「奈良観光研究所」は、奈良県観光の将来像・振興策などについて研究し、活動している任意団体である。メンバーは県下の大学、有力社寺、観光事業者などの有志で構成されている。所長は安村克巳氏(奈良県立大学教授)で、事務局は春日大社にある。私も一昨年からメンバーに加えていただいている。一昨年(2012年)には、十津川村の大自然にふれる旅というスペシャル・ツアーも開催された(残念ながら、私は参加できなかった)。
※トップ写真は、中家住宅(国の重要文化財)
同会の定例会議が昨年(2013年)12月5日(木)に開催され、そこで「次は安堵町を訪ねよう」ということになった。安堵町には素晴らしい歴史・観光スポットがあるが、案外知られていない。観光ルートとしてPRできそうなコースを下見(視察)し、これを売り出そうではないか、という趣旨で、つまりは「モニターツアー」である。幹事さんからいただいたメールによると、
日 時 平成25年12月25日(水)9時30分~15時15分
集合場所 安堵町役場 入口
行 程 表 役場⇒杵築神社⇒馬場塚⇒中家住宅⇒昼食会場⇒安堵町歴史民族資料館⇒極楽寺⇒飽波神社⇒天理軽便鉄道跡⇒善照寺⇒役場
ガイドさんは「安堵町観光ボランティアガイドの会」の大西会長さんと2名の副会長さんとのこと。歩く・なら(県のサイト)によると、この会は
■ガイド団体紹介
安堵町は、世界文化遺産法隆寺の東部に隣接し、聖徳太子ゆかりの地で「太子道」が通っています。また安堵町の歴史や伝統、民俗資料を展示・伝承する「安堵町歴史民俗資料館」、近代陶芸の父、富本憲吉の作品を展示した「富本憲吉記念館」、国指定重要文化財の環濠屋敷「中家住宅」など随所に文化や歴史的スポットがあります。現在ガイドコースとして8コースを設定し、古の歴史と文化の香る安堵町をご案内いたします。
■連絡先(ガイド申し込み先)
安堵町 商工会 〒639-1061 奈良県生駒郡安堵町東安堵958
電話:0743-57-1524 FAX::0743-57-1526 E-mail anbokai@hotmail.co.jp
ホームページアドレス(ブログ) http://anbokai.cocolog-nifty.com/
■安堵町の観光に関するお問い合せ
安堵町役場 産業建設課 電話:0743-57-1519
上記ブログ(安堵町観光ボランティアガイドの会)は、とても良くできている。分かりやすくて正確で、写真もきれいなのだ。ぜひリンク先をクリックしていただきたい。

中窪田の杵築神社

大西会長の説明に耳を傾ける、薬師寺の大谷徹奘さん
12月25日は、午前9時半に役場に集合。西本安博町長に挨拶させていただいた後、まずは車で中窪田の「杵築(きずき)神社」(窪田426)を訪ねた。ここには、深楽寺(廃寺)のものだったといわれる石塔(七重になった十三重石塔)がある。塔身には、薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒が雄大な梵字で彫られている。

うっかり石塔の写真を撮り忘れたので「奈良の寺社」から拝借
ここから徒歩で「馬場塚」(窪田字垣内)へ向かった。ここに小さな五輪塔がある。銘文によると、武田家の家臣・馬場美濃守信房の供養塔だ。美濃守の子が建てたといわれ、周辺には「馬場」姓の家が何軒かあるそうだ。


ここから車で、午前の部のメイン訪問先である「中家住宅」に向かった。安堵観光ボランティアの会のブログによると、

中家住宅(なかけじゅうたく) 住所:安堵町窪田133番地
・中氏の祖先(窪田氏):中氏はもと足立氏と称し、現三重県鈴鹿市の土豪と伝えられ南北朝時代に足利尊氏に従って大和に入り窪田の姓を名乗ってこの地に居館を定めました。暦応2年(1339年)12月に岡崎庄・笠目庄・窪田庄を室町幕府より拝領し、窪田対馬守康秀を名乗ったと伝えられています。のち明徳2年(1391年)に中氏と改めました。(この窪田氏が、中氏・石田氏の祖先です。)


・中家住宅:中家住宅は、上窪田の環濠屋敷を形成しています。環濠屋敷とは、大和に多い環濠集落(垣内式集落ともいわれている)の一種で、防備、水利、排水、などの目的により鎌倉時代の終わり頃に発生した集落の形式のことで中家は総面積3,500坪の広大な屋敷構えを持ち、二重の濠に囲まれた、平城形式を取り入れた武家造りと農家造りを兼ねた中世環濠屋敷の姿を良く留めています。

