津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■保存資料の整理

2024-04-23 06:38:55 | ご挨拶

 20日の熊本史談会例会で2時間ほど講演を担当したが、82爺はすっかり疲れてしまった。
帰宅後午睡をし、昨日も椅子に座ったまま何度も昼寝をする始末である。講演は聞き手専門が気楽で良い。
今後は又、ブログ三昧で過ごそうと思うが、それとともに資料の整理をしようと思い立って動き始めた。
集めた先祖附などはA4の袋に入れて、段ボール(トマトジュース・桃ジュース缶の箱)に入れている。
まずはデスクの足元にある8個の段ボールの内4個を引っ張り出して中身を点検する。
袋の中身をすべて確認、捨てるもの一つもなし・・・ただリスト化出来たのみ。

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(1)1、秋山儀右衛門家・高本孝太郎家・藪九十郎家 先祖附(時習館関係)
    2、両角家先祖附・新田藩両角家系図・荒木太平家先祖附(御祖母様の実家=荒木山城系・白井家先祖附
    3、柏原新住家(4,500石)先祖附
    4、小林恒太郎家先祖附(田辺城籠城衆・神風連関係)
    5、小崎家先祖附
    6、余田家・横山家・吉住家・吉山家・吉弘家・横井家・吉冨家・芳澤家・吉見家・吉岡家 先祖附
    7、米村勝太郎家・吉海良作家 先祖附
    8、河方家(松下民部少輔)、山崎家(本因坊) 先祖附
    9、高見怘家・高見武之家 先祖附
  10、三井家 先祖附
  11、上林家 先祖附
  12、佐方信博氏著「つづら文から」コピー
  13、中瀬家(松下嘉兵衛)先祖附、中瀬家傳略
  14、財津源之進家・平川弥丈家 先祖附
  15、大塚源次家(5代・久成=大塚退野)先祖附、大塚家から拝領の「大塚家系図」
                大塚退野に関する論考「九州儒学思想の研究」抜粋二件

(2)茶道関係
    1、鷺絵源三郎久重覚書
    2、同上関係 茶道古典全集・第九巻「久重会記」(p1~491)
        「茶道四祖傳書」から「三齋公傳書」(p143~244)
    3、茶道「利休編」全集巻の九 (抜粋p198~299)    2、3については寺井正文氏より拝受
    4、不審菴「教授者講習会講座用教本
         5、三斎公御流茶道之傳
    6、その他肥後古流お稽古時の忘備録その他

(3)1、荒木村重関係 「荒木善右衛門」「細田七蔵」先祖附、ご子孫・荒木幹雄氏関係史料
    2、横山隆蔵家先祖附 1,056石
    3、高瀬藩、西氏・松村氏関係先祖調べの資料
    4、大竹甚平家先祖附(妙立寺に墓地)
    5、本庄源次家・国友儀兵衛家・同 半左衛門家・道家重三郎家・村井虎之允家(信長家臣・京都所司代村井長門守子孫)
    平山伊一郎家(木下内記子孫) 先祖附
    6、木下嘉納家・沼田小一郎家・沼田門太家・沢村衛士家 先祖附
    7、門池群蔵家・河喜多治部左衛門家・同 烈蔵家・同 和学家・岡松俊甫家・鬼塚源八家・山田熊太家・山田昭九郎家・
    山田傳次郎家・曽我庄三郎家・小畠富之助家 先祖附
    8、高田家先祖附、ご子孫から拝領の高田家先祖系譜 、宮川龍太家・寺内平格家・八木田小家 先祖附
    9、垂水家 先祖附及び系図 (熊本史談会・中村裕樹氏拝領)
  10、沼田門太
  11、伊津野氏関係 伊津野吉太夫家・伊津野十内家先祖附 及 別当上座町人伊津野家等  伊津野氏調査史料拝受
  12、坂崎家先祖附 ご子孫H様御所蔵の先祖附及び関係資料と読み下し文
(4)1、田添源次郎家史料 ご子孫O様所蔵の先祖附及び関係資料をご提供いただきました。
    2、久野次郎左衛門家先祖附 御所蔵の佐久間不干斎の久野氏宛書状をご提供いただきました。
    3、魚住家関係資料 黒田如水感状 系図その他 東京都在住のご子孫からご提供いただきました。
    4、緒方喜一郎家 山鹿在住のご子孫T様から系図その他のご提供をいただきました。
    5、松宮家先祖附 細川幽齋室沼田氏の姉聟松宮氏 御近所にご子孫がお居ででした。
    6、續小助家・谷助九郎家・長尾権五郎家・長束(田中)孫三郎家・津川(斯波)平左衛門家 先祖附
    7、尾藤閑吾家・平野嘉門家・平野甚九郎家・平野角蔵家・平井井平家・平野五郎家・廣瀬新家・平野八十郎家・東雲衛家・東英四郎家・
    平井勘右衛門家・平野九郎太郎家・平野庄左衛門家・平塚孫三郎家・平川貞四郎家・平川弥丈家・平井甚十郎家・久光善太家 先祖附
    8、藪田 道家・田中八兵衛家・天野善次家 先祖附
    9、庄林曽太郎家・白木弾次家・城市郎家・城安太家・白井一五家・白井善三家・白石傳太家・志賀太郎家・正垣九十郎家・庄野助市家
    白石忠家・下田才兵衛家・下田平蔵家・志賀助十郎家・重見治三郎家・篠原新吾家・嶋田平三家・清水九郎家・下津縫殿家・白木五三家・
    嶋田九郎次家・生源寺市家・樹下一平家・下村作衛家・嶋田徳三郎家・庄村省三家・白杦少一家・首藤十次郎家・志水凍家・同 新九郎家・
    志水小一太家・同 小八郎家(松井家家臣) 先祖附

