津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(552)寛永八年・日帳(閏十月十七日~十九日)

2021-04-23 17:53:44 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年閏十月)十七日~十九日

         |                                       
         |   十七日  河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也
         |一、昨夜之御飛脚、のせ下候御小早ノ船頭ハ続二右衛門也、
         |一、京・大坂へ之書状二からけ、御船頭三宅新介ニ渡し、上せ候、江又、江戸への書状一つゝミ、御
         |  飛脚ニ渡候へと、申付、渡候事、
砂金吹ノ奉行   |一、河口猪右衛門・西村佐左衛門尉、両人御砂金ふき候奉行ニ申付候事、
         |  (規矩郡)(同郡)
鳩網ニ懸リシ鷂ノ |一、西大野・山本之百生、鳩あミニ懸り候とて、はい鷹壱居、佐渡殿ノ内ニ、知人御座候ニ付、佐渡
処置       |                           
         |  殿へ上ヶ申候、佐渡殿ゟ被仰候は、御百生取申候間、上申候を、則、御鷹師山本仁介ニ渡申候事、

         |                                       
         |   十八日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也
長崎ヨリノ公儀糸 |一、佐渡殿ゟ、御使者にて被仰候は、長崎ゟ之糸荷は、かち参由、申来候間、其通万事申付候様ニと、
荷ハ陸行ス    |  被仰下候間、則、住江甚兵衛ニ、其段申渡候事、
         |
有馬湯治     |一、八木田平右衛門尉、有馬へ湯治仕、少験を得申由にて、登城被仕候事、
         |                       (九郎右衛門)
刑死ノ昇ノ者ノ女 |一、御昇之茂左衛門女房、上り女ニ成候ニ付、今日黒瀬・大嶋へ渡ス也、
房ヲ物師賄奉行へ |                           (喜右衛門)
渡ス       |
         |一、三斎様へ、 殿様ゟ御進上被成候御飛脚両人、則、 三斎様ゟ之御返書持戻申候事、                      

         |                                       
         |   十九日  河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也
         |              (元次)
江戸詰交替ノ鉄炮 |一、江戸へ詰替之御鉄炮衆、芦田與兵衛与矢野兵介・杉山藤兵衛与小野久太夫ニ渡申文箱数事、三斎
足軽へ渡ス文箱ノ |               (長重)        (様脱)
数ノ覚      |  様ゟ御返書之御文箱一つ、浅野采女様へ、 三斎ゟノ御返書之御文箱一つ、貴田半左衛門方ゟ、
家老惣奉行等ヨリ |  坂田與左衛門・神戸喜左衛門・町源右衛門尉方へ之文箱壱つ、佐渡守・頼母佐・監物・修理・助
ノ調書      |  進・兵こ所ゟノ御請ノ文箱壱つ、佐渡殿ゟ飯田才兵衛所へ之状壱つ、主馬所へ助進・兵こ・修理
         |  所ゟ之状壱包、遣申候事、
         |           (長門豊浦郡)
小倉町ノ米船難破 |一、今月二日ニ、下関ノかなふせにて、小倉之町舟御米百八十石積打わり申候処ニ、下関ノ猟船弐そ
ス 下関ノ漁船救 |  う参相、たすけ申候、其上、御米を廿俵取上申候間、他国之儀候間、御年寄り衆ゟ、御礼状を被遣
ヶ上グ 裏奉行家 |  可然奉存由、御浦奉行衆被申候事、
老ノ令状ヲ乞ウ  |
         |                                            (茂)
捨リ米三百三十俵 |一、右之捨り米三百三十俵、内弐百七十三俵ハ今日迄ニ上ル、〆而六十三俵ハ上り不申由、高原も兵
ノ内訳      |  衛被申候事、
濡米二俵ヲ給ス  |一、右ノ下関れう船、御米廿俵上候ものニ、ぬれ米弐俵遣候へと、茂兵衛ニ申渡候事、
         |一、松本彦進・蓑田甚丞へ遣候書状、福田吉介ニ言伝遣候事、
公儀糸船ノ賄   |一、長崎ゟ之御荷物船中にて、賄之ため櫛野長三郎申付、遣也、

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■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(八-了)

2021-04-23 17:52:31 | 沼田家文書

          一御手に付候佐治長兵衛ハ勘ケ由殿従弟にて候 山口三郎
           右衛門・同権兵衛・井口甚五兵衛同三歩此四人ハ庄林隼人
           牢人にて候 外壱人山場与左衛門ハ長岡休斎様牢人ニ而
           御座候事
          一御親次連より頼にて戸嶋左傳次殿熊谷助之進
           殿被参候事
           軍師・
          一肥後守様御下之上にて小田原夕庵 子孫小田原武兵衛于今被勤居候 御意被
           成候者今度長崎にて勘解由舩備兵具之飾様古法ニも
           有之事かと御尋夕庵御請に惣而軍法と申ハ今度

           勘ケ由仕たる様子至極之儀大将被成たる古来乃
           儀を法る定め置たる事に聞へ申候由被申上候 御前
           を被仕舞候て如此申し上候由被申候叓
          一御組小平野哉時右衛門殿同茂左衛門殿同三郎兵衛殿同四郎
           右衛門殿同作右衛門殿被召加候叓

