来たか」を読んでいる。
神話論争の古くは、本居宣長と上田秋成の評価の違いに代表されるように思うが「邪馬台国」の所在については以降そのお互いの説を受け継いで議論が続いているようだ。素人には「大和国説」かなと思ったりしているが、熱い議論には興味が尽きない。
高千穂についても「鹿児島説」「宮崎説」がしのぎを削り、これが観光客を魅了しているようだ。
碩学津田左右吉先生のお説は、現在の「象徴天皇」を予見させるものであったが、熊本人・原理日本社蓑田胸喜の訴えるところにより罪を得られたが、まさに先見の明であった。
蓑田胸喜は戦後天皇の人間宣言を受けて自裁しているが、裁判自体は戦前のものであり時代があと数年下れば津田先生も無罪であったのかもしれない。
その津田先生は、東征の出発の地として高千穂の地を否定しておられる。
長部の著書から引用すれば、「僻陬の地ヒムカが、皇室の発祥の地であったというのには、ほとんど根拠がない」と断じている。
しかしながら九州人たる私としては、神話の世界のロマンを高千穂の地に委ねたいと思うのである。

 私は運転免許の期限が30日をきり、免許返上の前に車でどこかに出かけようと考えていて、高千穂を経て奥方の実家がある延岡まで足を延ばしてみようかとおもっていた。
しかし、片道3時間弱の運転は少々荷が重たい。今ではあきらめに似た心境になっているが、「皇室発祥の地」ともいえる「高千穂」を訪れることもない事だろう。

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■「阿部茶事談」(24)釈文

2020-01-23 10:15:01 | 細川家譜

24                            尓名乗懸て一所尓討死すと也
           茶話曰予か父十二才ゟ光尚公近習尓在て其
           日ハ松野右京宅江御成尓て御供尓行ける 未明
           尓御供中御玄関尓揃有之時分阿部屋敷へ
           討手寄たりと聞へ大勢の聲御殿ニ聞へし由
           被物語連り 無程注進数馬討死と達しけれハ
           光尚公甚た惜ませ給ふ 其時の御意尓数馬
           事ハ思召違尓て討手被仰付御残念の御様
           子也 世上尓ても全く外記か讒言故討死せし也
           と沙汰也 大目附林外記皆人大尓恐連大小名
           尋問■す門前市をなす事言葉尓難述                                     
           然る尓真源院様御逝去何連も御懇意の
           面々殉死せしか外記曽て御追腹の気無り
           けれハ諸人の物笑と成初の勢ひ尓引替出
           入する人もなし 監物殿斗初尓不替懇意
           尓て出入被致外記か所存如何成故尓や彼レか
           心尓こそあらめ士は一期の後ならでハ善
           悪知連ぬ物也とて不替懇意也 綱利公
           御代初八月朔日伊藤十之允討果伊藤
           一家押寄せ踏潰し家断絶尓及べり 又曰
           数馬兄有り八兵衛と云 討手尓は非すして
           阿部屋敷尓来り働けるが終りて後

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■細川小倉藩(130)寛永三年・日帳(五月十九~廿二日)

2020-01-23 07:21:28 | 細川小倉藩

                        (寛永三年五月)十九日~廿二日

         
              十九日
         |

         |一、岡田一角者ノ儀、言上之状一通、
豊後横目へ茶入進 |一、豊後御横目衆へ、御茶入被進候様子ノ言上状壱通、
上        |    右弐通、渡海ノ船頭小倉うら町の小一郎ニ上せ申由、舟瀬里兵衛申候事、
         |一、荒木権右衛門被罷上候事、
子馬墜落死    |一、かん田ノ御牧ノ馬ノ子、昨日うミ申由申来候へ共、今日五つ時分ニ、松山北ノ方ノほきゟおち候
         |  て、死申由申来候事、
         |

         
              廿日
         |

百姓ノ書物墨引仕 |一、当郡高月村百姓之書物、墨引申候を、仕直シニ遣申候、則被来五郎兵衛下代安倍又左衛門ニ相渡
直シ       |  候事、
河崎伝右歿    |一、河崎伝右衛門今月十六日ニ相果候由、但、溝口里兵衛申来候事、
買物奉行ノ横目  |一、渡長右衛門儀、野口久五郎替御買物奉行ノ横目ニ申付候事、
         |                  (直正)
日向材木買入   |一、日向へ御材木買ニ遣候御鉄炮衆寺本八左衛門組下野甚七、伊藤金左衛門組椎佐左衛門両人遣可遣
         |                                          〃
         |  由、今日申付候、但、廿三日ニ参由、
         |

