劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語
2012年/日本
神の概念について
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
後編は、佐倉杏子と美樹さやかの話から鹿目まどかと暁美ほむらの話に移る。「願い事を叶えてあげる」というキュゥべえの言葉の裏にあったものは親切心ではなく、あくまでもエントロピーの問題であったことにまどかは愕然とするのであるが、まだ中学2年生なのだから仕方がない。しかし同時にまどかは、自分がいままで自分自身に願い事が無かった理由が、自分が気づかないところでほむらが‘誤ち’を訂正することを繰り返し、‘永遠回帰’の実現を試みていたためだったことに気がつき、最強の魔女「ワルプルギスの夜」に挑むために魔法少女になる決心をする。
もちろん全てを知ってしまったまどかの願いはパーソナルなものではなく、「過去、現在、未来、全宇宙に存在する全ての魔女を生まれる前に自分の手で消し去ること」という、キュゥべえの想像を絶し、いわばメタフィジカルに自分自身を消し去ることで‘永遠回帰’を完成させる。このような神の概念を『009 RE:CYBORG』(神山健治監督 2012年)は描きたかったのではなかったのか?
作画手法にしてもストーリーにおいてもアニメーションとして行けるところまで行ってしまった本作の続編で一体何が描かれるのか楽しみである反面、スべり倒す可能性も大いにありえる。
京都大、教養教育を一元化へ 13年4月に新部門検討(朝日新聞) - goo ニュース
新入生対象に特別休学=1年間、50万円支給も―東京大(時事通信) - goo ニュース
同じ時期に東京大学と京都大学が新入生に対して対照的な教育方針を打ち出してきた。
東京大学は、2013年度入学の新入生を対象に、ボランティアや海外留学など自主的な
活動を支援するため、1年間の特別休学を認める「FLY Program」を始めると発表し、
30人程度が対象で、必要に応じ上限50万円で費用も支給し、他方、京都大学は学内や、
学生を採用する企業側から学生の基礎教養の底上げを求める声が高まったために、各学部
の教養教育を一元的に担当する新部門「国際高等教育院」(仮称)の来年4月の設置を検討
しているようである。別に校風に詳しいわけではないが、京都大学がしそうなことを東京大学
が、東京大学がしそうなことを京都大学がしようとしているところが面白い。
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語
2012年/日本
アニメーションの集大成
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
メインストーリーは主人公の中学2年生、鹿目まどかと、まどかの中学校へ転校してきた暁美ほむらを中心に展開していくことになるが、この前編では佐倉杏子と美樹さやかの葛藤が描かれることになる。
杏子の父親は聖職者として教会で聖書を教授していたのであるが、やがて聖書を超えた「教義」を説くようになったものの、人々は教会に来なくなってしまう。それを不憫に思った杏子は、キュゥべえと契約して魔法少女になる代わりに、父親の教会に多くの人が来るように要求したおかげで父親の教会には多くの人が来るようになったのであるが、ある時、父親が魔法のおかげで多くの人が集まっていることを知ってしまう。杏子の父親が杏子を残して一家心中してしまった原因が、魔法をきっかけにして人が集まるようになったことなのか、人が集まり続けていることが魔法によるものだったからなのか明らかではないのだが、美樹さやかが上条恭介の、事故による腕の怪我を治すためにキュゥべえと契約したものの、恭介と志筑仁美の仲の良さに嫉妬することで、魔女と化してしまう展開は、結局、人に施す方も施される方も、それを知ってしまうことで台無しになってしまうという対称性を強調し、上手く描かれていると思う。その問題をどのように解決していくのかが後編で描かれることになる。
それにしても、キュゥべえが村上隆の作品からインスピレーションを得て作画されたことは誰が見ても分かることであるが、ロシア・アヴァンギャルドからチェコのアニメーション、「モンティ・パイソン」のテリー・ギリアムが手がけたアニメーション、あるいは横尾忠則のグラフィックデザインから影絵まで駆使された、魔法少女と魔女が戦う異空間の結界の描写は秀逸で、映画館の大画面で観ることが出来た幸せをひしひしと感じる。
