Sightsong

自縄自縛日記

ケヴィン・ノートン『Intuitive Structures』

2016-09-22 19:59:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

ケヴィン・ノートン『Intuitive Structures』(Cadence Jazz Records、2002年)を聴く。

Kevin Norton (ds, perc, vib)
Louie Belogenis (ts, ss)
Tomas Ulrich (cello)
John Lindberg (b)

ケヴィン・ノートンというドラマーは知らないのだけど、調べてみると、Leo、Clean Feed、CIMPとCadenceなどからリーダー作を出している人だった。オーソドックスでありながらヴァイブも使ってカラフルな印象である。

それはそれとして、目当てはルイ・ベロジナス。念とか情とかいった精神的なものも、唾や舌や喉など肉体的なものも、すべてテナーに吹き込むような印象がある。ここでも、ノートンの煌くドラムスと、チェロ・ベースによる下からの擾乱のサウンドの中で、ノッてくると、いよいよ身体を表裏ひっくり返してマウスピースから異音とともに入っていくような・・・(化け物か)。いちどはナマで観てみたいサックス奏者である。

●ルイ・ベロジナス
『Blue Buddha』(2015年)
プリマ・マテリア『Peace on Earth』、ルイ・ベロジナス『Tiresias』(1994年、2008年)
サニー・マレイ『Perles Noires Vol. I & II』(2002、04年)


小川紳介『三里塚 第二砦の人々』

2016-09-22 16:30:20 | 関東

小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)を観る。

前年の『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)に続く作品。住民の反対により用地取得が進まず、土地収用法に基づく行政代執行が政府により実行され、公団(新東京国際空港公団)と機動隊とによる強制的な乗り込みをとらえている。

この作品から完全な同録をはじめており、そのためかカメラが回る音が聞こえる。また、映像と音とがスムーズにつながり、粗削りさが少し姿を消して普通のドキュメンタリー映画に近づいた感がある。前作までは同録可能なナグラを買うオカネがなく、ボリューに工夫して録音機をくっつけていたような使い方だったようだ。

1971年2月24日。農民(住民)たちが戦略を練っている。いくつもの砦が日々補強されてゆき(そのうち第二砦の人々に焦点を当てた作品ということである)、自分たちを鎖でそこにくくりつけるという方針を決めている。なぜか妙に愉しそうだ。ヘルメットについて「命が惜しけりゃこれかぶっだ」、子供と一緒に鎖でくくるときには「子犬ができた」と、軽口まで叩いている。

2月25日。支援部隊の学生らしき者が、なるべく穴に入って長期戦を戦うようにと、また、異を唱えられても「決定だから」「こういう戦いもあるんですよ」などと、上から滔々と述べている。それに対して婦人行動体(農民)の女性は「学生は、よお」と不満そうでもあり、また、「社会党がうろちょろしてんのは、おれらのためじゃないんだよ、幹部説得だよ」と言い放ったりもして、外部からの支援部隊との多少の軋轢も感じさせる。ただ、このときはそれ以上のものではないことが、映画全体を通じて感じられる。

3月3日。第一砦が狙われた。公団はなんと、全国から日当2万円で臨時職員を雇っている(いまでは抵抗側が根拠なく揶揄されるような手法である)。被害が大きく、総括として、無抵抗に近い守りではもう戦えないのだという理解となった。

3月5日。いつも目立つ農民女性が、無抵抗ではなくどのように抵抗しようかと話す後ろに、石牟礼道子さんの姿が見える(研究者のTさんに教えていただいた)。今回は、逮捕者を出さないよう、支援者の抵抗に対して公団と機動隊が退いたときに、婦人行動隊が前面に出てくるという作戦になった。逮捕者は非常に少なかった。

3月6日。第四砦で支援部隊が狙いうちにあった。反対同盟の住民たちは近づけず、第二砦の山の上から「やめろ!」と口々に叫ぶことしかできない。ある農民の男性は、「かわいそうでかわいそうで見てらんねえな」と呟く。そしていくつかの砦がこわされた。

戦いのない時間に、農民たちが集まって、考えを述べ合っている。実質的な審議なく国策として土地が取り上げようとされてきたこと、権力は怖ろしいものだということ、世論に直接ぶつけられないはがゆさ、相手が同じ人間だと思えないこと、それらが自民党の政策によるものであること、社会党はあてにならず頼る政党がないこと。内省し、考え、興奮し、話す老人の顔を凝視するカメラは実に粘っこい。

粘っこいといえば、このあとの展開こそ粘っこい。「穴に入ってみよう」とのキャプションのあと、抵抗のため掘られた穴に入り、じっくりと観察するかのような時間が続くのである。トイレの臭さ、通風孔の風、暑さと湿気、出てくる虫やネズミのこと、敵の侵入を阻むための格子。後年の『ニッポン国古屋敷村』『1000年刻みの日時計-牧野村物語』における、自然と社会のなかに我が身を置いて観察する過激なスタイルの萌芽が、すでにここに見られるわけである。