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■細川幽齋の誕生日

2024-04-22 07:34:50 | ご挨拶

 今日は藤孝公の誕生日であるが、細川家の記録では永源師檀紀年録ではそれを天文四年とするが、家記は天文三年としている。
細川護貞さまの御著においては天文三年とされている。このような錯誤が細川家資料で見受けられる。
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永源師檀紀年録・巻之四
〇天文三年九月大樹義晴公ハ三好カ逆乱ヲ避テ営ヲ北白川ニ移ス、屋形供奉ス、大樹或ル時三淵宗薫大和入道殿ヲ召ス、時ニ
 大樹ノ側ニ妾侍坐ス、此ノ妾ハ船橋大納言清原宣賢真人法名環翠軒宗尤ノナリ、大樹其ノ妾ヲ指シテ入道殿ニ謂テ曰ク、     ➝智慶院

 此女我カ胤ヲ妊メリ、誕生シテ若男ナラハ鞠テ汝カ継嗣トセヨ、入道殿敬テ諾ス、是ヲ以テ入道殿ハ京ニ留ル。
同四乙未年四月廿二日巳下刻三淵大和入道殿ノ養子誕生ス、然モ男ナル故へ約ニ応ス、万吉殿ト小字ス。

細川家記
天文三年甲午四月廿二日三淵晴員別墅ニテ生ル 将軍義晴妊身ノ側室ヲ晴員ニ賜ウ、男子ヲ生ム、晴員之ヲ育テ以テニ子トナス  三淵萬吉ト称ス
   同八年已亥六月元常将軍義晴ノ命ニ依リ養子トナス 同十五年丙午十二月将軍 義藤、ノチ義輝ト改ム  諱字ヲ賜リ細川與一郎藤孝ト称ス

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■川上の桃源郷

2024-04-22 06:53:20 | 俳句

            けいしょうざん
 夏目漱石に「行く春や 瓊觴山を流れ出る」という句がある。
漱石俳句集には「けいしょうざん」としているが、浅学菲才の身には「瓊觴山を流れ出る」の意を解し得ない。
ところが、半藤一利先生は「けいしょう、やまを」と読むべきだとされる。「瓊=玉」であり「觴=酒杯」だから、「瓊觴=玉杯」だとされる。
そして、これは漱石先生お好みの「蒙求」の「劉阮天台」の話しからこの句をものにしたのだろうと推理される。
ある人が山中に迷い込み、桃の実を食べていたら川に玉杯浮かんで流れてくるのを見て、上流に人が住んでいると思った。
仙女と出会い歓楽を共にして半年後に帰宅してみると、知る人は居らず七代後の子孫にであったという話である。