                後合飛騨守殿       
         一鍋嶋殿    舩弐珀艘余   一立花左近殿   舩大小六拾余艘
         一松平筑前守殿 舩後拾艘余   一小笠原信濃守殿 舩大小弐拾五六艘
                            一日根野織部殿 舩弐拾艘余   一寺沢兵庫頭殿  舩大小五拾余艘
         一松平美作守殿 舩大小六拾余艘 一高力摂津守殿  舩大小廿五六艘
         一長崎舩四端五端六拾余艘
                                   右合千百七拾壱艘
                                御家人数六千四百五拾人      舩大小四百三拾弐艘
                                    内
          六拾三ハ  早舩七端ゟ十三端まて 四拾五 小早四たんゟ五端まて
                               百八拾四艘 荷舩七端ゟ拾四端まて
                               船頭加子四千百九拾六人
                                   合
                               壱万千三百壱人
                               右之通ニ而カリアン御出陳之始終明白に相知レ申候叓

                    (了)

 

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近場古跡散策

2021-04-23 11:42:35 | 熊本

 私が現在住んで居る尾ノ上地区を含め、つい十数年前までは健軍町と呼ばれて広大な面積をほこっていた。
戦前は三菱重工の飛行機工場があって、その半分が現在は自衛隊の敷地になっている。あと半分は数百棟のアパート群が広がっている。
水前寺駅からは専用の鉄道の引き込み線があって、現在は道路になっている。
三菱重工の工場から数百メートル北側には、専用の飛行場があった。のちに健軍飛行場となり民間の飛行機が離発着した。
この飛行場が日赤病院や県立大学まえの広い県道に代わっている。
こういう場所は昔の託麻が原といわれた古戦場である。

 かすかに名残をとどめるのが、水前寺運動公園内にある「天授勤皇戦跡」の碑である。
          32度47分36.39秒 130度44分24.67秒

今朝はこの記念碑を写真に収めておこうと散歩がてらに出かけてみた。近場古跡散策である。
まだ地震の後の補修ができておらず、縁石が浮き上がったり、倒れたり、舗装のタイルもあちこちではがれて痛々しい。
高さが3m程のオベリスク状の石碑を中央に、左右に銅板画が埋め込まれている。
裏面に制作のいきさつが書かれたものがあるが、まったく読めず、原画や銅板制作者などを知るすべもない。
銅板画は今川了俊とこれを大破した良成親王の姿であろうと思われるが、「どっちがどっち?」の状態である。
この託麻が原で多くの人が命を落とした南北朝時代の一時期の熊本の事を、どれだけの人が御存知だろうかとしばしおもったことである。
ちなみに石碑の文字は、熊本が生んだ唯一の総理大臣の「正二位勲一等・伯爵 清原奎吾」とある。

    

 

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■細川小倉藩(551)寛永八年・日帳(閏十月十五日~十六日)

2021-04-23 06:13:07 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年閏十月)十五日~十六日

         |                                       
         |   十五日  河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也
鉄炮足軽等交替ニ |一、梅田藤右衛門、幷替之御鉄炮衆六人、御長柄衆二人、今日江戸へ差遣候ニ付、藤右衛門ニ渡遣候
出府ス      |  物数
         |  一、三斎様ゟ之御返書之御文箱壱つ、
         |  一、御年寄衆ゟ之言上ノ文箱壱つ、
         |  一、我等共ゟ之言上ノ文箱壱つ、
         |  一、大塚喜兵衛宿ゟ、喜兵衛へ銀五百九匁ノ由にて、一つゝミ遣候を、言伝遣候也、
         |  一、江戸御供中へ方々ゟ之書状、我等共ゟ之状、何も一からけ遣候也、
革足袋      |  一、かわノ御たひ十足上申候事、
         |   (正俊)
久貝正俊書状三斎 |一、久貝因幡殿ゟ、 三斎様へ被進御状、中津へ持せ上候処ニ、今夜四つ時分ニ御返書持参候、貴田
宛        |  半左衛門ゟ寺嶋主水方ヘの返事、又、我々ヘノ半左衛門ゟ之返事、何も持帰候也、

         |                                       
         |   十六日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也、
         |                                         (仁保慰英)
三斎返書久貝正俊 |一、三斎様ゟ、久貝因幡殿へ被遣御返書之御文箱、幷貴田半左衛門ゟ寺嶋主水へ之書状壱つ、太兵衛・
宛        |  (野瀬)
         |  吉右衛門方へ之我々書状壱つ、御小早之船頭小出惣左衛門ニ渡、成ほといそき上り候へと申付、
         |  候事上せ候事、
         |  〃〃
         |                    (有吉英貴)
長崎ヨリ公儀糸荷 |一、長崎ゟ、 上様御糸荷船参申ニ付而、今日頼母殿へ、参人ともニ参候事、
船参着      |
         |                            (元明)
         |一、右御糸荷之御奉行賄之様子、御家老衆被仰候付而、則、住江甚兵衛ニ申渡候事、
加子不足ス    |一、鏡善右衛門登城仕、被申候は、長崎ゟ公儀之御糸荷参候ニ付而、御加子不足仕候間、町水夫三十
         |  人申付候様ニと申ニ付而、則、吉田ぬい所へきりかミ遣也、
         |                         (周防熊毛郡)
公儀糸荷船随行ニ |一、八喜吉右衛門登城被仕候は、長崎ゟ糸荷参候ニ付而、上ノ関まて御送申ニ付、賄之奉行入申候間、
         |  御鉄炮衆二人・御長柄衆二人被申付候へと、吉右衛門ニ申渡候事、
         |                       (長重)
江戸ヨリノ書状  |一、江戸ゟ、 三斎様へ之被進之候御文箱壱つ、浅野采女様ゟ、 三斎様へ被進之候御文箱壱つ、
         |              〃
         |                             (信茂)
         |  殿様ゟ、御家老衆参人、我々参人可被成下候御文箱壱つ、城織ア様へ被進之御文箱壱つ、夜之
         |                 (     マ マ    )
         |  九つ時分ニ、御鉄炮衆桑原主殿与          為御飛脚持参申候、
         |   (可政)
忠利犬打ノ際鹿ノ |一、加々山主馬奉にて、被仰越候は、犬を打候時、犬之腹ニ鹿之玉や、牛之玉之様なる丸キ堅キ玉有
玉牛ノ玉ノ如キモ |  之ハ、取候て、かけほしニ可仕旨、 御意之由、被申越候間、則、山本仁介ニ申渡候事、
ノノ採取蔭干ヲ命 |
ズ        |
         |  (規矩郡)
罠ノ鴨ヲ拾ウ   |一、到津村ノ二介、境目にて、鴨ノ男鳥壱つ、わなニ懸り有之候をひろい申由にて、持参候、南野里
         |  兵衛ニ渡させ候事、

