津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本城調査研究センターの定期講座「熊本城学」の記録-その2

2022-02-22 07:25:43 | memo

かって、熊本城調査研究センターの定期講座について、その記録の一覧を表示したことがあった。
        ■熊本城調査研究センターの定期講座「熊本城学」の記録

其の後の記録について、ずいぶん時間が経過しているので再度「その2」として続きをUPすることにした。


第40回 中世の隈本城から近世の隈本(熊本)城へ
【日時】令和2年(2020年)2月8日(土)
  講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主幹 鶴嶋 俊彦
 
第39回 長塀の保存修理工事~これまでとこれから~
【日時】令和2年(2020年)1月18日(土)
  講演者 熊本城総合事務所    主幹兼主査   城戸 秀一
      熊本城調査研究センター 文化財保護主幹 岩橋 隆浩
 
第38回「クマモト城」と豊臣政権
【日時】令和2年(2019年)12月21日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事 下高 大輔
 
第37回「天守閣の石垣復旧でわかったこと」
【日時】令和元年(2019年)11月16日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事 嘉村 哲也
 
第36回「シャチホコ」から城を語る
【日時】令和元年(2019年)10月19日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主幹 美濃口 紀子 
 
第35回「琉球の風ー琉球のグスクと熊本城ー」
【日時】令和元年(2019年)9月21日(土)

   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事 亀島 慎吾
    配布資料 「琉球の風」 

第34回「熊本城以前の地政学」
【日時】令和元年(2019年)8月17日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 主査 林田 和人
   配布資料 「熊本城以前の地政学」

第33回「伊達の城と熊本城」
【日時】令和元年(2019年)7月20日
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事(仙台市派遣) 須貝 慎吾
   配布資料「伊達の城と熊本城」

第32回「清正の土木」
【日時】令和元年(2019年)6月15日
   講演者 熊本城調査研究センター 主査 金田 一精

第31回「明治22年熊本地震と熊本城」
【日時】令和元年(2019年) 5月18日
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事 木下泰葉
   配布資料「明治22年熊本地震と熊本城」 

第30回「被災後3年の熊本城復旧状況」
【日時】 平成31年4月20日(土)
   講演者 熊本城総合事務所    主幹兼主査   城戸秀一
       熊本城調査研究センター 文化財保護参事 山下宗親     
    配布資料「被災後3年の熊本城復旧状況」 

第29回「熊本城築城への道」
【日時】 平成31年3月30日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事 河本愛輝
   配布資料「熊本城築城への道」 

第28回「浜松の城と熊本城」
【日時】 平成31年2月23日(土)
          講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事(浜松市派遣) 和田達也
 
第27回「加藤清正の本城と支城」
【日時】 平成31年1月19日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事(浜松市派遣) 和田達也
   配布資料「清正の本城と支城」 
 
第26回「彦根城と熊本城・慶長の築城ラッシュ」
【日時】 平成30年12月15日(土)
        講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事(彦根市派遣)  下高大輔
  配布資料「彦根城と熊本城ー慶長の築城ラッシュー 
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■熊本藩家老 長岡監物 関係文書一括 9点 

2022-02-21 19:37:37 | オークション

             熊本藩家老 長岡監物 関係文書一括 9点

 実学党坪井派の領袖・長岡是容に関係書状らしい。幕末史研究の貴重な資料ということだろう。
なんとか熊本の関係者に落札をお願いしたいと切望する。

                     

 

               

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■熊本城築城とお花畑の位置

2022-02-21 07:46:27 | 地図散歩

 一昨日の熊本史談会例会では、熊本城の三の丸の存在を検証した。
三の丸の存在を考えていると、あの茶臼山をどう縄張りをして梯郭式(階郭式)の城郭として築造していったのかに大いに興味を持った。
鹿児島大学が発表している熊本大地震後の熊本城内数か所のボーリングからくる地質断面図を提示したが、皆さんも大いに興味を持たれた様だった。
二の丸の広いスペースは薄い表土しか見当たらず、いわゆる熊本城の地山 Aso4(同上・紫色表示)を均したことを物語っていた。
一方天守部分などでは10m以上の盛り土をしている。これは驚きであったがこの土こそ二の丸を均した切土であったのかもしれない。
二の丸の北側の百間石垣における7~8mに及ぶ段差は立田山断層による地層のずれと考えられ、大昔の官道が通っていた。
古京町一帶を三の丸とも呼んだらしいが、梯郭式縄張りからするとそう呼んでも良かろうと思うが、道が通る曲輪というものを「丸=曲輪」と呼ぶのは如何かと思うがどうであろうか?町名がついていたということは侍町ではない。
古京町の人々を京町に移し、その後跡地に侍屋敷が建つようになると「三の曲輪」と呼ばれ始めたようだ。

