今回は、1/2に訪ねた(蔵王堂以外の)吉野山の見どころを紹介する。文章は、Wikipediaから引用した。まずは吉野神宮だ。近鉄吉野神宮駅駅から坂道を約1km登ったところにある。
《吉野郡吉野町に鎮座する後醍醐天皇を祭神とする神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣大社である。旧社名 吉野宮》。

神門
《明治22年(1889年)に後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定し明治25年(1892年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。明治34年(1901年)に官幣大社に昇格し、大正7年(1918年)に吉野神宮に改称した》。

本殿
《本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられている。総檜造。近代神社建築の代表とされる。境内は、桜の名所。金剛山・葛城山が遠望できる》。冒頭の写真は、拝殿の巫女さんである。

吉野神宮からさらに坂道を登ると、吉野山観光駐車場に着く。ここで車を降りて歩き出した。振り返ると(北向き)、遠くの山々に日が差して、とてもきれいだった。

蔵王堂の手前に、こんな鳥居がある(振り返って撮影)。金峯山寺の「銅鳥居」(かねのとりい 重文)である。《聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である》。
なお写真手前の「柿の葉すし ひょうたろう」は、有名なお店で、柿の葉寿司がとても美味しい。こちらは日を改めて紹介することにしたい。

蔵王堂を過ぎると、今度はコンクリートの鳥居がある。鳥居をくぐって坂を下ると、吉水神社(よしみずじんじゃ)だ。この神社は《吉野郡吉野町にある神社である。旧社格は村社。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている》。

《もとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)で、明治の神仏分離の際に神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。社伝では、白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け,一時居所とした。後醍醐天皇の死去の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した》。
《明治の神仏分離の際に僧坊・吉水院は廃され、明治8年(1875年)、その跡を後醍醐天皇を祀る神社として吉水神社に改称し、村社に列した》。

向かって左が書院、右が本社
《後醍醐天皇のほか、源義経や豊臣秀吉ゆかりの地でもあり、多くの文化財が所蔵されている。本殿は吉水院であったころの護摩堂である。隣接する書院には、後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があり、重要文化財に指定されている》。確かに、鳥居がなければお寺(僧坊)である。
※神社の公式ホームページ
http://www.yoshimizu-shrine.com/

吉水神社の参道にはこんな展望所があり、桜の季節には多くの見物客で賑わう。桜の木は吉野山のあちこちで目にするが、皆相当の老木で、幹が苔むしている。「春にはちゃんと咲くのだろうか」と心配になってくる。最近は「吉野の桜を守る会」などが活動を開始しているが、これは何か動かなければ…。
※「みよしの」守る意気高く…「吉野の桜を守る会」設立(読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/sakura/yoshino/20081015kn08.htm
※吉野の桜が絶滅の危機!!???(山本能楽堂のブログ)
http://yaplog.jp/noh-theater/archive/463
ショックだったのが勝手神社だ。雪の吉野山で義経と別れた静御前が追っ手に捕らえられ、文治元年(1185年)の暮れ、この神前で法楽の舞を舞い、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたと伝えられている。

ところが、写真左奥にあったはずの本殿(奈良県指定文化財)がないのである。それどころか、境内は立ち入り禁止になっている。神社の前の料理屋さん(西澤屋)で聞くと、2001年に不審火で焼失したのだそうだ。現在、その再建のための募金活動も行われているというが、早く再建していただきたいものである。
写真には、あまり人は写っていない(人を避けて撮った)が、お正月の吉野山は結構な賑わいである。吉野山というと春の桜、最近では秋の桜もみじが知られる程度だが、初詣客がこんなにたくさん来られるとは、知らなかった。
この季節には、あつあつのうどんや茶がゆが、また格別である。皆さん、冬の吉野山へお立寄り下さい!
《吉野郡吉野町に鎮座する後醍醐天皇を祭神とする神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣大社である。旧社名 吉野宮》。

神門
《明治22年(1889年)に後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定し明治25年(1892年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。明治34年(1901年)に官幣大社に昇格し、大正7年(1918年)に吉野神宮に改称した》。

本殿
《本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられている。総檜造。近代神社建築の代表とされる。境内は、桜の名所。金剛山・葛城山が遠望できる》。冒頭の写真は、拝殿の巫女さんである。

吉野神宮からさらに坂道を登ると、吉野山観光駐車場に着く。ここで車を降りて歩き出した。振り返ると(北向き)、遠くの山々に日が差して、とてもきれいだった。

蔵王堂の手前に、こんな鳥居がある(振り返って撮影)。金峯山寺の「銅鳥居」(かねのとりい 重文)である。《聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である》。
なお写真手前の「柿の葉すし ひょうたろう」は、有名なお店で、柿の葉寿司がとても美味しい。こちらは日を改めて紹介することにしたい。

蔵王堂を過ぎると、今度はコンクリートの鳥居がある。鳥居をくぐって坂を下ると、吉水神社(よしみずじんじゃ)だ。この神社は《吉野郡吉野町にある神社である。旧社格は村社。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている》。

《もとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)で、明治の神仏分離の際に神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。社伝では、白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け,一時居所とした。後醍醐天皇の死去の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した》。
《明治の神仏分離の際に僧坊・吉水院は廃され、明治8年(1875年)、その跡を後醍醐天皇を祀る神社として吉水神社に改称し、村社に列した》。

向かって左が書院、右が本社
《後醍醐天皇のほか、源義経や豊臣秀吉ゆかりの地でもあり、多くの文化財が所蔵されている。本殿は吉水院であったころの護摩堂である。隣接する書院には、後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があり、重要文化財に指定されている》。確かに、鳥居がなければお寺(僧坊)である。
※神社の公式ホームページ
http://www.yoshimizu-shrine.com/

吉水神社の参道にはこんな展望所があり、桜の季節には多くの見物客で賑わう。桜の木は吉野山のあちこちで目にするが、皆相当の老木で、幹が苔むしている。「春にはちゃんと咲くのだろうか」と心配になってくる。最近は「吉野の桜を守る会」などが活動を開始しているが、これは何か動かなければ…。
※「みよしの」守る意気高く…「吉野の桜を守る会」設立(読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/sakura/yoshino/20081015kn08.htm
※吉野の桜が絶滅の危機!!???(山本能楽堂のブログ)
http://yaplog.jp/noh-theater/archive/463
ショックだったのが勝手神社だ。雪の吉野山で義経と別れた静御前が追っ手に捕らえられ、文治元年(1185年)の暮れ、この神前で法楽の舞を舞い、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたと伝えられている。

ところが、写真左奥にあったはずの本殿(奈良県指定文化財)がないのである。それどころか、境内は立ち入り禁止になっている。神社の前の料理屋さん(西澤屋)で聞くと、2001年に不審火で焼失したのだそうだ。現在、その再建のための募金活動も行われているというが、早く再建していただきたいものである。
写真には、あまり人は写っていない(人を避けて撮った)が、お正月の吉野山は結構な賑わいである。吉野山というと春の桜、最近では秋の桜もみじが知られる程度だが、初詣客がこんなにたくさん来られるとは、知らなかった。
この季節には、あつあつのうどんや茶がゆが、また格別である。皆さん、冬の吉野山へお立寄り下さい!