別の一句にはやはり「蒙求」の「武陵桃源」から「桃の花民天子の姓を知らず」という句があるが、桃源の別天地を詠んでいるのだという。
難しい話はよくわからん~~~。

 球磨川のことを「木綿葉川」といった。「ゆうば川」と読むが、綿の葉かと思わせるが「麻の葉」だとされる。
往古、下流の八代の人たちは木綿葉川に上流から「麻の葉」が流れてくるのをみて、その上流部に人が住んでいることを確認したという話がある。
桃源郷ならずとも、その「麻の葉」の流されたところをたどると、まさに平家の落ち武者の隠里があった。
扨そんな風景を句にしようとなると‥‥難題過ぎて遁走しなければならない。

 

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■生田又助覺書・番外編 板倉氏

2024-04-21 07:30:13 | 史料

               家紋
 細川宗孝を殿中で襲い死に至らしめた旗本6,000石・板倉修理(勝該)、その原因は乱心だとされるが一方では家紋がよく似ているが故に、
同族の佐渡守勝清(当時・若年寄)と間違えて切り付けたという話がある。

修理の病気(狂癇の質)などを理由隠居させ、勝清の庶子を跡継ぎに入れよういう話があったらしい。
一方氏家幹人氏著「旗本御家人・驚きの幕臣社会の真実」には、修理の屋敷が白金台の細川家下屋敷の隣のがけ下に位置し、大雨の時に汚水
が流れ込み浸水することがあり、これを恨みに思ったという確信犯的な理由を挙げている。

同書には写真が添えられているが3~4mの高低差が伺える。
氏家氏は人違い説より「恨み」説が真実に近いとされるが真実は闇の中である。
たしかに「分間江戸大絵図」を見ると細川家下屋敷の北側に「板クラ下ツケ」の書き込みがある。

 処でこの板倉氏、一族四家が大名として明治を迎えている名家である。
板倉修理(勝該)の系を遡ると三河深溝藩主・重昌に行きつくが、この人が天草島原の乱で討死したその人である。

          下総関宿      伊勢亀山    
   勝重――+――重宗――+――重郷――重常
       |      |  上野安中  陸奥泉     
       |      +――重形――重同――勝清
       |  三河深溝     下野烏山       
       +――重昌――+――重矩――+――重良
              |      | 武蔵岩槻 陸奥福島
              |      +――重種                                         
              | (旗本)
              +――重浮――勝丘――勝該(断絶)

 

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■本妙寺参道下のトンネル道開通

2024-04-20 15:11:52 | 熊本

 昨日のTV報道を見ていたら、本妙寺参道下にトンネルができ、井芹地区から牧崎地区に抜ける道路工事が完成して開通式があっ
たことを報じていた。

私は5丁目に住んでいたのだが、映像だけではどこを通ったのかが理解できないでいた。
まだヤフーその他の地図などを見ても反映されていない。(当然だろう)
グーグルアースを見てみるとさすがなことに完成はしていないものの大方の形が見えていて納得できた。
中央上部に湾曲して見える黄色がかった道路が花園小学校の方へ走るメイン道路、参道から枝分かれするようになっているのだが、
仁王門の階段下に向かって切通しとなって三本の橋が架かっているようだ。

是は一度訪ねてみなければならぬと思っている。写真真ん中に牧崎神社が台地から切り離されて寂しそうである。
各社の地図やグーグルアースにいつ反映されるのか興味深い。

   

 

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■生田又助覺書(7)