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■ポケットに150円もって

2021-04-22 12:48:50 | 徒然

     

 今日の散歩は遅くなってしまい、そろそろ10時を過ぎてしまった。
外に出てみると、ウインドブレーカーが余計物であることが判って、脱いで御荷物になってしまった。
昨日も暑かったが今日も暑い。30度の予報が出ているがどうだろう?
こうなるとルートは木陰を求めてということになる。
ケヤキ並木迄は約5分これはまったく日影がない。ケヤキ通りに行きつくと風も涼しくてほっとする。
テニスコートでは元気なご老人がこの暑さをものともせずプレイしている。ゲートボールの男女の一団も在る。
「熱中症にならんごつ頑張りなっせ」と声をかけたくなる。
割と広い公園のみどりのなかで、芝生の柔らかさや、積み重なった枯れ葉のカサカサという音を楽しんで歩く。
帰りはまた日影がない。いつもポケットに150円入れて出かけるのだが、これは途中の自販機で冷たいものを買うためである。
帰り着くと、風鈴をならす風が吹き込んでいて、ほっとさせられる。

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■汐汲みの竹の筒

2021-04-22 08:56:06 | 徒然

 過日図書館に出かけた折、江津湖の遊歩道を散策、わがメダカの為に水草を少々頂戴して帰った。
これに小さな白い花が咲き、何ともかわいい。壱輪挿しにでもさして見たいと思ったが、地震で割れてなにもない。
節の所から発根して元気に育っていて、あと数日は花を見ることが出来そうである。

                 

 細川家の記録を読むと、時折珍しい花などが届けられ花畠に植えられている。
もう半世紀も前の話だが、華道の先生(男性)のお宅を訪ねた際、これらの花は「柄を付けた竹筒」にいれて運んだらしいことを話された。
その際「稲佐の浜で汐汲みをするでしょう。あんな物ですよ」と言われた。
こちらは全く理解できないでいると、しばらく解説があり、漠然と理解することができた。
「水草で根元をまいて、羽を痛めないようにゆったりと頭がでないくらいにして運んだんでしょうかね・・・」そんなことを話された。    

先生の関心事は、珍しい一株の花を殿様に献上するのに、柄のついた竹筒をわざわざ作りこれに入れて運んだという、その優雅な心根だといわれる。
「どこかに残っていませんかね~」と言われた。
私は残念ながら、この竹筒に関しての記録にはまだ遭遇していないが、いい話だと思っている。

 稲佐の浜で汐汲みをされた方がこれを持ち帰り、玄関の扉に取付け、毎日一輪の野の花を飾られているという話を聞いた。
これも特上の良い話だ・・・
NHKの「日本紀行」みたいなTV番組ではなかったかと思うが記憶が定かではない。

       竹筒に笹の葉を添えたもの 参考サイト:いづもる

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■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(七)

2021-04-22 06:36:23 | 沼田家文書

          一勘解由殿御手之舩繫り被仰候様は舩を陸地之備立の
           如く袖をならへ■に碇を入舩之間は互に催合を
           とり何程の風にても浪にても舩振り直不申候様に
           つなかせ敵舩に舳を一面に並へ弓鉄炮も舳之武者走り
           ■横に■をいわせ筒先を敵にむけ立奈良へ鑓さし物も
           ■之間に立物急に舩ヲ出す時は■の碇綱に大明キ樽
           をゆひ付其樽に書付をし碇をくり上不申樽のきわより
           切間の催合も切即時に押出す筈ニ被究候て御家
           の跡勢諸手松平隠岐守殿御舩を常々舩牌り之ことく
           ■具を初め常々舩飾の如ク兵具を手作りに飾り申候
           御家之跡勢参り候時勘解¥家由殿一手之舩かゝり武具
           の立様之如く皆御仕置候叓
           但此時は御家之は鴈行敵前を過るに従イ舳を敵
           舩に向け申候叓
          一跡勢木鉢勘ケ由殿陳場と一所に御越候跡勘ケ由殿

           備之頭小笠原備前守殿備にて御座候 勘ケ由殿右之手
                   〇是ゟ備前守殿組之御鉄炮頭御並ヘニなしニ新九郎殿
           先キ山田新九郎殿舩と同並に舳を並へもあいとらせ候事
           不成候 此方之舩より舩丈ケ下ケ此方之■綱を其方
           之舳の催合に取可被申候 此争イ六ケ敷終にハ新九郎殿
           理に叶舩丈ケ下ケ催合とられ候事
          一勘解由殿二拾丁の小早にて諸手往来被成候 此定供
           村越傳兵衛・佐伯宇左衛門・坂井奥左衛門三人に御定置
           諸手之勤三人之者仕候 其外中小姓歩之者乗合に
           拾丁立小早壱艘下々に拾挺立壱艘にて供相勤
           申候叓
          一敵舩帰候被も弐拾丁に召御押通り被廻候手下知
           被成候 弐拾丁に乗申候者元舩之かひの口に御自身
           御建て壱人宛御差圖にて御乗せ候村越弁兵衛・佐

