Sightsong

自縄自縛日記

スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』

2016-09-02 22:49:41 | 北米

テヘランに居る間に、スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』(白水社、原著2007年)を読了。(何しろtwitterもfacebookもブログにも遮断されていてつながらず、酒も飲めないので、夜は本を読むくらいしかすることがないのだ)

ヴィカーの剃った頭には、片方がエリザベス・テイラー、もう片方がモンゴメリー・クリフトで占められた脳が刺青されている。『陽のあたる場所』である。かれは映画狂であり、ともかくもハリウッドに出てきた(物理的に)。ヴィカーは社会から排除されつつも、映画業界で蠢く者たちに受け容れられていく。

映画に憑依された者たちは、映画という生命体へのフェティシズムで成り立っている。そのために映画とは時系列で制作されるものではなく、時間も空間も超越して、この世界とは並行して存在している。まさに魔界であり、エリクソンは数多くの映画に粘着し、そこに巻き込まれてゆく様を見事に描いている。

これまで映画という魔界を現出させた小説といえば、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』があった。本作はそれに負けない面白さを備えている。同時に、『フリッカー・・・』にはない底無しの闇をこれでもかと提示してくれるのはエリクソンならではだ。

しかしその一方で、あまりにも現出される魔が俗に過ぎるものであって、もう少し小説家の中で成熟してもらえなかったのかという不満もある。禿頭の刺青は、チャールズ・ロートン『狩人の夜』において両手の指に「LOVE」「HATE」と彫ったロバート・ミッチャムとさして離れてはいないし、ヴィカーが繰り返し視る夢のモチーフは、スティーヴン・スピルバーグ『未知との遭遇』プラス、ケネス・アンガーだとしても馬鹿にしたことにはならないだろう。

エリクソンを模倣するエリクソンには不満である。

●参照
スティーヴ・エリクソン 音楽と文学を語る @スイッチ・パブリッシング(2016年)
スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』(2012年)


「JazzTokyo」のNY特集(2016/9/1)

2016-09-02 21:54:08 | アヴァンギャルド・ジャズ

「JazzTokyo」のNY特集(2016/9/1)。

■ ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報(連載第16回)

翻訳・寄稿させていただきました。

シスコ・ブラッドリー氏は、フェイ・ヴィクターのThe 55 Barでのライヴパフォーマンスについてレビュー。

そしてクリフォード・アレン氏は、ピーター・キューンがNYシーンに登場し、去り、また復活してきたことをじっくりと書いている(原稿をもらうまで、ロルフ・キューンと混同していた・・・)。このアレン氏とは、NYのThe Cornelia Street Cafeでイングリッド・ラブロックを観たときに偶然隣り合ってジャズ話に花を咲かせた奇縁。

■ 蓮見令麻さんのコラム「ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま」

第7回 フリン・ヴァン・へメン~音楽らしい音楽、のすべて~

存在をはじめて知ったドラマー。ぜひ聴いてみたい。

●参照
「JazzTokyo」のNY特集(2016/8/1)
「JazzTokyo」のNY特集(2016/7/1)
「JazzTokyo」のNY特集(2016/6/1)
「JazzTokyo」のNY特集(2016/5/1)
「JazzTokyo」のNY特集(2016/4/1)
「JazzTokyo」のNY特集(2016/1/31)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/12/27)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/11/21)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/10/12)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/8/30)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/7/26)


是枝裕和『海街diary』

2016-09-02 21:37:17 | 関東

ドバイからの帰国便で、遅ればせながら、是枝裕和『海街diary』(2015年)を観る。

鎌倉の旧い一軒家で暮らす三姉妹。離婚して去って長い父親が死んだ。母親も自分たちの許を去り北海道で暮らす。父は再婚時に娘をつくり、子連れでさらに再婚していた。三姉妹は、その腹違いの妹を引き取り、一緒に暮らす。

是枝監督はことさらにそれをドラマチックに描いたりはしない。あまり無いような劇的な出来事だが、程度の差こそあれ、怨と愛と別れは誰にでもついてまわる。姉妹も母も、コミュニケーションの不毛を呑みこみながら、それでも適当に割り切ることなくコミュニケーションにトライし続ける。そして、われわれは、父の死というものが、別の者の生として生まれ変わるのを目にすることになる。

いい映画である。不覚にも泣いてしまった。ああ恥ずかしい。

●参照
是枝裕和『幻の光』(1995年)