 熊本城の建設は土をいかに動かすかということに尽きるような気がする。
大蛇行していた白川は資材の搬入には大いに活躍しただろうことは大いに予想がつく。
そして最後に現在の城内竹の丸に入り込んでいた白川の流れが、版築という手法の地盤改良で白川の流れ及び川岸が埋め立てられた。
それは慶長15年あたりまでとされる。これらを埋め立てる土量は10万とか20万立米に及んだのではないか。これも茶臼山を掘り崩して確保されたのだろう。
棒庵坂こそがその搬出の道ではなかったろうか。

 のちに細川家の居館となった「お花畑」は、かっての白川の流れの真ん中に位置していたのではないかと理解していたが、そうではなく大蛇行した湾曲の内側の頂上部分にあたるようだ。
花畑邸の裏手にはかって追い回し田畑という数メートルの段差がある低湿地があり、これが白川の蛇行の名残である。
加藤清正が支配したかっての阿蘇氏の居館矢部の愛藤寺城が破城の措置(慶長17年)が取られた際、その居館が解体され花畑邸に移され大広間になったと言われる。
すべて水運をもって為された。
白川、坪井川、井芹川のながれがこの大事業の運搬手段をになった。
熊本城の大工の棟梁善蔵の「覚書」によると、材木は茶臼山本体と近隣の山々から切り出され、石材は高平(?)だとある。
現在の高平の地から考えると、石材を京町台に運び上げるのは至難の業である。転がり落して坪井川を筏で運んだと考えるのが妥当である。
御城周辺の平均地盤高は標高12mくらいである。天守周辺は50mに近い。約40m、どうやって運び上げたのだろうか。
そして豊かな木々が生い茂っていたであろう周辺の山々は、材木の確保のために丸裸状態になったであろう。
そんないろいろな景色を頭に描くと感慨深いものがある。

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■路傍の菫

2022-02-20 14:03:39 | 徒然

 今日の熊本は午前中断続的ではありますが雪が舞いました。5~6mの風も吹いていますからまさに「舞う」という感じです。
南国に住む我々はこんなささやかな風景にも感激してしまいます。
気温も上がらず5℃ほど、手袋をし、ネックウォーマーで耳を覆って散歩をしましたが、あまりの冷たさに今日の成果は3㌔程となりました。
こんな寒さの中でも春の足音は聞こえてきます。高斜面に小さな「菫」を見つけました。

                 

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■それぞれの悲喜劇

2022-02-20 09:03:23 | 先祖附

 忠興の男子、嫡男・忠隆、二男・興秋、三男・忠利、五男・立孝、六男・寄之、七男・興孝のそれぞれの悲喜劇を追ってみよう。(四男千丸ハ夭折)
まずはそれぞれの生没年を確認するためにグラフにしてみた。

忠隆・興秋・忠利の三兄弟(生母ガラシャ)と、立孝・寄之・興孝の三兄弟にこれだけの年代差があるのが面白い。
(立孝と興孝の生母は清田氏幾知、寄之の生母は真下氏才)
検討については次回・・・


             天正8年(1580)生                                                                                              正保3年( 1646)没-67歳
 忠隆   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                  天正11年(1583)生         元和元年(1615)切腹 ?                    寛永19年(1642)没-60歳

   興秋   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                      天正14年(1586)生                                                                             寛永18年(1641)没-56歳
   忠利   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                                             元和元年(1615)生                                正保2年(1645)没-31歳
   立孝   ・                                                               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                                               元和2年(1616)生  同7年松井興長養子                                          寛文6年(1666)没ー50歳
   寄之   ・                                                                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                                                                 元和3年(1617)生                                                                                              延宝7年(1679)没-63歳
   興孝   ・                                                                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
                                                                                              江戸證人22年

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■監物櫓の名前の由来?