2024-04-20 06:31:59 | 史料

一、上野御預り之処御逝去ニ付松平太膳太夫様江被仰付候由十六日夜御沙汰有之候得へは御沙汰無之太膳太夫様之方御手疵迄ハ主馬様
  (重賢)ゟ御人数被差出候様ニとの御事ニ而翌十七日彼方様ゟ御引渡相濟候事    判読不明
一、御大変之御使者御国許江御使番瀬戸角右衛門十五日暮候而被差立候 御逝去之御使は村井■兵衛十七日暁被差立候事
一、御家中之面々月額之儀剃申間敷候 御家人は十五日は御出棺迄ニ御觸有之候事
一、十八日御棺被成候 妙解院に参候事
    但御法號今日大川座元被差上候事
  隆徳院殿廓殃一義周大居士
一、廿日為 上使重森兵部少輔様御出御香奠銀五十枚御拝領被成候事
一、主馬様(重賢)御儀御定式之御服忌被成御請候様ニと被仰出候 依之ゟ 殿様と奉唱候様ニと廿日監物殿ゟ御沙汰候事
一、御用番御老中本多伯耆守様ゟ御留守居呼ニ参候 都甲太兵衛参候処御一類様之御内御出被成候様ニと之御事ニ付山城守(織田信舊)
  様御出被成候處御書付ニ而仰渡候 左之通
    板倉修理儀切腹被 仰付候段細川主馬江可被相達候
  右之通之御書付山城守様御持参御出被 仰出候ニ付御家中之面々御中小姓以上大書院ニ而監物様被仰渡候 其已下江は織衛殿被申渡
  候事
    但武田叔安老ゟ以去ル廿日御老中様ゟ御内々候而被仰聞候は修理儀切腹此間ニも被仰付趣之処此節傳奏之公家衆御留之御内故
    被押■延引候 右之段極御内々ニ而御申達候様ニと堀田相模守様被仰聞候由相模守様は去る十五日之御用御聞懸ニ付右之通之由
一、板倉修理切腹之儀被 仰渡候由之書付御留守居中ゟ見せ被申候間写置候左之通
                     板倉修理
      去ル十五日於殿中細川越中守江手疵為負候 乱心とはいへとも越中守依之相果切腹被仰付者也
    右之趣可申渡旨本多伯耆守殿・水野壱岐守殿・水野對馬守・橋本阿波守・八木十三郎ニ被仰渡水野監物宅におゐて切腹之儀右両
    人立合右之書付對馬守申渡之
      但右両人と有之候ハ阿波守殿・十三郎殿御両人之御事ニ而監物様御宅江は御三人御出之由
一、廿七日朝五ッ時(7時)御出棺ニ而妙解院江御草々有之候 九ッ半(12時)時分彼方江御着棺暮前ニ万事相濟申候 右之御供相勤候事
    落髪之面々
   竹原清太夫  松野■五郎  伊藤忠右衛門
   杦村角太夫  佐田右兵衛  元田万平
  御葬送前日病死
   鎌田早之允  右田牛之助  小林半右衛門
  右九人願御免之内早之允病死残八人致落髪候事
一、姫様御儀
  静證允様と御法号妙解院大川座元被差上候由 監物殿ゟ御沙汰廿四日有之候事
      
  

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■生田又助覺書(6)

2024-04-19 10:30:36 | 史料

一、八月十五日御退出龍之口屋敷江被為入候而無程織田山城守様御出被成候 表御玄関ゟ御通利被成候 左候而長岡監物殿・郡織衛方
  江被仰聞候は今日於殿中御不慮之儀御老中様方為仰御下城被成前々御出被成候御老中様被仰は御不慮之御儀扨々御笑止ニ思召候
  御相手も有之早速被仰置候間御家中之面々騒不申様ニ相心得可申候 御相手之儀は上ゟ御仕置可被仰付候 此段御家中も承申候而
  安堵可仕候と委細被仰聞候様ニとの御事ニ候段委細申上候様ニと両人江被仰聞候事 御相手之名も不被仰聞候事
    但山城守様ゟは十五日夜半迄被成御座翌日も未明ゟ日々被成御出板倉修理切腹被仰付候日迄毎日/\夜ニ入候迄被成御座候
    廿四日迄御詰其後は折々御出被成候 尤御家来之内片岡助左衛門・山本八右衛門両人ニ而一人完三四日御様子承り候と被仰
    付候由 隆徳院様御葬日迄相詰候事
一、十五日九ッ(11時)時分御様躰 御尋為 御上使御奏者御番永井伊賀守様御出被成此節為御名代織田山城守様御出逢被成諸事相
    済申候
一、同日八ッ(13時)過又々為 御上使御老中様之内堀田相模守様御出被成此節も前々通山城守様御取斗被成相模守様上意之趣御書
  付ニ而御持参被成候左之通
      上意              細川越中守
    手疵弥療治相届快方にも候哉無 御心元被思召候様子■而承り候様ニとの御事ニ候 万一及御大切候共跡式之儀は去年仮養子
    ニ被願候弟(主馬=重賢)有之儀ニ候間此度願ニ不及候条致安堵養生いたし候様ニと被 仰出之
  右之通御口上ニも被仰聞御書付御渡被成候 尤御醫師武田叔安老江も御呼出御様躰委曲御聞被成候事
    但右之趣晩ニ原々と同役中江は監物殿被申聞候事
  右之通ニ而弥御願ニ不及事ニ而御老中本多伯耆守様江御聞合候処弥御願ニ不被為由ニ付其旨候事
一、十六日昼八ッ時(13時)前ゟ被及御大切旨ご一家様方其外御心安き御方御知せ有之候 尤御用番本多伯耆守様江も御達有之候事
一、十六日七ッ時(15時)過ニ被成 御逝去候ニ付御用番本多伯耆守様江細川采女正様を以御達被成候事
                                        か・蜂須賀氏
    但為御見舞小笠原右近将監様江は十五日御父子様共ニ御出十五日も朝飯後御出松阿波守様も御出後二被成御座八時前時前御
    帰被成候 以後被為及御大切候御知せ付又々阿波守右近将監様御出十五日は両度御出被成候事