           伯宇左衛門児小姓に高月権兵衛・坂井奥左衛門差物役
           に古川次郎兵衛此五人御乗せ其外ハ壱人も御乗
           せ無之候 甚御氣色悪く御怒り候而御座候 此とき
           戸邊兵太夫と申歩之者覚悟を極メ弐拾丁に届
           たる様子勘ケ由殿御覧届候てにこ/\と御笑兵太夫
           事諸方に御使者御申付可有之間十丁立ノ小早に
           乗弐拾丁にさし添可参よし御申付候時参と申
           拾丁立小早に乗申候小早のかこの内に病氣ものか
           色悪敷物壱人御座候己ハ早色ヲ失ヒ居候敵舩に
           舩押叓ハ成間敷候間元舩之かこと代り候へと替へ
           可申と平太夫仕候時元舩之御船頭八左衛門と申仁申分
           法に違たる儀ハ不成と替仕を不申平太夫ハかへ可申と
           既に御船頭と諍論におよひ申様子に付伊藤源之允間

           に入様々八左衛門頭を云ひかこを替させ申候叓
          一自分馬乗冨田少助・坂井半左衛門・伊東源之允・村越
           八左衛門・浅利九郎左衛門・原喜太夫・中村左次右衛門・逸見■
           之允親権之允名代庄司一郎兵衛親作右衛門名代坂井
           半右衛門子
           奥左衛門具足を御着せ御仕上げ申候 同手傳仕候者ハ村越
           傳兵衛・高月権之助都合ハ馬乗分十弐人にて候事
           光利公
          一肥後守様御下着に付候三かい栖楼舩壱艘二かい栖楼舩一
           艘此二艘渡邊作之允裁判かこい舩壱艘完宇多長
           門同甚助・三好権之助同半右衛門・志水太郎兵衛・在間次左
           衛門・江藤太郎兵衛・渡邊平左衛門合k人皆御船頭之

           面々御手に付被申候叓
          一肥後守様江戸より長崎江監物殿勘解由殿方へ
           御書被遣候 御両人江當り申物其通銘々へ被遣時ハ監物
           殿へ如此比仰遣候と御案文を勘ケ由殿へ被差下候叓

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■細川小倉藩(550)寛永八年・日帳(閏十月十二日~十四日)

2021-04-21 12:49:38 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年閏十月)十二日~十四日

         |                                       
         |   十二日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
         |一、長崎へ被遣候御船頭、加来久二郎申付候、
         |  沼田延元  (後室ヵ)実・元三斎側室、松井寄之生母(元和四年秋再婚・参照)
         |一、勘解由殿かうひつ様ゟ、長崎にて、瓦林金大夫へ被遣銀子壱包、右之御船頭加来久二郎ニ言伝遣
         |  候事、
         |一、長崎へ之御船頭加来久二郎、今日出船仕候事、
         |                           (長良)  (眼気)
小笠原長良眼病重 |一、磯谷太左衛門御番故、知行所ゟ被罷出、被申候は、小笠原宮内殿散々がんけ被相煩之由ニて、御番
ク欠勤      |  にて候へとも、不罷出由、太左衛門被申候事、
三斎へノ音信ノ返 |一、中津へ被進之候さけの黒漬弐樽持参候御飛脚、昨晩罷帰候ニ、 三斎様ゟ之御返書、幷貴田半左
書        |  衛門ゟ之状持参候事、
         |
浅山修理田之浦ノ |一、修理、今朝田之浦之御茶屋出来申候ニ付而、見ニ被参候事、
新茶屋ヲ見分ス  |

         |
         |        河本瀬兵衛                                       
         |   十三日  奥村少兵衛 母煩ニ付、登城不仕候  
         |        加来二郎兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也、
         |             (長岡考之)     隠岐所                   (福王)
福王十蔵ヘノ投薬 |一、隠岐登城被仕、被申候は、休斎様ゟ、夜前〇片山加左衛門被差越、被申候は、十蔵相煩申ニ付而、
ヲ長岡考之相談ス |   (円脱)
         |  正清を給させ申候、左様ニ御座候ヘハ、十蔵儀も煩而相果て可申候と存候、我等薬あたへ申儀、如
         |  何ニ御座候間、余人ノ薬をも給させ可申候、もし我等薬をあたへ、相果申候ヘハ、めいわくニ存
         |  候、相果候ても不苦と思召候は、薬遣可申候由、林隠岐被申候事、
江戸ヨリ坊主帰着 |一、江戸ゟ祐念・休羽・珎斎、三人罷下候、宗頓も罷下筈ニ候へ共、相煩、江戸へ残り居申候由、申
         |  候事、
         |             (衍)
忠利板根某妻貸付 |一、坂根九右衛門登城にてハ被申候ハ、私女共かし付米取立被成可被下旨、扨々忝儀可申上様無御
米取立ヲ命ズ   |  座候、使者飛脚をも上ヶ申度候へ共、私式ニ御座候ヘハ、乍存打過申候、乍去、飛脚をも上申候
ソノ礼ノ可否ヲ伺 |                                                                                                      (幸長)
ウ        |  ハて不叶儀と思召候ハヽ、上可申候、さも無之候ハヽ、野田小左衛門所迄、進物成共頼候て、上
         |  可申やと被申候、一段尤候、乍去、其方小身之儀候間、被客も御音信も無用ニ候、小左衛門所迄、
         |  書状にて御礼可被申入由、申渡候事、
         |

