宇沢弘文『「成田」とは何か―戦後日本の悲劇―』(岩波新書、1992年)を読む。
1991年4月、政府は成田空港問題に関する公開シンポジウムの開催を決定した。その翌月には、村岡運輸大臣が、「いかなる状況においても強制的手段を用いない」という声明を出した。このときに、著者(故人)は、有識者として参加を請われている。
しかし、ここにはさまざまな問題があった。反対同盟のうち参加するのは熱田派だけだった(80年代に反対同盟は既に熱田派、北原派、小川派に分裂していた)。また、さらなる開発を前提としてシンポジウムが開かれるような報道がなされた。著者はこれを、開発をストップしたくない運輸省(当時)の意図的なリークであったと示唆している。そして村岡大臣に引き続き運輸大臣に就任した奥田大臣が、強制収用の可能性を否定しなかった。
ここに成田問題の本質が露呈した。著者はこのように書いている。「これは、統治機構としての国家が、一般大衆よりすぐれた知識と大局的観点をもって、一般大衆にとって望ましい政策を選択して、実行に移してゆくという考え方」だが、それは「日本の政治権力の腐敗」であり、「国家権力は本来ならば、国民の一人一人が、市民の基本的権利を享受し、人間的尊厳を保つことができるような条件をつくり、それを維持することが、その機能であるはずである」と。
現在の沖縄についての批判とまったく異ならないことは、いまや驚くべきことでも何でもない。成田問題に当初中途半端に介入してしまったという自己反省を踏まえて問題を歴史的経緯から確実に認識したからこそ、宇沢氏は、日本の全土から米軍基地はすべて撤退すべきだと明言していたのだろう(シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)、2010年)。
故・宇沢弘文氏(2010年、法政大学にて)
●参照
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線・三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)