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■Before & after

2024-04-19 06:29:27 | 古写真

               

 この古写真がオークションに出品されていた。
京町台地に熊本地方裁判所が初めて建てられたのは明治11年だそうだが、ちょうどこのあたりは細川家の祈祷寺である仙勝院が中央に

あり武家屋敷がこれを取り囲んで一画をなしていた場所である。
そしてこのレンガ造の庁舎に建て替えられたのは明治42年の1月である。
この旧庁舎のレンガ造の建物の一部を残して、現在の新庁舎が建てられたのは昭和50年のことだが、このような手法で古い建物が残さ
れたのは画期的なことであった。
その後同様の手法で全国各地で、記念碑的に古い建物が近代的な建物と違和感なく都市の景観となっている。
熊本の場合は、地元の方々などの要望がこのような成果につながったとされるから、画期的なことである。
京町本通りから一つ中に入ったところにあるから、通常あまり見かけないのは残念ではあり、又裁判所にはお世話になることもないから、
この建物もご存じない方も多いことだろう。

                                        
      

               サイト「熊本の文化財めぐりー旧熊本地方裁判所本館」から引用させていただきました。
       

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■知っててよかった・・

2024-04-18 13:13:43 | 徒然

 今年の大河ドラマは登場人物の入れ替わりが激しく、又いろんな俳優が入れ代わり立ち代わりで、若い人たちも興味がわくのではないだろうか。
こちらはと言えば「源氏物語」と共に「枕草子」も読まずばなるまいと思って、本棚を探すが見つからない。
いよいよ見つからなければ古本でも購入せねばならない。
また「御堂関白記」もちょっと読んでみようかと思うし「東鑑」も読まねばと考えたりもしている。

 処で前回は藤原定子と清少納言の初まみえのシーンで、あの有名な白楽天の「香炉峰の雪」の話が出てきて、驚かされるとともに、大石静氏の脚本家としての力量を感じさせられた。
若い方々で知らない人は何の事と思われたろうが、私は「知っててよかった」とつくづく思ったことである。
下は清少納言の「枕草子」280段の文章である。この文章どおりのシーンがTVに再現された。

雪のいと高う降りたるを、例ならずこうまゐりて、びつに火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」とおおせらるれば、御格子上げさせて、を高く上げたれば、笑うはせたまふ。貴

 時の貴族の女性たちの教育の高さを思い知らされる逸話だが、つまるところ「白楽天」の歌も承知ということである。
この後の定子の運命は、寂しいものとなるが清少納言が御側に侍っていたことは慰めであったことであろう。
今年のドラマは、目が離せないでいる。

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■南海の眠りさますか豊後灘・・・

2024-04-18 08:34:53 | 徒然

 昨晩の地震はベッドに入ってしばらくした時、携帯のアラームと、たまたま持ち込んでいたポータブルTVのアラームがけたたましくなり出して飛び起きた。
5階のフロアで震度3程の地震を初体験したが、震源が豊後水道と聞いて二度目がくると危ないぞと少々構えてしまった。
熊本人は二度の強烈な地震を体験しているから、時折震度3位の地震の報道がなされているのを見ると、大げさなと思ってしまうが、改めなければ成らない。
しばらくして、ベッドにもぐりこんだが目がさえて眠れない。
色々考えていたら「太平の眠りをさます蒸気船・・」の歌が突然浮かんできた。
あれこれ考えてこんな歌になった。

