Sightsong

自縄自縛日記

林佳世子『オスマン帝国500年の平和』

2016-09-04 20:33:25 | 中東・アフリカ

林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社、2008年)を読む。(積んでいるうちに講談社学術文庫版が出てしまった。)

600年以上も存続したオスマン帝国は、決してトルコ人の国ではなかった。確かにアナトリアにおいて数ある侯国のひとつとして生まれたのではあるが(その歴史的経緯も明確ではないからか、著者は「1299年に国が誕生」とは書いていない)、近代に至るまで、「民族」という概念はこの国と社会には組み込まれていなかった。

むしろ重要な区切りは、バルカン半島とアナトリア西部から、1512年以降に版図を拡げていった活動と(セリム1世、スレイマン1世)、近代にさまざまな支配の矛盾やロシア・ヨーロッパの攻勢により滅亡していく様子とである。

支配の矛盾とは、徴税を行うミニ権力の肥大化、やくざ的軍隊の近代化の失敗、不公平さの顕在化による「民族」の創出、といったところか。そして最後の点が、近代トルコの成立と、バルカン半島や中東での民族間の激しい対立となって現代につながっていることがわかる。良い通史である。

ところで、イエメンは激しい山岳地帯ゆえ、いまでも部族社会が残っている。それゆえにオスマン帝国も一時的かつ中途半端にしかこの地を支配できなかった。帝国による支配が難しいことも、現代と地続きである。

それに関連して本書で面白い点のひとつは、オスマン帝国におけるコーヒー店という場のことだ。イエメンにおいてスーフィー教徒がコーヒーを煎じて飲むことを発見したのが15世紀のことだが(諸説あり)、既に16世紀にはコーヒー店がイスタンブール市内に拡がっており、詩の披露と批評の場、軍隊や教団の集まりの場として機能していたのだという。最初は「祈りの時間に眠らない」という聖水であったはずのコーヒーが、100年かそこらで変貌を遂げていたわけである。一方でヨーロッパにおけるコーヒー店は17世紀に活発となり、「カンバセーション」を通じた市民性の獲得の場になっていった(臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』)。そしてこの「黒い血液」は、投機や植民地主義といった形を通じてオカネをも乗せて流れてゆくことになる(デイヴィッド・リス『珈琲相場師』)。このあたりのオスマン帝国とヨーロッパとの違いを、あらためて整理してみたいところだ。

思い出したこと。イスマイル・カダレ『夢宮殿』は19世紀のオスマン帝国を舞台とした小説だが、バルカン半島のアルバニア出身のカダレにとって、末期のオスマン帝国は硬直した恐怖の権力国家という認識だったのだな。つまりそれは、カダレにとってソ連に比すべき存在であったということである。


トビー・フーパー『スペースバンパイア』

2016-09-04 09:35:18 | ヨーロッパ

トビー・フーパー『スペースバンパイア』(1985年)を観る。

死ぬほど懐かしい。中学生のとき、同級の女の子が映画館に観に行ったと話していて、何でそんなヘンなことをするのだろうと思った。その後テレビ放送で鑑賞して合点がいった。その子はエロ物が好きなのだった。

それはともかく。淀川長治がマチルダ・メイの裸に興奮したという逸話があるが、それ自体はいまやなんということもない。時代は変わるものである。しかし、彼女に抗いようもなく吸い寄せられて、生体エネルギーをすべて吸収され、挙句の果てにミイラになってしまうSFXは、いま観てもなかなか鮮烈である。(日本でSFXという用語が使われはじめたのはこの頃だったと記憶している。)

ロンドンがヴァンパイア化の連鎖で滅びそうになる展開には、素朴すぎて笑ってしまう。できれば、コリン・ウィルソンの原作小説『宇宙ヴァンパイアー』において執拗に書かれたように、生体エネルギーの相互の吸収は人間同士でもなされるのだという設定や、エイリアンが神から堕落した存在であったという設定も活かされればもっとよかったが、しかし、それではせっかくのアホアホさが損なわれたかもしれない。

●参照
コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』


突然段ボールとフレッド・フリス、ロル・コクスヒル

2016-09-04 08:39:10 | アヴァンギャルド・ジャズ

1998年にロル・コクスヒルが来日したとき、歌舞伎町のナルシスにサックス・ソロをよくわからず観に行ったのだが、そのときの正直な感想は「なんということもない」。実は、この超脱力・なで肩の魅力は、いきなりのインパクトという形ではなく、じわじわと心を蝕んでくるものなのだった。

そんなわけで、当時録音された『Lol Coxhill + 突然段ボール 2』(Wax Records、1998年)も買い逃してしまっていて、その後、ずっと聴きたかった。ようやく手に入れた。

Eiichi Tsutaki 蔦木栄一 (effectic perc, computer)
Shunji Tsutaki 蔦木俊二 (g, computer, b)
Lol Coxhill (sax, vo)

いや何というべきなのか、ここまで見事に脱力できる人たちについては。コクスヒルのふにゃふにゃとよれていくサックスを聴いていると、全てのこだわりの栓が溶け落ちていくようだ。

ほとんどがスタジオ録音だが、最後の1曲「The Christmas Song」のメドレーだけは吉祥寺MANDA-LA2でのライヴ録音である。解説によれば、その前日、スタジオに蔦木俊二が持ち込んできた音源を聴いたコクスヒルが「The Christmas Songに似ている」と言いだして実現したものらしい。コクスヒル、フィル・ミントン(ヴォイス)、ノエル・アクショテ(ギター)という変態3人トリオによるクリスマス集においてこの曲を変奏しまくったのは前年の1997年。よほどコクスヒルの頭にこびりついていたのかな。

ついでに、『Fred Frith & 突然段ボール』(Wax Records、1981年)。これもやはり脱力系、ノーコメント。フリスは今日、東京駅前の行幸通りで無料ライヴをやるみたいだが、いずれ単独でのライヴを観たいものである。

Fred Frith (g)
Eiichi Tsutaki 蔦木栄一 (organ, ds)
Shunji Tsutaki 蔦木俊二 (g)

●ロル・コクスヒル
ロル・コクスヒルが亡くなった(2012年)
ロル・コクスヒル+ミシェル・ドネダ『Sitting on Your Stairs』(2011年)
ロル・コクスヒル+アレックス・ワード『Old Sights, New Sounds』(2010年)
ロル・コクスヒル、2010年2月、ロンドン
フィル・ミントン+ロル・コクスヒル+ノエル・アクショテ『My Chelsea』(1997年)
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集(1997年)
G.F.フィッツ-ジェラルド+ロル・コクスヒル『The Poppy-Seed Affair』(1981年)

●フレッド・フリス
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』(2009年)
高瀬アキ『St. Louis Blues』(2001年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)