2022-02-19 06:41:19 | 歴史

 監物櫓の解体修復工事が始まった。
そんなニュースを見ながら、「刑部邸の跡にあるのに監物(米田)台植物園とか、監物櫓とか、これいかに・・」と思い続けてきたことに、逆に疑問を覚えた。

 細川刑部家の初代・興孝は細川忠興の末子(松井寄之が少し早く生まれている)だが、3歳で江戸證人として江戸に在ったが22年の長きから解放され、寛永17年(1612)正月江戸発、途中で発病して一時伏見に留まったのち、室津で何ゆえか剃髪、3月1日熊本入りし横手の安国寺に入った。
病気療養として同年7月17日菊池の隈府の茶屋に移った。
3年間の在郷として知行11,500石が給されたが、これを父・忠興が管理する処となり父子の間の不和が決定的なものとなった。
その忠興の死の翌年、正保3年(1646)9月に25,000石が給され、ここで城内古京町に転居したとされる。

資料は「古京町」と特に記している。城内の監物台植物園あたりが、刑部家の2つの屋敷があったが、此処ではないことが不思議である。
この2つの屋敷は、加藤時代から存在していたものであり、細川氏入国当時も間違いなく存在する。

2代興之は正保元年(1644)頃に生まれたと推測されるから、この人が刑部邸に入ったとは考えにくい。
つまり、細川家の肥後入国以来、刑部邸だといわれる城内の二件の屋敷は全く別人が住んでいたことになる。
興孝は寛文4年(1664)に致仕し、延宝7年(1679)に死去した。63歳であったという。
2代興之は父に先んじて寛文8年(1668)死去した。25歳。知行は一門から差し上げた。
3代は興之の弟・興知、寛文八年新知10,000石を拝領したが元禄14年(1701)死去した。
この二つの刑部邸はこの二人の兄弟の屋敷としてスタートしたのかもしれない。

そしてこの刑部邸と呼ばれるこの二つの屋敷には、前住者が存在したことは間違いない。
まさか、米田監物が住んでいたということはないと思うが。もしそうであれば、監物櫓の命名の不思議が解決着くのだが?

   参考  寛永一六年細川忠興の人質交代

       細川興孝と刑部家の成立の事情 花岡興輝著作撰集 掲載
       

 

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■ご恵贈御礼「伊丹家史料展・図録」

2022-02-18 09:12:59 | 書籍・読書

                                                                                   

 細川幽齋の娘・加賀(日出藩主・木下延俊室)の生母は、黒田孝高(如水)を有岡城から救出した加藤又左衛門重徳の妹だとされる。
又、細川忠興の側室・藤(娘・古保は家老・松井興長室)は郡主馬首宗保女だが宗保は前述の加藤重徳の室・寶樹院の実兄である。
摂州伊丹城主・伊丹親興(親保)の子女である。重徳・寶樹院の次男・一成は、父重徳の黒田孝高に対する篤行により、孝高の養子となり三奈木黒田家の当主となり、代々黒田家の大老職を勤めた。

姉聟は後に忠興に仕える黒田蔵人、すぐ下の妹はこれも細川家に仕えた薮内匠に嫁いでいる。
この一族は摂州伊丹氏の一族なのだが、細川家との関りが細川家の資料からはなかなか見えてこない。

 今般、一族の末裔であるT氏からこの資料をお送りいただいた。感謝申し上げる。
私の手元には数種の伊丹氏の家系図があるが、一様ではない。伊丹氏の資料は信頼に足るものが少ないとされるが、いろいろ齟齬が見えて、例えば先の加藤又左衛門などについては父親の名前さえ判らない。一つは伊丹雅勝の子とする者があるかと思えば、海賊の伊丹康勝などと書いてあったりするが、その存在さえ確認できない。徳川家の旗本で、勘定奉行などを勤め甲斐徳美藩の初代藩主となった伊丹康勝は全くの別人である(伊丹雅勝系)

 今般頂戴した図録には「伊丹伝記」なるものが紹介されている。まだ精読していないが、これとて私がもっている伊丹系図とは相いれないものが伺える。
そんななかでT氏からは系図をまとめてほしいと依頼されているが、これは大いなる難題である。頂戴したのは良いが、お返しが大変である。