      南海の眠りをさますか豊後灘
          耐えてくれよと夜も寝られず

相変わらずのくだらぬ作だが、こんなことを考えていたら眠りに落ちた。
被害のすくなからんことを願いつつ・・

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■元和六年四月十八日の忠興文書から

2024-04-18 07:32:34 | 歴史

    忠興文書の元和六年(1620)四月十八日項がなかなか多彩で面白いのでご紹介しよう。

 210、四月十八日書状
 ・和子入内ニ付上洛或ハ使者差遣無用トノ觸状アリ
     京都市上京区のサイトに「徳川和子の入内」があり有難い。これによると江戸を立つたのは5月8日であり、20日を費やして
     上洛二条城に入った。6月18日無事に入内している。14歳という若さであったが帝の御母・中和門院が優しく接せられた。
     元和九年(1623)には女一宮・興子(おきこ)内親王が誕生した。
     後に後水尾天皇が二条城に行幸、中宮和子が父である大御所秀忠、将軍家光に接するのは、寛永三年(1626)のことである。
 ・伊丹康勝ノ肝煎ニテ進物ヲ献上ス
     これは明らかに入内する徳川和子に対しての献上物であろう。
 ・松井興長母・自得院、江戸ニ著ス、松井政之ヤガテ帰国セン
     江戸證人として江戸へ赴く自得院は病となり、しばらく京で静養している。入れ替わりに證人として江戸に在していた甥の松
     井政之(実は沼田与次郎)が帰国することになる。
 ・和子上洛ニ付土井利勝ノ通達
     内容不詳
 ・五百坪ノ栗石
     下記、江戸城普請のための準備か?
 ・来年江戸城普請ニ付秀忠駿府滞在ノコトは不定ナラズ
 ・妻木之徳女房衆親類ノ者召抱
     之徳とは貞徳二男・旗本1,000石その奥方の召抱えのことだが、妻木勘兵衛だと思われる。
 ・木下延俊女ノ縁談
     こちらは忠興の外孫(女・加賀女)だが、長女(桜井松平忠重正室)、次女(北野松梅院某室)、三女(木下利当正室)と有
     るが、人物の特定ができていない。
 ・大阪城普請ニツキ大坂普請奉行細川家ノ為大ニ斡旋ス
     奉行の名は「渡邊勝」、慶長10年以降に、千姫附属となった人物であろうか。母親は二位局と称し、秀吉や淀殿の申次を務めて
     家康の覚えめでたき人である。大阪城落城に際しては脱出している。
     細川家との友好的な関係がどうしたものかは不明である。

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■かっての世(代)継橋周辺

2024-04-17 08:55:12 | 古写真

 新代継橋が架橋されたのは明治34年(1901)年のことで、県立病院が白川左岸に新築移転 したため、その連絡路として新代継橋が
架けられて、通称病院橋と呼ばれていた。
かって■代継神社と新代継橋を書いた折ご紹介したのが下の写真で、白川の右岸やや下流側の西岸寺の南東の角あたりからさつえいし
たものか、橋の真向こうに病院が見えている。
この位置は、花畑邸の池に水を引くために「筧」がかけられていた場所だと伝えられる。

       

 ヤフーオークションを眺めていたら、「新世継橋からの遠望」というこの写真が出品されていた。
病院橋と、行きかう人々の姿が見えるが、遠くに立田山のなだらかな姿が見え、右手の大木の下に見える一角には柴垣と思しき垣が見
えているが、ここがかっての「世継神社」である。
残念ながら都市計画者たちは、この道路を拡幅することをしなかった。
今でも当時と変わらない道路幅と思われるこの道は、メイン道路とはなりえていない。
県立病院は熊大医学部付属病院となり、正面玄関は真反対にむけられた。平成元年、白川の改修工事に際し代継神社も立田山の東峰山
上に移転している。大きく様変わりした懐かしい風景と言える。

   

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■生田又助覺書(5)