    板根九右衛門の妻は、忠利の乳母で後に大局となった女性の三女・ごうのことである。
    某氏が二十石を年四割の利子でかり、返済不能となり百六十石という膨大な借財が残ったという。
    三斎が乗り出し忠利に解決を依頼しているが、この時期になり解決に至ったか?
    詳細は■乳母の家に詳しいので参考とされたい。


                 中村新助    
                  ‖--------+=========== 茂助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→中村家
                  ●    |           ↑
              忠興乳人 後・大局 | 三女     +--兵助 嫡子ナレド生母実家・中村家ヲ相ス
                       +--●ごう    |
                          ‖----------+--藤左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・→坂根家
                     坂根長右衛門
                       少九郎 ・九右衛門
  
       
                                 |                    
福王十蔵ニ大験ア |一、福王十大夫登城にて申候ハ、十蔵煩大験御座候、忝存由、申候事、
リ        |

         |                                       
         |   十四日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
惣奉行等有吉英貴 |一、今日三人ともニ、頼母殿へ談合事ニ参申候事、
邸ニ談合ス    |

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■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(六)

2021-04-21 06:21:30 | 沼田家文書

          一藪市正殿事最初より勘ケ由殿組に加り御越候に付
           是も元組頭米田監物殿御越候ゆへ元組へ御返シ候 跡
           勢戻り申に成り候得は市正殿も清田石見守殿組之
           明石源左衛門殿も御残り又勘ケ由殿組に加り被居筈
           に候源左衛門殿ハ其上御横目ゆへ其首尾を被知候て
           石見守殿へ御尋候得ハ勘ケ由殿組に戻り被申候
           市正殿も監物殿江被相尋候得ハ右は勘ケ由に加リ
           被申候得共我等参り被帰候上は同前に被帰筈
           候と監物殿被仰候 市正殿氣に不入候間勘ケ由殿へ
           無御尋組之舩にも戻り候との下知もなく被帰候
           其後勘ケ由殿御聞付候て市正は戻被申筈には
           無之候 即跡呼返シに被遣候得と監物殿へ被仰連候
           に付監物殿ゟ呼返しに使者舩被遣候得共藪市
           正殿不被聞入被帰候に付亦監物殿家来真隅

           瀬兵衛に一々被仰含め追懸ケかば嶋まて七里余り
           様々事を分ケ瀬兵衛申連候得共無同心熊本へ
           被帰候 監物殿御立腹にて市正組大事之侍頭無
           しに仕筈にて無之候 然上は監物残り市正組之裁
           判か有とて御残候 勘解由御横目明石源左衛門殿権太
           夫殿を御使にして監物殿去迚は御分別違にて候今度
           肥後守家来之内長岡監物・勘ケ由左衛門と四方に聞へ
                       御番方之事
           可申候組之下知を仕損し監物残り馬廻り之頭に
           成り勘ケ由下知に御入候と相聞候而は自分之外聞
           は其通り 殿様之御為ハいゝか可被成哉市正ハ我等
           呼に遣可申候 市正参り候間は組中私之候 下知可仕候
           監物殿は無兎角に早々御帰候へと被仰遣 監物殿
           然上ハ伺御差圖可申とて御帰り候 扨市正殿へ勘ケ由

           より御帰り筈にて無之候 早々御越候へと呼に被遣候 市正殿
           熊本へ前番着翌朝勘ケ由殿より呼飛脚着申候ニ付
           勘解ケ由殿より御呼候ハヽ可参とて朝五つ過に熊本打
           立即跡長崎江御越候事
          一跡勢戻り候跡歴々衆余之舩に咄に参被居我舩
           にも不帰咄しかゝりの舩より被帰候衆も御座候に付
           肥後守様御下知之上にて長崎一巻に迷惑被仰付衆
           あまた有之候得共左候而ハ頭々も御通難被成に付御穿
           鑿不被仰付候 兼々御意被成候由之叓
          一敵舩御助御返被成候旨諚渡候 然れとも若高
           わこより内にて石火や打申候ハヽ御踏潰可被成旨被仰
           渡候高ほこようちうの入口にて諸手の陳所より凡
           壱里餘り間有之候 石火矢打候とき中々懸合不申

           方に之可有之と勘ケ由殿思召候に付政所江御出
           明日敵舩御返し被成候前高わこ近所にて石火矢
           打候ハヽ御踏潰し可被成と被仰渡萬一打申候とき諸手ゟ
           かけ合不申敵舩逢で候手は異国之聞へもいかゝに存候其
           御用心に 肥後守人数を分ケ高わこに被遣被下候得と
           御届候得は政所之御衆其儀不思召寄所にて候尤之
           届にて候間左様に被仕候得と被仰渡候 明ル未明に舩
           とも分ケ被遣筈之処に筑前守殿御聞付政所江御出御届
           候は肥後守人数を分ケ高ほこ江被遣わ候由我等儀ハ請

           取前之叓に候敵舩出浮き候得は我等陣場は一入わと遠く
           成り候条高わこへ我等人数を被遣候得と御届候 政所衆
           御申分に其段は勘ケ由届之不申先に被仰聞叓に候間
           御人数を可被遣候 肥後守殿人数は加勢之儀に候間

