テヘランに居る間に、スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』(白水社、原著2007年)を読了。(何しろtwitterもfacebookもブログにも遮断されていてつながらず、酒も飲めないので、夜は本を読むくらいしかすることがないのだ)
ヴィカーの剃った頭には、片方がエリザベス・テイラー、もう片方がモンゴメリー・クリフトで占められた脳が刺青されている。『陽のあたる場所』である。かれは映画狂であり、ともかくもハリウッドに出てきた(物理的に)。ヴィカーは社会から排除されつつも、映画業界で蠢く者たちに受け容れられていく。
映画に憑依された者たちは、映画という生命体へのフェティシズムで成り立っている。そのために映画とは時系列で制作されるものではなく、時間も空間も超越して、この世界とは並行して存在している。まさに魔界であり、エリクソンは数多くの映画に粘着し、そこに巻き込まれてゆく様を見事に描いている。
これまで映画という魔界を現出させた小説といえば、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』があった。本作はそれに負けない面白さを備えている。同時に、『フリッカー・・・』にはない底無しの闇をこれでもかと提示してくれるのはエリクソンならではだ。
しかしその一方で、あまりにも現出される魔が俗に過ぎるものであって、もう少し小説家の中で成熟してもらえなかったのかという不満もある。禿頭の刺青は、チャールズ・ロートン『狩人の夜』において両手の指に「LOVE」「HATE」と彫ったロバート・ミッチャムとさして離れてはいないし、ヴィカーが繰り返し視る夢のモチーフは、スティーヴン・スピルバーグ『未知との遭遇』プラス、ケネス・アンガーだとしても馬鹿にしたことにはならないだろう。
エリクソンを模倣するエリクソンには不満である。
●参照
スティーヴ・エリクソン 音楽と文学を語る @スイッチ・パブリッシング(2016年)
スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』(2012年)