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■司馬遼太郎状態

2022-02-18 06:58:07 | 徒然

 熊本に於けるオミクロンの流行のピークは、1月27日の1,281人だった。
以降、1,000人越えが4日ほどあったかと思うが、昨日は674人とピークの半分くらいになってきている。
明日は熊本史談会の例会だが、「まんぼう」が延長されたため、会場である熊本市民会館からは、申込通りの日程で開催されますかと問い合わせがあった。また、例会の告知を掲載していただいている熊本日々新聞社からも、メールで原稿を送付後しばらくしてから同様のお問い合わせを頂き、恐縮してしまった。
明日の例会は、質疑応答などで出席者の発言が飛び交うのではないかと予想しているが、万全の対策で臨まなければならない。
 私は朝散歩以外には、郵便の投函や月一の病院行きで出かける位で、ほとんど隠遁生活である。
少々髪がのびたので散髪に出かけるかどうか悩んでいる。
もう司馬遼太郎氏状態になっている。察するに司馬氏は髪の量が相当多いようで前頭部もふさふさしておられるが、私は随分頭髪量がへってスケ/\状態になった。
運転免許を返還した時、「運転履歴証明」を作ったが、その時の写真をみて愕然としたが、それとて1年10ヶ月ほど前の事である。
そんな頭だが、行きつけの床屋さんは散歩のルートから50mも離れていないから、出かけずばなるまいと思いつつある。
現況未定、優柔不断な私である。


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■熊本の中心が「新町」であった時代

2022-02-17 09:00:35 | 歴史

 熊本では現在各地で春の風物詩「植木市」が行われている。これらの起源は天正年間とされ、地域の賑わいや子どもたちの楽しみのために当時の隈本城主であった城親賢公が市をおこしたのが始まりだとされる。■古今肥後見聞雑記から--初市の成り立ち
熊本の中心は「新町」であったことが判る。現在は「古城(ふるしろ)」地域と称されるが、現在の第一高校校地を主とする地域が城域であった。南を白川の大河がながれ急峻な東側後背地をのぞく、北・西側には水堀がめぐらされて、白川とこの水堀は深くこの敷地内に導かれて堅固な防御態勢が整っていた。
加藤清正の時代に至って、さらに整備が進み、明治に至ってジェーンズやマンスフェルト等の住まいが建てられた、丘陵地の一番の高まりに天守が設けられた。
現在の熊本城が存在しない時代、つまり茶臼山がまだ存在していたころの熊本の姿を考えると、新町の姿が髣髴としてくる。
新町は町人の町である。当然加藤時代には侍の住まいも点在していたものと考えられるが、細川時代の侍町のような広がりは見受けられない。まだ「肥後半國」の城下町であった。

 明後日には、熊本史談会例会で「熊本城内に於ける三の丸の存在」をテーマにして皆さんが楽しまれることだろう。
細川家史料によると、本丸・二の丸・三の丸(三の曲輪)の名称は、時代/\で移ろい定めがない。
この古城地区とてもその取扱いは同様である。
細川時代、居住地の不足から府中の領域は白川の内側に限りなく広がりを見せた。
然しながら坪井川の水運を利用しての物流の拠点はやはり新町・古町を芯として動かなかった。
ただ、巨大な熊本城の完成とともに、古城は重要家臣の巨大な居宅団地と化す。


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■肥後山鹿湯町麴屋長四良「天保十四年二月・道中日記」

2022-02-17 06:36:36 | オークション

          a88 天保14年 道中記  肥後 山鹿湯町 日記 和本 古書 古文書
                                              詳細内容はここをクリックしてください。

              

 山鹿市に麴専門店の「木屋本店」という180年の歴史を持つというお店があるが、ご先祖様のものではなかろうか?
相当の頁数がとじ込まれた道中記、天保14年(1843)のものだから179年前のものである・・・
熊本由来のものだから熊本にとどまってほしいものだ。
何か高額になりそうな気配がある。このような品物は私も大変興味があるが、なにせ私は最近物入りでなかなか手が出そうにない。

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■祖父さんのスキーと私のスケート

2022-02-16 06:53:50 | 徒然

 オリンピックの競技の多彩さと、命を懸けたような恐ろしい競技に驚かされている。
滑降のスピードの凄まじさもスキーなど出来ない者としては理解しがたい。
若くして亡くなった父がどうであったかは知らないが、祖父は投網とかスキーをしたらしい。
投網には細川流というものがあるらしいが、これは肥後流投網を肥後人が関東で打つのが定着してそういう名がついたらしい。なかなか上手だったと聞く。
スキーはどうやら役務上の事だったようだ。護立候は赤倉にあった別荘に出かけられスキーを楽しまれた。
家扶を勤めていた祖父は御供をして出かけていたようだが、スキーも御供させられたのであろう。
これは上手であったかどうかは、大いに疑わしい。(と、思っている)
護立候は二本のスティックが未だ普及していない時代、一本のスティックで滑っておられたとか聞くから、大ベテランであったのだろう。
祖父は雪だるまになって、御供をしたのではないかと家族で話して笑ったことを思い出す。