2024-04-17 07:21:28 | 史料

一、五時(7時)ニ御登城四ッ半(10時)比御帰被成候 右五ッ半前より務候處隙取申候擬は御相手板倉修理脇差ハ御縁ノ下迄両度御
  吟
味有之候得共不相知候ニ付灯燈ニ而床之下之隅迄御吟味之所ニ小用所之奥雪隠之内ゟ懸■を掛入居申候由 右之所は 隆徳院様
  被来
御座盈縁之下ゟハ折曲り十五間程有之奥ハ暗ク有之吟味ニ隙取候由 小用所迄ハ四五間有之吉三度目ニ尋出ス
一、板倉修理被召捕り御吟味所ニ口書左之通ニ付口書ニ成候由御城坊主持参御留守居中江見せ候由
       口書           板倉修理
  私小用所江参居候處何者候哉切付候ニ付持合申候人ニ手疵を付候而は不通擬と懐中ゟ鋏を出本取を切小用所之奥迄隠居申候 尤脇
  差を持居候事も如何ニ存其所ニ捨置候 其後之儀は覚不申候 已上
       八月十五日
  右之通之由懐中ニ六寸程之鏡も有之候由右之通故即時ニ乱心ニ相極り候由 但袖ニ大栗石壱有之候由
一、隆徳院様江御目附衆参り被見候へとも御惣身血ニ御染り被成誰共分り不申候 殿方ニ而御座候哉と御尋候得は細川越中守と被仰候
  いか様之儀ニ而ヶ様ニ御手疵被負候哉と御尋被成候得共小用所之後ゟ切付申候 見知不申候男上下着居申候由被仰候 意趣之御覚は
  無御座候哉と尋申上候へとも少も意趣有方御覚無御座何卒組留メ可申存候内深手ニ而心外之儀ニ付各方江も不慮之御難題ニ相成申
  候由善兵衛参り御留守居中江咄申候事
    但殿中ニ而始終之被成方少も御臆シ不被成御落着と成候御事御すが御代ニ御武功之御家故と存感候由町方迄も唱候由之事
一、御城坊主宇田川玄覚御留守居中江時分之覚書持参左之通
       御内々申上候覚
  去月十五日
  太守様御事大廣間於小用所数ヶ所御手疵被為受候処乱心と御見受被遊御家を御大切二思召御相手江薄手二而も御付不被遊其上御相
  手之脇差を御打落候 夫ゟ御相手ハ無腰ニ而小用所之奥江被退 太守様江は大廣間盈縁之上迄御出御脇差を被為持御座着被成候 右
  之御様子御目附衆馳付御見受候 勿論何も御覚も無之由委御返答被遊候 右之趣彼是無残所被遊方とて松平兵部太輔様殊之外御肝心
  被遊候 此段御同席様方江御吹聴有之候由殿中守之御沙汰ニ候
    兵部太輔様御肝心被遊候儀は此紙面斗之儀ニ而は無之此外ニ御大切之儀有之其趣ハ書面ニは難申上候 右之趣は私不罷出以前之
    儀故承及擬ニ而御見上ヶ不申候付不申上候 乍然此段各様未御聞及も無之哉と存猶又助様迄申上候
                                 已上
      夘九月           玄覚
         太兵衛様
         傳左衛門様
         郡兵衛様
  右之覚書之内兵部太輔様御肝心之儀口達ニ申候と兼而兵部太輔様江は 隆徳院様別而御心安御座候処平日 公儀を御大切ニ思召候
  儀不浅事ニより此節之御落付被成候御被成方国家を御大切ニ思召候筋御平生之御様子相揃細川家代々武功之御家柄故と一入被感入
  候由御同席様方へ呉々御噂御吹挙被成候由玄覚申候事 

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■生田又助覺書(4)

2024-04-16 11:52:13 | 史料

一、御駕参り候ニ付両人ニ而奉抱候而御駕ニ召せ奉り候 又助此手御顔ニ付候血を御単物之御袖ニてぬくい申候事 御脇差御柄鞘共ニ
  血のりニ染居申候間古拵之様ニ相見候間分り兼漸ク見分ヶ申御鞘ニも返り角下ニ打はつし疵一ヶ所有之御拪糸も刃之方目貫之邊
  筋糸切有之候 御相手之脇差を御柄ニ而御請被成候やと存申候事 左候而猖参湯を差上候得共一向御通り不被成候 其上ニ而御脇差
  之儀相尋候得は御預置候由ニ而拭板之縁側ゟ刀箱を御役人持参仕候 忠右衛門・又助御脇差御出シ是ニテ候哉と御渡候ニ付忠右
  衛門得江も得見せ候而請取申候而御駕ニ入申候 左候而引取申度由を御目附様江相達勝手次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間
  内ハ陸尺外ハ黒鍬大勢ニ而舁中ノ口ゟ平川御門江御出被成彼方橋際より御手人ニ請取舁せ申候 山田嘉右衛門ハ御刀を持村山傳
  左衛門一所中ノ口蘇鉄ノ間江罷在其前より御供仕候様■御側之儀は忠左衛門・又助両人ニ而仕上候  御途中は叔安老・玄哲老外
  二御番醫四人御付添御徒目附三人御小人目附弐人外ニ御薬■共ニ途中御役人持参仕候 忠左衛門・又助御側ニ不参以前御湯漬少シ
  被召上候由叔安老被仰聞候 右之茶碗焼き塩等傍江有之候事

