9人の女性作家の評伝。
父との関係に焦点を当てて描かれている。
今年のベストの1冊と思う。
P11・・・渡辺和子
2.26事件関連の本で、父の殺害を目撃した幼い娘が泣きじゃくったという記述を読んだ記憶があった私が改めて確認すると、和子は「いいえ、泣いておりません」と否定した。
「私は、父の死で涙を流したことは一度もございません」
P32・・・齋藤史
ゆくすゑを誰も知らねば渡邊・齋藤の名もつらねたり一つ碑の面に
瀏の娘、齋藤史の歌である。
史は1980年、71歳のときにこの碑を訪れた。二人の名が同じ碑面に刻まれているのを見て複雑な思いを抱いたようで、
人の運命(さだめ)過ぎし思えばいしぶみをめぐるわが身の何か雫す
P62・・・島尾ミホ
「死ニタイ、シンドイ、結婚シタ事ヲクヤム」
「ジュウ(父)ヲ捨テタバチカモ」
ミホが結婚写真を嫌ったのは、それが父を孤独の中で死なせたことを思い起こさせるものだったからかもしれない。
P110・・・石垣りんの詩
家は夢のゆりかご
ゆりかごの中で
相手を食い殺すかまきりもいる
P168・・・田辺聖子
東条英機が自決に失敗したことを知った日の日記には〈とんだ死に恥をさらして気の毒ともあさましいともいいようがない〉(昭和20年9月14日)
P186・・・辺見じゅん
(父の)源義が再婚したのは1949年、辺見が10歳になる年のことである。
2月の末に子どもたちは富山の祖父母のもとから東京に戻り、新しい母・照子と暮らしはじめた。「お母さん」と呼ぶきっかけがなかなかつかめないでいた辺見だが、雛祭りが近づき、一緒に雛人形を飾っていたとき、気持ちがほどけて、自然に「お母さん・・・・・・」と呼びかけていた。
母は虚をつかれた表情でしばらく私の顔を見つめていた。そして次の瞬間、私を強く抱きしめた。(中略)
まだ21歳だった照子を、辺見は母として慕い、生涯にわたって大切にした。弟たちもそれは同じだった。(辺見じゅんは、生涯にわたってお父さん子だった、でも、新しい母をライバル視しなかった。なかなか出来る事じゃない)
P192・・・辺見じゅん(父は、角川書店創業者・角川源義)
弟の角川春樹は、当時、辺見から聞いたあるエピソードが忘れられないと話す。
大和が沈没したのは、春の盛りの4月7日だった。駆逐艦に救助された乗員たちは、翌日、九州の佐世保に帰還した。そのとき一人の兵士が、「桜が咲いている!」と叫びながら、気かふれたように甲板を転げまわったという。陸では桜が満開だった。(中略)「この話に心を動かされた私は、取材を続けてぜひ本にすべきだと辺見に言いました」
大和の乗員は3,332名。うち生存者は276名とされる。辺見はこのうち117名から話を聞き、遺族にも取材している。
P258・・・石牟礼道子
小学校の代用教員として終戦を迎えた道子は、翌年3月、勤め先の学校から帰る汽車の中で、ひとりの戦災孤児と出会う。骨と皮ばかりに痩せ、うつろな目をした裸足の少女。満員車内のでは彼女のまわりだけ空席ができていた。
話を聞くと、少女は15歳でタデ子といった。大阪付近の駅で半年ほど寝泊まりし、姉のいる兵庫県の加古川に行こうと切符を持たずに乗ったという。そのまま遠い九州まで来てしまったのだ。
車掌は、下車を命じたが降りないので困っていると言った。このままでは終点の鹿児島で放り出されることになる。道子はタデ子を連れて帰った。
道子におぶわれた異様な姿の少女を見るなり、晩酌をしていた亀太郎(父)がすぐに立ち上がり、水とお茶を持ってきた。松太郎(祖父)はみずから風呂をたき「このような姿になるまで、よう生きとったのう」と嘆息した。(中略)父と祖父は正反対の性格で、折り合いもよくない。だが家族全員が、他人の窮状を見れば迷わず手を差し伸べる人たちだった。
【参考リンク】1
旧「第七師団転地療養所」について: 旭川平和委員会 (cocolog-nifty.com)
【参考リンク】2
「昭和二十年夏、僕は兵士だった」梯久美子
「昭和二十年夏、子供たちが見た戦争」梯久美子
「昭和二十年夏、女たちの戦争」梯久美子
「百年の手紙 日本人が遺したことば」梯久美子
「狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ」梯久美子
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」辺見じゅん
「よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年」辺見じゅん/保阪正康
【ネット上の紹介】
不朽の名作を生んだ9人の女性作家たち。唯一無二の父娘関係が生んだ、彼女たちの強く、しなやかな生涯。
渡辺和子―「私は父の最期のときを見守るために、この世に生を享けたのかもしれない」
齋藤史―「もののふの父の子に生れもののふの父の寂しさを吾が見るものか」
島尾ミホ―「死ニタイ、シンドイ、結婚シタ事ヲ悔ヤム。ジュウ(父)ヲ捨テテ来タバチカモ」
石垣りん―「父と義母があんまり仲が良いので鼻をつまみたくなるのだ」
茨木のり子―「いい男だったわ お父さん 娘が捧げる一輪の花」
田辺聖子―「やさしい言葉の一つもかけることなく、父を死なせてしまった」
辺見じゅん―「父が亡くなり、私もまた死んだと思った」
萩原葉子―「私はまさしく父親の犠牲者としてこの世に生まれた」
石牟礼道子―「憎くて、ぐらしかおとっつあま、地ごく極楽はおとろしか」