「関ケ原」(中巻)司馬遼太郎
引き続き、上中下の中巻を読んだ。
P212
西洋の概念でいう友情というものは明治後の輸入倫理で、徳川期の儒教思想にもあまり見られないし、まして戦国、またはさかのぼって鎌倉期の武士の倫理のなかでは皆無といってよかった。
P270
玉子は、明智光秀の三女である。
その才色は、「比類がない」と当時いわれた。忠興より一つ上の三十八歳になっていたが容色はすこしも衰えず、おそらくまりあさまの再来であろう、とまで彼女の同心の切支丹信者のあいだでささやかれていたほどである。
忠興は、切支丹ではない。むしろその異教を憎悪していたが、これほどの気儘者が夫人の洗礼を禁ずることができなかったのは、それを遠慮せねばならぬほど夫人を愛していたからに相違ない。(ここまで忠興が執着妄執しなければ、後の悲劇は防げたと思う)
P312
現在の毛利家を動かしているのは、内にあっては元春の子吉川広家であり、外にあっては伊予で六万石の僧侶大名安国寺恵瓊である。(この分裂が関ヶ原に大きくひびいた・・・西軍はチームワーク悪すぎる)
P344
三成は戦国の離合集散のなかで叩きあげた男ではなく、秀吉の秘書官として大名に成りあがった官僚育ちだけに、自分自身が秀吉に随順したように他人もそうするものと頭から思っていた。
P416
秀吉の陪臣は、最初は竹中半兵衛重治、ついで黒田如水、それらはいずれも動乱期の軍師であった。晩年の治世時代にあっては石田三成がその地位についている。如水にすれば、自分が動乱のなかで秀吉をたすけて取らしめた天下を、三成がまるでわがもの顔にして威権をふるっていることに、我慢できるはずがなかった。
P468
ひとつには神業といっていいほど小気味いい合戦の明神だったということもあるし、ひとつには、ひそかに秀吉の絵像までおがんでいたという意外な他愛なさが愛嬌になって、
「安房守殿は古今まれな名将」
という評判のよさをとっていたのであろう。(下巻終わりになって、真田昌幸登場!だ)
【感想】
関ケ原は天下分け目と言われる。
徳川VS.豊臣、である。
家康は、この本質を、豊臣家・家臣(大名)同士の内紛、にすり替えた。
そうしないと、加藤清正や福島正則など、恩を忘れた「逆賊」になってしまう。
そうなると、徳川方に味方になってもらえず、敗北したかもしれない。
それには、石田三成のキャラクターが影響した。
三成は人気がなかった、嫌われ者だった。
特に、加藤清正や福島正則などに嫌われた。
優等生の委員長がクラスの暴れ者に嫌われるようなもの。
官僚と政治家、事務と現場、文吏派と武断派。
本来、権力者の側近は嫌われるものだ。
それを巧く家康に利用された。
【ネット上の紹介】
秀吉の死後、天下は騒然となった。太閤の最信任を獲得した能吏三成は主君の遺命をひたすら堅守したが、加藤清正、福島正則ら戦場一途の武将たちは三成を憎んで追放せんとする。周到な謀略によって豊家乗っ取りにかかった家康は、次々と反三成派を籠絡しつつ、上杉景勝討伐の途上、野州小山の軍議において、秀頼の命を奉ずる諸将を、一挙に徳川家の私兵へと転換させてしまう。