初回から濡れ場連続の昼ドラに衝撃(R25) - goo ニュース
私がフジテレビで気になることは昼のドラマよりも、寧ろ夜のバラエティ番組の方である。
「たけしのコマ大数学科」は以前から放送しているが、「ホンマでっかTV」が成功した
ためなのか、「ソモサン・セッパ」「ワラッタメ天国」「ヌメロン」などやたらとお笑いと知性を融合
しようとしている気配がある。それが面白ければ問題ないのであるが、深夜からゴールデン
の時間帯に移った「世界は言葉でできている」などは深夜番組だから成り立つようなもので
ゴールデンで流れているのを見たが、余りにもしょぼくて見るのを止めてしまった。だから
結局は、番組の内容以上にたけしやさんまというキャラクターが重要なのではあるまいか
寒椿
1992年/日本
粗が目立ちだした脚本について
総合 50点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
昭和初期に、高知県で女性初のバスの女車掌として土佐乗合自動車で働いていたものの、父親の博打による借金返済のために芸妓娼妓紹介業を営む富田岩伍に買われ、高知の妓楼「陽暉楼」へ身売りされることになるのであるが、その美貌で「牡丹」という源氏名と共にすぐに売れっ子になった21歳の貞子が本作の主人公なのではある。しかし本作は富田岩伍の息子である健太郎がナレーションを務めているように、熱烈な恋愛結婚をしたものの、夫の選んだ仕事に馴染めず愛想を尽かせて家から逃げ出した妻の富田喜和から岩伍が息子だけを連れて帰るシーンが冒頭に置かれ、父親と息子が別れるシーンがラストに置かれているように、女衒の父親に対する息子の反発と、一緒に暮らしていくうちにお互いの理解が深まり和解へと至る過程がメインテーマになっている。
しかしながらそのメインテーマを支えるサブストーリーが良くない。例えば、牡丹を身請けした財閥の御曹司である多田守宏が銀行から横領したという証拠書類を牡丹に預けてしまうという頭の悪さも酷いものだが、田村征彦の片腕として働く元力士の仁王山も、どのように見ても頭が良さそうには見えず、やがて牡丹を救い出して夫になるという設定は、本当は岩伍を愛しており、父親に身売りされた日にプレゼントしてもらった反物で織り、お守り代わり着ていた和服を、誘拐された際に、犯人である仁王山によって引きちぎられたことを考えると心情として無理があると思う。
『化身』(東陽一監督 1986年)は単調なストーリーであったためにまだそれほど違和感を感じることはないが、本作あたりから那須真知子の脚本に粗が目立ち始め、次回作『霧の子午線』(出目昌伸監督 1996年)以降、悲惨な状態が続いている。しかし今年も『北のカナリアたち』(阪本順治監督)で起用されているのだから業界内のことはよく分からない。
上原さくら別居認める 夫は離婚強く望む(日刊スポーツ) - goo ニュース
フジテレビの「ごきげんよう」に上原さくらが出演していた際に、よく夫婦げんかをすると冗談
交じりに話しているのを聞いて、よく旦那は我慢していられると感心していたのであるが、
やっぱり我慢出来なかったのだと納得出来た。私は上原さくらは結婚不適合者だと思って
いるのであるが、gooメールのメルマガで、「ブログでは言えない上原さくらのリアル恋愛
トーク☆」なるものが存在しているところを見ると、そのような上原の、現実には何の役にも
立たない話を聞きたがっている女性たちが少なからずいることに驚かされる。
化身(1986)
1986年/日本
白い肌の女
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
主人公の文芸評論家で、女子大学で世阿弥の能楽の講義なども受け持っている秋葉大三郎は、田部史子という恋人がいたのであるが、北海道出身の八島霧子と出会ってからすっかり彼女に魅了されてしまい、出版社に1800万円以上も借金をして洋服のリサイクル店「アンティーク・ブティック・秋」の出店をサポートするのであるが、やがて大人になった霧子に愛想を尽かされてしまうというたわいのない話ではある。タイトルバックの背景に映された絵はポール・デルヴォーの「最終列車(Le Dernier Wagon)」であるが、『最強のふたり』(エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ監督 2011年)のダリの絵のように深い意味を与えられることはなく、最終列車に乗っている真っ白い肌の女性は、やがて秋葉のもとから去っていく、肌がきれいな霧子を象徴しているのであるが、悪い演出ではない。