 私はと言えば、スケート場の建設に携わったことがあって、なぜだかリンク工事の関係者からフィギアスケートの靴を頂戴した。
お披露目がある前に何度も滑らせてもらったが、結構滑れるようになった。
ところが、このスケート靴を盗まれてしまい、それでも貸靴で滑っていたがそれがいやで何となくやめてしまった。
高木美帆選手の活躍ぶり等を見ていると、若かりし頃のそんな思い出が頭をよぎってくる。

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■祖父さんのスキーと私のスケート

2022-02-16 06:53:50 | 徒然

 オリンピックの競技の多彩さと、命を懸けたような恐ろしい競技に驚かされている。
滑降のスピードの凄まじさもスキーなど出来ない者としては理解しがたい。
若くして亡くなった父がどうであったかは知らないが、祖父は投網とかスキーをしたらしい。
投網には細川流というものがあるらしいが、これは肥後流投網を肥後人が関東で打つのが定着してそういう名がついたらしい。なかなか上手だったと聞く。
スキーはどうやら役務上の事だったようだ。護立候は赤倉にあった別荘に出かけられスキーを楽しまれた。
家扶を勤めていた祖父は御供をして出かけていたようだが、スキーも御供させられたのであろう。
これは上手であったかどうかは、大いに疑わしい。(と、思っている)
護立候は二本のスティックが未だ普及していない時代、一本のスティックで滑っておられたとか聞くから、大ベテランであったのだろう。
祖父は雪だるまになって、御供をしたのではないかと家族で話して笑ったことを思い出す。

 私はと言えば、スケート場の建設に携わったことがあって、なぜだかリンク工事の関係者からフィギアスケートの靴を頂戴した。
お披露目がある前に何度も滑らせてもらったが、結構滑れるようになった。
ところが、このスケート靴を盗まれてしまい、それでも貸靴で滑っていたがそれがいやで何となくやめてしまった。
高木美穂選手の活躍ぶり等を見ていると、若かりし頃のそんな思い出が頭をよぎってくる。

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■熊本城築城を妄想する

2022-02-15 07:06:54 | 徒然

                         

  熊本城の百閒石垣が連なる二の丸と古京町のレベル差は、立田山断層崖によるものだと聞いたことがある。
つまり自然の地山を利用してあの百閒石垣が構築されたという理解をしていた。
色々調べている中でこの熊本城の地質図を見つけ出した。熊本大地震後に行われたボーリング調査を鹿児島大学がまとめたものである。国士舘大学の資料も大変面白い。
これによると随分広範な範囲で高さ10メートルにも及ぶ盛土がなされており、これは予想外で驚いてしまった。
これでは石垣が崩れるはずである。
下図C~C’’断面の中央部のフラットな部分が二の丸だと考えられるが、「ASO4」層の表面を削ってレベル化されているのがうかがえる。
 上図左端の複雑な地層の重なりは坪井川の堆積物だと記されているが、それと共に5mにも及ぶ版築が施され、大蛇行していた白川の川岸に当たっていた竹の丸や桜馬場あたりの埋め立て・地盤改良がおこなわれていたことを物語っている。
Bcと有るのが盛り土部分だが相当量の盛り土である。どこを切って運んだのだろうか。
熊本城は平面的には梯郭式、断面的には階郭式で築城されているが、これは一方若しくは二方が崖地などの自然地形であることによる。
熊本城は東の高石垣がそれにあたるが、私は高石垣にするために切土をしてその土を以て大量の盛土の確保をしたのではないかと考えている。
高石垣は「ASO4」層を地山にして築かれているのではないか。

棒庵坂がまさに掘り起こされた土や石の搬入路であったろう。
また大蛇行していた白川の流路を直進化するためにも、膨大な埋め立ての土を必要とした。
これらの土はまさしく茶臼山のあるレベルを真っ平にするために、計算つくされて縄張りが行われたのだろう。
たいした計算能力である。熊本城を取り巻く土地のレベルが、海抜12メートルほどで一律になっている。