           差留可申との儀にて御座候 其段勘ケ由殿差留
           来り候 平野弥次右衛門殿早く高ほこへ御越御聞付候間可備
           哉と勘ケ由殿に尋に参り候態も御家の人数之内遣
           ■に候事幸にて候間其まゝ高ほこへ御座候様との事
                            にて松平筑前守殿御家の手を心許なく思召けり
                            乗舩に編笠を御着左候而御家の備之間を■両度御
                            見廻其後筑前守殿人数乗候早舩五十挺六十挺程之
                            大舩五艘敵舩と御家の備之真中に取切かゝり仕候
                            舩の中を見に侍斗乗り兵具も不見鑓斗武者走
                            に伏置舩之屋形之戸障子まてはつしひそまり申候
                            必両度乗込覚悟まてに見へ申候事

 

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■河出書房新社「自転車に乗つて」

2021-04-20 19:44:17 | 書籍・読書

               自転車に乗って 河出書房新社「自転車に乗つて」

  • 価格 ¥1,870(本体¥1,700)

出版社内容情報

自転車にまつわる文芸エッセイアンソロジー。走る楽しさ、風を切って見る風景……最も身近なのりものが日々に
もたらす喜びを味わう。

目次

1 はじめる(空気(三浦しをん)
  サイクリングばあさん(群ようこ)
  自転車日記(夏目漱石)
  自転車日記(萩原朔太郎)
  父親と自転車(小川未明)
  これからは歩くのだ(角田光代)
  『サイクリング・ブルース』より(忌野清志郎))
2 ふりかえる(異形の風体(自転車を脊負て)―中村春吉「世界無銭旅行」より(押川春浪)
  電報(織田作之助)
  自転車に乗る女(北杜夫)
  (江戸川乱歩 サイクルおしゃれ時代 )
  自転車事故(吉行淳之介)
  「電報くばり」(金子みすゞ))
3 考える(自転車に乗って(柴田元幸)
  自転車をこいでいる人間は何を考えているのか(伊藤礼)
  自転車、そして自転車の思想(真鍋博)
  ある少女(中井久夫)
  馬行き人行き自転車行きて(宮沢賢治))
4 旅する(しまなみ海道をゆく(羽田圭介)
  ビワイチ(藤崎彩織)
  自転車、山の辺、ふしぎなホテル(半村良)
  まくりのアサちゃん(山松ゆうきち))
5 いつでも、どこまでも(木漏れ日と自転車(北川悦吏子)
  自転車(志賀直哉)
  自転車哀歌(吉本隆明)
  自転車の時代(久世光彦)
  優しい言葉(益田ミリ)

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■見事なる造形

2021-04-20 14:27:29 | 徒然

                                                             

 見事な真円のタンポポに出会いました。腰をかがめ低い位置からとってみましたが、こうして写真で見ると素晴らしい自然の造形に驚かされます。
雑草の中に打ちあがった見事な大玉の花火という感じです。

  

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■細川小倉藩(549)寛永八年・日帳(閏十月九日~十一日)

2021-04-20 06:58:11 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年閏十月)九日~十一4日

         |                                       
         |   九日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
薬箱ノ塗代ヲ下価 |一、浅井五左衛門申候は、御薬箱ぬり申代銀、壱つニ付、六拾目ニ被仰付候、就其、四拾目ニ可仕
ニ望ム者アリ   |   (塗師屋)                                (返)
         |  申ぬしや御座候、左様ニ御座候ヘハ、大分御徳分参候間、取通候て、四拾めニ可仕と申ものニ可
徳分ナル故改メ命 |                    (ママ)  
ズヘシ      |  申付候哉と申候、尤御徳分参儀御座候間、可被申付候へと、申渡候事、

         |                                       
         |   十日  河本瀬兵衛・奥村少兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也、
花畠ノ寺掃除等ノ |一、大学殿ゟ、使者を以、被仰候は、御花畠之寺掃除以下之ため、先、花の坊を置申候様ニ被仰、則、
用ニ花ノ坊ヲ置キ |  上林甚介、花之坊相添、被遣候間、其段花の坊ニ申渡候事、
タシ       |
         |  (豊後国東郡)
竹田津へ舟道具ノ |一、竹田津へより申候御舟道具ノ注文、鏡善右衛門ニ渡申候事、
注文       |
幟ノ者加子ヲ様斬 |一、御昇之茂左衛門・佐渡殿加子弥蔵、御腰物にて、横山清十郎ためし被申候処、御刀ハよくきれ申
ル        |  候、御大わきさしハきれ不申由被申候、佐渡殿刀ニてもためし被申候処、是ハ三腰ニて候つるか、
         |  いつえもきれ申候由ニ付、佐渡殿ゟも、其通使者ニ而被仰聞候事、
         |  (沼田延元)                 (規矩郡)門司区田野浦
田之浦茶屋ノ留守 |一、勘解由殿ゟ、使者を以、被仰聞候ハ、田之浦之御茶屋ニ、留守居ノ坊主を召置候へと、御上洛前
居坊主ノ選任   |  ニ被仰付候、御上洛之御門出ニ、被成御座御茶屋之儀ニ御座候間、むさと仕たるものハ召置不申
真言坊主     |  候、然處ニ、しんごん坊主他国ゟ参候、一段可然と存候間、留置申候、是を被召置能可有御座候、
         |  併、御作事奉行衆二も被仰付候間、いつれにても可然方を召置可申候由、被仰聞候間、得其意存
三人扶持ニ紙衣料 |  候、惣談仕、従是可申入由、御返事申候、ふちハ何ほとにてい可申哉と使ニ相尋申候処ニ、三人
         |            (紙衣)
         |  ノふちニ、又、似合ニかミこを仕ほとの御心付ニ而、い可申由申通、使被申候事、
府内幕府横目交替 |一、佐渡殿ゟ、使者を以、被仰聞候ハ、豊後御横目衆、いつも来月ハ御替被成かと覚申候、左様御座
ノ時期 例ノ如キ |  候ハヽ、いつものことく、御音信物被進之ニて可有之候、酒ハ爰元之酒悪敷可有之候間、上方へ申
進物ノ準備    |  上せ、諸白取下、被進之可然候間、前ひろニ、上方へ便宜候ハヽ。取ニ遣置可申由、被仰候間、
         |  得其意存通、御返事申候事、
         |
大工江戸ヨリ帰着 |一、御大工作兵衛、江戸ゟ今日罷下候也、 御書成被下、致頂戴候、其外、方々ゟノ状共持参候也、
三斎へ忠利音信  |一、三斎様へ御書、幷鮭ノくろつけ弐桶被進之候、中津へ持せ上申候也、
鮭ノ黒漬     |
        