ラストシーンは霧子に捨てられた秋葉が公衆電話で天気予報を聞くのであるが、「晴れ、時々曇り、ところによりにわか雨」という予報は、全く予報になっておらず、自分の立ち位置が分からず、‘渡し守’として途方に暮れながら、霧子と史子を乗せて上昇するエレベーターをただ見上げるしかないというシーンも素晴らしい。
秋葉の著書がニューヨークでは定価の3倍で売られていると秋葉に教える、ニューヨーク在住の商社員マンである室井達彦の発言は、それだけ秋葉の著書に価値があると言いたかったのであろうが、日本の本はアメリカへ輸入されるのだから、秋葉の著書に限らずどれも定価より高いのであるが、そのようなケアレスミスはあるものの、秋葉の娘と霧子のプレゼントが同じベルトでかぶるというギャグなど、この頃の那須真知子の脚本は、ストーリーが単調であるが故に、大きな瑕疵はまだ見当たらない。『寒椿』(降旗康男監督 1992年)辺りから怪しくなってくる。
乙武氏「著名人は無断撮影OK?」(R25) - goo ニュース
作家の乙武洋匡が提起した、「著名人なら勝手に写真を撮っていいのか?」という議論は
前提が間違っている。そもそも「勝手に写真を撮っていいのか?」という議論が必要であり、
もちろん素人も含めて勝手に写真を撮ってはいけないはずであるが、携帯電話にカメラが
付属している以上、昔と違って片手で写真が撮れてしまうという気軽さは、写真を撮る
ハードルを確実に下げており、必然的に倫理も変化せざるを得ないだろうし、作家とは
いっても“五体不満足”が、本人は不本意ではあっても“売り”になってしまった乙武洋匡は
被写体として格好のターゲットになりやすい。同様の経験談として乙武が挙げている、
「私がラーメン食べてるところを盗撮してるガラスの向こう側のサラリーマンボッコボコに
するよ」というきゃりーぱみゅぱみゅの発言はファッションモンスターのネタだと思うけれど。
カムイ外伝
2009年/日本
マンガ的なCGとの相性について
総合 30点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
多用されているワイヤーアクションやCGの表現の仕方は、本作がマンガを原作としたものであることを鑑みるならば、その演出は決して間違っているとは言えないチープさであるのだが、あくまでも実写として撮られている以上、マンガ的なCGとの相性が良いとは言えない。
CGの使い方は不慣れだとしても、その他の演出は確かなものかといえば、そうでもない。例えば、水谷軍兵衛の愛馬「一白」の白い足を切り落とした半兵衛の居場所を人相覚書を見て密告した吉人を刃物を手にして追ったサヤカを追ったスガルが、何故かその後に、吉人と口論しているサヤカのもとに止めに来ることはなく、サヤカに手を汚させないようにしたのは突然現れるカムイである。
不動の罠にはまり、海中で鉄の檻に閉じ込められたカムイは、サヤカから貰った月日貝が発する明かりを頼りに、地面が砂であることが分かり、砂を掘って檻から脱出するのであるが、地面が砂であることは月日貝の明かりがなくても、触感で分かるはずで、サヤカとのロマンスを盛り上げるつもりのエピソードであろうが失敗している。ここで何故かカムイは自身で‘心内語’を語るのであるが、既に山崎努のナレーションでカムイの‘心内語’は語られており、明らかに演出がブレている。
クライマックスも不自然で、不動が密かに水瓶に入れた毒が原因で島民全員が死んでしまうのであるが、そこの水を飲んだ2、3人が死ぬのならともかく、いくらなんでも一つの水瓶で、全員が同時に死んでしまうというストーリー展開には無理がある。
特別に監督には期待していなかったが、脚本を担当した宮藤官九郎にはそれなりに期待していただけに、想像を絶する出来の悪さにはがっかりする。という存在の啓蒙には役立つといったところか。
ボイトレの先生にきく!「カラオケでうまい!と思われやすい曲」ランキング(女性編)(gooランキング) - goo ニュース
こんなことに文句を言う必要もないとは思うが、「カラオケでうまい と思われやすい曲」
を上手く歌える人は、結局、何を歌っても上手いと思われるのである。しかし2位のAIの
「Story」に関して言うならば、フジテレビアナウンサーである石本沙織が1月23日に放送
された「女子アナSP2012全国歌がうまい女子アナ決定戦」で披露した「Story」のライブ
バージョン以上のものを聞いたことがない。千原ジュニアにも「ストーリーありすぎましたよ」
と言われていたが、お台場に行っても石本沙織のカバーアルバムは売っていないらしい。