こんな図面一枚が数時間は爺様の子守をしてくれる。熊本城築城風景を妄想している。

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■熊本史談会2月例会御案内

2022-02-14 08:01:09 | 熊本史談会
 

                    熊本史談会2月例会は、コロナに負けず開催します。

    再度のコロナの猛威に曝されます中、 また当たり前の日常が失われました。
例会の開催につきましては、個人の責任ある行動が強く求められることを自覚して活動を続けたいと思います。
さて2月例会におきましては、会員のある疑問から発した興味ある課題を取り上げてみました。
何気ない疑問を突き詰めていくことこそ、歴史の真実を学ぶ醍醐味だと考えています。
この時期、泡を飛ばして談論風発とは参りませんが、出席者全員で楽しみたいと思います。
あなたもご参加されてはいかがですか。お待ち申し上げます。
                               熊本史談会会長・毛利秀士                        

                     記 
        期日:令和4年2月19日(土) 10時~11時45分 (入場9時50分)
        場所:熊本市民会館 第6会議室

        演目: 熊本城歴史の中の三の丸の存在を考える。
                           「三の丸は有りやなしや」

        講師:熊本史談会会員・松本興二郎氏
               (講演後、時間内において質疑応答・意見交換を行います)

        一般参加自由:
                    参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
            資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
            尚、開会前に当会会合を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
            又、当日はコロナ対策の為マスク着用ならびにご記名をお願いいたします。

 

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■興秋の系類 鍋→伊千→吟とその周辺(5了)

2022-02-14 07:17:07 | 歴史

 南条元信(以心)の原因が良くわからない寛文九年(1669)の熊本城竹の丸の質屋(牢)入りは、彼がなくなる天和二年(1682)四月まで、13年にも及ぶ一生の務めとなった。
一方、鍋は元信の死去から7年後の元禄二年(1689)六月十三日に死去している。共にお墓は横手の禅定寺にある。

 又、養父元信と同時期に永蟄居の処分を受けた女婿・南条元知は隠居して道固と号し、元禄10年9月、藩主綱利から頭巾が贈られ28年にも及ぶ蟄居生活が終わった。
その間嫡子勝千代は延宝5年(1677)命により、外祖父・米田是長の養嗣子となった。没年から計算すると15歳くらいであったろう。元知・吟夫妻にとっては心休まる瞬間であったかもしれない。
そして吟は元知の蟄居生活の終わりを確認するかのように、元禄11年9月24日に死去し、父・是長の菩提寺熊本市坪井の見性寺に葬られた。そして元知の死をもって名門・南条家は絶家することになる。

 細川興秋の血は、女系(鍋→伊千→吟)をもって米田家に受け継がれた。つまりガラシャの血が受け継がれたことになる。
初代・米田是政室雲仙尼は明智光秀の姪だとされ、その父は真賀法印である。
明智家及び室・妻木家の菩提寺(坂本西教寺)の関係者だと思われるが、この坂本西教寺に米田家のお墓が存在する。
與七郎是季(興季・監物)、嫡男・是長、その弟・是正、是長の娘・吟(細川忠利末子・南條元知室)、長岡元知と吟の子で是長の継嗣となった是庸の五つの霊が祀られている。

 細川興秋が父・忠興から江戸證人として命を受けながら京都でその意に反し出奔した後、興秋の家老とも言われた長岡肥後とその父飯河豊前が誅伐され、これに抗議する如くして是季も細川家を出奔している。
長岡肥後の奥方は是季の末妹である。肥後と共に自刃した。
そして、この西教寺に是季は身をおいたといわれる。
そのとき興秋は幽齋の許に在ったのだろうか。又は叔父(かっての養父)の細川興元を頼ったのかもしれない。
興秋と是季は二人で逢ったり、連絡をしあったりもしていたであろう。大坂の陣では二人は共に大坂方について戦った。
細川家記は元和元年、興秋は父・忠興の命により東林院で自刃したとされる。
今般、高田重孝氏はその興秋が遁れて豊前に隠れ住んでいたことを明らかにされた。
ここにも米田是季の姿が見え隠れしている。明智氏の血が二人を強く結びつけていることが感じられる。

 今回、興秋の娘三代の女性の生きざまを取り上げたが、この事を強く感じさせられた。


 明智光秀姪
  雲仙尼 --------- 米田是季---------是長=======是庸

                   ‖       ↑                                                                
     +----細川興秋------       ‖-------- 吟   ↓                                   
   |         ‖-----+---伊千       ‖----是庸          
   |      南条元信   |        ‖
   |             +=======元知
         +----細川忠利 ----+---光尚 -------------- ↑-----綱利
                                   |          ↓    
            +---------------------元知

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