         
              廿一日
         |    ニて

日向ニテ舟造リ  |一、日向へ御舟作せ申ニ付、御船頭南喜右衛門・御舟大工青木三郎右衛門両人ニ、御加子相添遣候、
         |    〃
加子小屋仮設   |      居申  
         |  御加子之小屋作候へと申付候、喜右衛門・三郎右衛門ハ知行取にて候故、小屋ハ不申付候、又御
         |  加子遣銀ハ、野田小左衛門罷下候而、相談ニて可相渡事、
         |一、伊藤金内・谷小八郎・菅十兵衛、今日江戸ゟ被罷帰候事、
         |             (ママ)
         |一、江戸御留守居衆ゟ、宮村千斎小者、三十め之借銀之儀被申越候書物、豊岡甚丞へ相渡候事、
         |一、米・大つ・薪、右衆江戸ゟ被持下候事、
         |

         
         |     廿二日
         |                                            (松本)(豊岡)

上方供ノ切米取ノ |一、今度上方御供之御切米取衆遣銀、浅井五左衛門・宗田伝左衛門手前ゟ被相渡候処ニ、彦進・甚丞
         |                かミ
遣銀ノ請取ニ銀奉 |  ゟそれ/\へ被渡候へとのきり〇斗ニて被渡候銀子、請取人うけ取申とのうら書を仕せ、取置可  
行無念      |  被申処ニ、無年ニて取後被申候、然上ハ、両人ノ御銀奉行、重而銀かり主請取不申由申候ハヽ、
         |  五左衛門・伝左衛門弁上納可仕とのうら判をさせ、可被取置候、左候て、付替ノ御帳ニ被写候へ
         |  と、椋梨半兵衛方へ申渡候事、但、当番国遠道倫也、
         |              (室、播磨揖保郡)八日
六丁小早     |一、六丁小早之御船頭続二右衛門、むろゟ十七日ニ出候由ニて罷下候、
         |                    〃〃
忠利書状三斎宛  |  御書箱壱つ 三斎様へ被進候、長舟十右衛門ニ被成御当候也、
         |  私共両人ニ 御書被成下候事、
         |   (宗茂)
         |  立花飛騨様ゟ式ア少殿へ御状壱通被遣也、右之御船頭衆被持下候事
         |          

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■お安く読む・講談社学術文庫「地形から見た歴史‐古代景観を復原する」

2020-01-22 14:08:19 | 書籍・読書

                                                           講談社学術文庫<br> 地形からみた歴史―古代景観を復原する

著者等紹介

日下雅義[クサカマサヨシ]
1934年徳島県生まれ。立命館大学大学院文学研究科修士課程修了。立命館大学名誉教授。文学博士

出版社内容情報

自然と人間は大地を変える。『記紀』の「水門」「潟」「大溝」「津」とは? 古日本の姿を、地理・考古・歴史学を総動員して復原する自然と人間によって、大地は姿を変える
『記紀』『万葉集』に登場する「水門」「潟」「大溝」「津」とは?
古日本の姿を、地理学・考古学・歴史学を総動員して復原する

「地震」「水害」「火山」「雷」「大風」……。『記紀』に描かれた数多の自然現象とその災害の実態とは? 「浦」「江」「潟」「岸」「潮」「浜」……。『万葉集』に謳われた風光明媚な景を現在と比較すると? 「古墳」「池」「溝」「津」「水門」、人為は景観をどう変えたのか? 空中写真、地形図、遺構・遺跡、史料を突き合わせ、失われた古代日本を大胆に復原する。

……環濠とシュートバー(埋没礫堆)の調査では、あらかじめ用意した地形分類予察図、空中写真、検土杖(けんどじょう)などを持って現地に出かけ、発掘現場の露頭観察や検土杖による地質調査に汗を流し、(中略)広くて傾斜の緩やかな地域では地形図、空中写真、折れ尺などを手に、黙々とペダルを踏んだ。自転車は、平野の微起伏をとらえるのに、とても都合がよかった。(中略)私は地形環境と人間活動との関係を、かなりながい時間軸でとらえるという方法を、頑(かたくな)にとり続けてきた――<「学術文庫版まえがき」より>

※本書の原本『古代景観の復原』は、1991年に中央公論社より刊行されました。

学術文庫版まえがき
第一章 景観の復原と遺跡――はじめに
    1 景観をとらえる
    2 地下からの情報
第二章 大地は変わる
    1 マクロからミクロへ
    2 日本の古代を中心に
第三章 『記紀』『万葉集』に自然の景をよむ
    1 「水門」と「岸」
    2 潮の流れと生活
第四章 生活の場を復原する
    1 水を求め水を避ける
    2 マウンドをつくって耐える
    3 ナイルデルタの「コム」
    4 三角屋敷と盛土集落
第五章 生産の場を復原する
    1 灌漑のおこり
    2 初期の大溝「裂田溝」
    3 「針魚大溝」のルートを探る
    4 「依網池」のナゾ
    5 狭山池と除げ
第六章 消費の場を復原する
    1 港の原風景
    2 紀伊水門と和歌浦
    3 住吉津と津に至る道
    4 難波津の位置をめぐって
    5 「難波堀江」開削の目的と時期
    6 人工港「難波津」の成立
第七章 景観の形成と古代――むすびにかえて
あとがき

 

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■原文に触れる「阿部茶事談」(26)

2020-01-22 08:27:40 | 史料

                                 

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