一、御駕は両人御呼被成候跡ニ而御徒目附衆此方様之御城使を召連下乗橋ゟ表御門通り中之口江通候由之事
一、御脇差入居申候箱之内ニ壱尺六七寸程之脇差入居申候 御相手之脇差ニ而可有之を出せ付候処■樋有り反り高キ脇差ニ而身ハ不残
  血のり付候而鞘ハ相見へ不申抜身ニ而有之候
一、両人脇差ハ銘々名札ニいたし中之口江御役人持参候事 但刀も御城使持参居候事
一、御途中御付添被成候御醫師衆左之通
      御奥本道           武田叔安老
      同外科            西 玄哲老
      表御醫師本道         田代宗仙老
      外科             古田休甫老
      同              菅谷伯安老
      同              増山養甫老
  右之通六人御付添被成候事
一、村山傳左衛門は為御注進 刑部卿様御門前ゟ御先江参候事
一、惣御供ハ西ノ御丸下馬江廻り居候ニ付平川江廻り候事難成漸刑部卿さま御屋敷前二而馳付候事
      御迎ニ罷出候面々       松野亀右衛門
      酒井左衛門様御屋敷      中川郡兵衛
      松平兵部大輔様との御境迄   堀 平左衛門
      松平兵部大輔様        佐野左太夫
      御屋敷辻番之邊迄       郡 織衛
      公儀御作事所之邊迄      竹原清太夫
                     小林半右衛門
  右之面々御屋敷外ニ罷出候と覚申候 其外は御屋敷内追々罷出候事
一、川岸御門ゟ御入裏御玄関ゟ御居間迄御駕ニ而被為入候 御駕ハ歩御使番歩御小姓等舁候而御■ハ参候事
      以上

                  (つづく)

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■熊本地震から8年

2024-04-16 06:06:27 | 熊本地震

 8年前の今日の未明、2時34分熊本地震の本震が起きた。前震とされる14日から2日目というが、14日の21時過ぎからす
ると約28時間ほどしか経っていない。

前震が強かったから、余震はあっても次に地震が来てもそう大きなものは来るまいという油断があった。
猛烈な揺れは住んでいたマンションの壁構造の厚い壁を外が見えるように引き割り大きな亀裂が走った。
数日間夜は車の中で過ごしたが、早々に帰宅して、水が出ないガスが使えない部屋で約一月を過ごした。
暫くすると緊急的な配管で、1階入口に水が出るようになり、毎日バスタブ一杯になるほどを、階段をつかって2階に汲み
上げ
るのが私の仕事となった。76歳ながらまだ元気だったが、おかげで5~6㌔やせた。
トイレと洗濯機をまかなったが、食事はガスが使えないから配給のもので一月をくらした。
奥方は毎日とはいかないが、お風呂に入りたいとあちこち駆け回っていたが、私は行水で過ごした。
大規模半壊の指定を受けたため、退居の要請が出た。
5月に入り奥方が走り回り、3LDKの部屋を見つけて引っ越したのが前の住まいでここに7年過ごした。
ここを終の棲家でも良いと思っていたが、昨年1部屋多い今のマンションへと引っ越した。

地震の際ののマンションは解体されて更地になっているが、まだそのままのように聞く。

 能登における大地震や、台湾の地震などを見るにつけ、同じ苦しみの中にあって再興へむけて頑張っておられる皆さまに、
最大なる敬意をこめてエールを送りたい。

地球のプレートが元気に動き回っている。地球の営みにはあがらうことはできない。
私が生きているうちにはまた経験することはないとは思うが、地球のちょっとした遊び心はいつ起こるかわからない。
油断大敵、準備におさおさ怠りなきように、肝に銘ずべし。

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