         |                                       
         |   十一日  奥村少兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也、
         |一、昨日、大坂ゟ罷下候御船頭田辺長介也、御銀子ともつミ下候也、
         |                          (長門厚狭郡)
竹田津辺ニテ須恵 |一、当所中浜ノ次右衛門と申もの、竹田津へ参候処ニ、今度本山口にて、損申御小早ニ積候酢樽壱つ
ノ本山難船ノ酢樽 |  ひろい申由にて、吉田縫殿所へ差上候由にて、持せ上られ候、則、南野九郎兵衛ニ渡候事、
ヲ拾ウ      |
         |   (親英)             (細川光尚)
光尚付ノ切米給付 |一、松野織ア・町三右衛門ゟ、 御六様衆御切米、江戸取と小倉取とノ書わけ被差越候を、新兵衛ニ
ニ江戸小倉ノ書分 |  渡ス、
蔵納米ノ仮切手一 |一、御蔵ノ納米、今迄ハかり切手を出し置、来年ノ七月ニ一紙ニ取替候、それニ付、御蔵奉行衆手前
紙ニ取替     |  ノ御さん用不相究候、其ゆへ御年貢・小物成米、其外万之しな/\ノ御米、いつれか納り、いつ
年貢小物成米其他 |  れハ不納とのわけしれ不申候間、とかく其時々ニ、何米/\と申理、本切手を取せ候へと、拾郡
ノ区別不明故本切 |  へ申觸候、道倫幷松ノ丸衆・我々三人惣談にて、申ふれ候也、
手ヲ取ラシム   |

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■国名勝「水島」の正式住所

2021-04-19 13:06:34 | 熊本

 17日の熊本史談会で、又話題に上がったのが「三太郎峠越」の事である。
豊臣秀吉の薩摩征伐も、島津斉彬公の参勤交代や、篤姫の江戸東上の旅、また西郷隆盛の熊本進出にあたっても、道幅一間ほどのこの羊腸の小径を通行したとされる。
往時の人は随分難儀して旅をしているが、其の様を徳富健次郎(蘆花)は「死の陰に」で書き残している。
船で海路をたどると2時間、三太郎越えは11
時間かかったという。
古い旅の記録とか、小説や随筆などいろいろ取り上げられているのではないかと思い、調べてみようかと馬鹿なことを思い立った。
そして、景行天皇の御一行様は「三太郎峠」を通られたのかと考えた。

切っ掛けは、一寸古い記事だが熊本日日新聞に、八代市水島にある国の名勝「水島」に関する記事が出ていた。
                 https://kumanichi.com/news/id174024
ある読者の指摘により、その正式な住所を調べたというものだが、干拓などによりこの「水島」が守られた経緯なども明かされている。
                  現況 八代市植柳下町水島500番地 

この「水島」日本書紀の景行天皇の項に登場する処だが、熊本にかかわり深い記事が多くあり、大変親しみやすい。
残念ながら「三太郎峠」については触れていない。残念・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
景行十八年 戊子

     くまのあがた くまつひこ                      えくま         おとくま
・四月三日、 熊縣に熊津彥と云う兄弟がいた。二人を招かれたが、兄熊はやってきたが、弟熊は来なかったので誅殺した。       
         あしきた  こじま                                やまべのあびこ   をひだり
・同月十一日 海路で葦北の小嶋に行き、そこで食事をされた。この時、山部阿弭古の祖の小左に冷たい水を所望されたが、この嶋には水がなく、為す術がなかった。
そこで、天神地祗をお祀りしたところ、崖から寒泉が湧きだしたので、それを天皇に献上した。

        みづしま   
これ故、この嶋を水嶋と云い、今もその泉は水嶋の崖にある。

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■「永青文庫研究」第4号発行さる

2021-04-19 06:22:28 | 論考

 「熊本大学永青文庫研究センター」のサイトに、4月15日付で「永青文庫研究」第4号発行についてというお報せが出た。
大変ありがたい「紀要(永青文庫研究・第4号)」と「年報」の無料配布の御案内である。
郵便はがきでのみの申し込みとなるが、申し込み方法は上記サイトをご覧いただきたい。
但、「希望の紀要・年報の号数」については、書き込み例が記されているが、今般の発行は「紀要・第4号」であり、
「年報は12号」が最新版である。

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■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(五)