穴を掘った農民は得意気に語る。そもそも入ることができるのは選抜した同盟員のみ、学生は入れない、と。ここには、「自分で掘った穴にしか怖くて入れない」という心理の他にも、大地の下とまで一体化できるのは住民だけだという意識もあったのだろうか。

3月25日。いくつかの穴がこわされた。

4月下旬。穴はまた同盟員により横に掘り進められている。やはり、笑いながら。そして公団は、近いうちに残った穴と放送塔を強制撤去すると公表した。

●参照
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』(1977、82年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線・三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)


鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』

2016-09-22 10:10:07 | 思想・文学

鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』(河出文庫、原著1960-2006年)を読む。

すぐれた思想家の文章に触れると、ときどき、何かに打たれたように吃驚し息を呑んでしまうことがある。

「大勢はきまったと判断され、その判断が現状にあたっていると思われる時に、その後は大勢に身をまかせるのでなく、いくつかの原則をたてて異議申したてをつづけることには意味がある。明治以後の日本の伝統に欠けているのは、この習慣である。」

(言語にならない身ぶり手ぶりによりあらわれる世界をあらためて重視して)
「長い戦後、自民党政権に負ぶさってきたことに触れずに、菅、仙谷の揚げ足取りに熱中した評論家と新聞記者による日本の近過去忘却。これと対置して私があげたいのは、ハナ肇を指導者とするクレージー・キャッツだ。急死した谷啓をふくめて、米国ゆずりのジャズの受け答えに、日本語もともとの擬音語を盛りこんだ。
 特に植木等の「スーダラ節」は筋が通っている。アメリカ黒人のジャズの調子ではなく、日本の伝統の復活である。「あれ・それ」の日常語。身ぶりの取り入れ。」

「私人の考え方は、それが官僚政治のレベルで、どのような手続きで実現されるかをとびこえて、何がいいか、何が悪いかという太い線でとらえる。だから、逆にいえば、官僚の側は、私人の集団としての大衆にたいしては、法律上の手続き論とか現実的利害の計算をとびこして自分たちの決定した政策を、正義としてつねにうったえる方法をとる。ほんとうはよくはないが、手続きにしばられてこうきめた、というようなことはあまりいわない。」

「知識としてはひろくこまかく正しくて、思想としてはもろい存在というものがある。」

「知識と感覚・行動が絶縁している場合、人は、大局的に見て権力者のいうなりにあやつられる。」

「・・・いまの日本のように権力をもっている人びとが、平和憲法を守ることにあまり期待がもてない時には、法律の細目にふれる行動を通してでも、法を守ってくれとはっきり要求することが必要になる。そのための実施の練習をすることに意味がある。」

「私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思うが、しかし、だからといって、それを全体として捨てるべきだとは思わない。ニセものは死ねと、ほんものとしての立場から批判する思想を、私は、政治思想としては、信じることができない。それは精神の怠惰の一種、辛抱の不足の一種だと思う。」

●参照
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』


アンドリュー・シリル+ビル・マッケンリー『Proximity』

2016-09-22 08:46:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

アンドリュー・シリル+ビル・マッケンリー『Proximity』(Sunnyside、2014年)を聴く。

Andrew Cyrille (ds)
Bill McHenry (ts)

激しいふたりの激しい応酬を期待すると肩すかしに遭ってしまう。どちらかと言えば、リラックスして自分を出して相手に受けとめてもらったような演奏である(マッケンリーが、シリルに)。

演奏は2014年の11月。同年の6月にNYのヴィレッジ・ヴァンガードでふたりの共演を観た(ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard)。そのときのマッケンリーは、シリルという大レジェンドを迎えて、ファンそのもののような歓びを隠すことがなかった。文字通り「レジェンド」と評し、MCで、「シリルの最初の吹込みは、コールマン・ホーキンスと、なんだぞ。それからセシル・テイラーとの共演・・・自分は『Conquistador』が一番好きだな。ジミー・ライオンズとのデュオも素晴らしい」と、自分名義のライヴとは思えない様子なのだった。

ここでもその延長としか思えない雰囲気である。苛烈だったり過激だったりすることの少ないマッケンリーを物足りなく感じてしまうことは無くもないのだが(本盤に限らず)、それでも、かれのテナーの音色は気持ちが良い。そしてもちろん、武道の達人が見惚れてしまう演武を披露するかのようなシリルのドラムス。

●アンドリュー・シリル
トリオ3@Village Vanguard(2015年)
アンドリュー・シリル『The Declaration of Musical Independence』(2014年)
ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard(2014年)
ベン・モンダー『Amorphae』(2010、13年)
トリオ3+ジェイソン・モラン『Refraction - Breakin' Glass』(2012年)
アンドリュー・シリル『Duology』(2011年)
US FREE 『Fish Stories』(2006年)
アンドリュー・シリル+グレッグ・オズビー『Low Blue Flame』(2005年)
ビリー・バング+サン・ラ『A Tribute to Stuff Smith』(1992年)
アンドリュー・シリル『Special People』(1980年)
アンドリュー・シリル『What About?』(1969年)

●ビル・マッケンリー
ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard(2014年)
US FREE 『Fish Stories』(2006年)
ビル・マッケンリー『Ghosts of the Sun』(2006年)