2021-04-19 06:20:49 | 先祖附

          一長崎副将軍に松平隠岐守様・大目附に井上筑後守
           殿・兼松弥五左衛門殿・長崎片町御奉行山崎権平殿
           御下り隠岐守 殿御陳所木鉢舩橋より内 殿様御人数
           之場並にて候事
          一勘ケ由殿御出被成候刻政所御三人衆被仰渡候は敵舩今
           度ハ御助御返被成筈に候 左候得は人数も大分ハ不入叓
           に候 其方一手は被参候間相残り跡勢ハ御返し被成候間
           監物被連被致候様に可被申儀旨に御座候に付奉得其意候

           監物御暇乞に参上可仕旨被仰付候得は夫に不及候 一刻
                 本ノママ
           も早く被仰候御為にて候間被出事無用に當候得と御座候
           勘ケ由殿御帰り而右之首尾監物殿に直に御寄被仰
           渡候 明日御暇乞に可罷出と監物殿被仰候 御出之上にて
           昨日勘ケ由罷出候に跡勢召連可帰之旨被仰渡奉得
           其意御暇乞に参上仕候と被仰候得は御三人之政所被仰に
           昨日勘ケ由江其通ニ申談候へ共其後松平隠岐守様其外ノ
           就何角免御申候間今一左右迄ハ御待候へと被仰候 扨監
           物殿勘ケ由殿江當り候觸状にて唯今長崎ゟ帰り申候
              跡勢戻り申事ハ勘ケ由聞違にて戻り不申筈之由御
           觸候 勘ケ由慥に昨日被仰渡候を聞違と有事不審ニ
           而候間直に長崎之首尾可承候とて又右之三頭御備
           衆江勘ケ由殿より唯今監物殿よりの御觸に付長崎之

           首尾直に可承と御座候て監物殿へ私参候間何連も御出
           ニ而御聞候へと御觸候 御横目明石源左衛門殿・同権太夫殿も
           同道にて御越監物殿江御列座之上にて勘ケ由御申候ハ
           跡勢戻り申事ニ候 勘ケ由聞違之由御觸候政所衆ハ
           いかゝ仰候哉と御尋候へは監物殿仰に昨日勘ケ由
           罷出候に私儀跡勢を召連罷帰候様に被仰下候 御暇
           乞に罷出候と申候得は御三人御申候は明日勘ケ由殿江ハ
           右之通申渡候得共松平隠岐守様其外ノ衆何角免
           被申候間今一左右までは被相待候へと御申候に付先跡
           之通申觸候と監物殿被仰候時勘ケ由殿御申分に夫ハ
           あなたの御評儀か違たると申物にて候 何連も列座之
           御衆左様ニ可有御心得候横目衆能覚可被居候 扨監
           物殿御身躰に不似御存分にて候御年けいと申場をも御覧

           之事に候得は我等は時節悪敷此年まて今度初て
           御人数を連候て出陳申候 從令勘ケ由不調法候而陳中
           之沙汰に逢候得とも御年来の貴様にて候得は此節
           御為と思召勘ケ由に如在候て無之様ニ御取持可有事を何そ
           雲照院殿事(是季)
           聞違も無候時監物殿至極之御申分致迷惑は誠に私之
           心得違誤り申候と返答にて候ニ付何連も退出にて候
           細川刑部殿二十町家来■権左衛門供に被参監物殿
           御召舩のかきたつに取付居皆供も一所に舩を寄
           同前に一々承覚申候叓
          一明石源左衛門殿事勘ケ由殿一手之御横目に最初ゟ
           御越候 然とも元之組頭清田石見殿跡勢に御越故元ト
           備へ御返シ候 明石権太夫殿も御横目にて跡より御越河尻
           にて御舩手支へ故小早にて参着明石源左衛門乗

           被乗候御早舩同苗之権太夫乗代被申勘ケ由
           組備之御横目被勤候様にと有之に付小早にて長崎へ
           御越同姓源左衛門殿江舩を御渡し候へと被申候時源
           左衛門殿之返答に不存寄仕合に候 舩を渡候事
           不成と被申候権太夫殿ハ可受取と双方云分募り
           叓に可成に極り候に付勘ケ由殿中に御入物前不
           被謂叓被申間敷候権太夫殿江は源左衛門殿被乗候
           早舩四拾弐丁に不相替舩を渡可申候と御しつめ候
           然共四拾弐丁之主なし舩無之候間此方へ請取候
           舩を先荷舩に乗せ替此四拾弐丁を権太夫殿へ渡シ
           代り之舩川尻へ申遣舩参次第に供舩之者共御乗
           せ可有と御申候時供舩に乗候家来鉄炮頭浅利九郎
           右衛門馬乗原喜太夫・逸見国之允・中村左次右衛門・庄司

           市郎兵衛中小姓歩之者共に至る迄権太夫殿に
           舩を渡候事御意にても不罷成候と一同に申候 勘ケ
           由殿御聞無余儀申分にて候我等供舩に乗り
           中々言分至極に候 乍去権太夫源左衛門両人共に
           此通りにいたし候へは先へゆかぬ事に 若俄之儀候ハヽ
           御息(嫡男・延武)
           小早を餘計御付可有候又は御乗舩三左衛門舩にも
           乗可申候 少しも連々におよひ候様は成間敷候 爰を聞
           分ケ候得と直に被仰候故内連もとこうの無事候間
           舩を明ケ明石権太夫殿に相渡候故不成相済候
           無程川尻より四拾弐丁の御舩参り供舩に相成乗
           移り候事

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