昭和43年4月25日に主家・新屋敷・表門が重要文化財に、昭和46年4月28日に新蔵・米蔵・乾蔵が追加され、さらに昭和53年5月31日に米蔵及び牛小屋・持仏堂・持仏堂庫裏と、宅地・山林及び溜池(濠)が指定されました。



すぐ上の写真は、天正期と安永期の梅干である。京都でもこのような古い梅干を見たことがあり「なぜ、こんな古い梅干を残しておくのだろう」と疑問だったが、ものの本によると、これらは塩を保存しておくために漬けられたものらしい。昔の塩には塩化マグネシウム(にがり)が含まれていたので、時間が経つと溶け出す。それを防ぐために梅干として塩分を保存した。つまりは「梅塩」が目的だったのだ。それにしても環濠集落はよく見るが、環濠屋敷とは珍しい。こんなすごいお屋敷を維持されるのは、大変なことだろう。

移動式のかまど

お家の中にお寺(お堂)があった!

さて、ここでランチタイムとなった。中家住宅から徒歩で「樸木(あらき)」(窪田的場190-1)に向かう。畑のまん中にぽつんと建つ山小屋風のお店である。「奈良に住んでみました」によると、


生駒郡安堵町にある、自家製天然酵母パンとケーキがいただけるお店『樸木(あらき)』さんへお邪魔しました。自家製野菜やオーガニック食材にこだわったヘルシーメニューで、建物や内装、2階で販売している雑貨類などすべてが素敵です!かなり分かりづらい場所にありますが、オープンから17年目になる、地元で愛されるお店でした。

スープの器がいろいろと変わっていて、面白い

安堵中学校から300mほどの位置にあるんですが、ちょっと大きめの通りからも外れているため、かなり分かりづらいです。古くて道の細い集落の近くですので、お車の方はお気をつけください。さらに、樸木さんの営業日は「水木金土、第1日曜」と変則的です。こんな場所で、こんな少ない営業日で大丈夫なのか…と余計な心配をしたくなるところですが、お店の方に伺ったところ、もう17年も営業なさっているのだとか!愛されてますね!

建物の前にはパン焼き用の窯が。薪ストーブの煙突が伸びていたり(よく見るとトカゲが張り付いてます)、可愛らしい窓があったり、かなり凝ってます。冬なのでお庭はさっぱりして見えますが、春になればまた様子が一変するんでしょうね

店内に入ってすぐ、テーブルに販売用のパンが並んでいます。店内でいただくカフェメニューもありますし、パンを買って帰ることもできます。その右手には、テーブル席と薪ストーブが。冬はストーブの近くに座っていると幸せですね。さらに奥には小上がりのような席も。本棚には絵本がずらりと並んでいます。

これがコーヒーカップだ
ランチタイムにはお肉を使わず、季節の野菜をたっぷり使ったピザやサンドイッチなどもいただけます。すべてミニケーキとドリンク付きで、「季節の野菜と天然酵母ピザセット(@1,050円)」「ブルーチーズの天然酵母ピザセット(@1,207円)」「クロックムッシュセット(@1,207円)」「くるまふのフライサンドイッチセット(@1,050円)」など。

私たちがいただいたのは、「季節の野菜と天然酵母ピザセット」(ケーキ・ドリンク付き)である。ふんわり・もっちり、ボリュームも満点のピザが出てきた。これはうまい! 外は寒かったが、心の中からぽかぽかと温まった。さて車で午後一番に訪ねたのは、「安堵町歴史民俗資料館」。県のHP(歩く・なら)によると、

安堵町歴史民俗資料館の茶室で、お抹茶と茶菓子をいただいた

この歴史民俗資料館は、平成3年(1991年)今村家より土地・建物・資料を町に寄贈されたものを安堵町が修復、改装の整備を行い、平成5年10月安堵町の歴史や伝統、民俗関係資料を展示・伝承する場、安堵町歴史民俗資料館として一般公開しています。

主な展示物は
1.安堵町関係古文書資料2.安堵町伝統産業「灯心」関係資料
3.江戸時代中期からの安堵町域の民俗資料4.維新の魁 天誅組関係資料
等となっています。

お茶の後は、「灯芯引き体験」。以前、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の西川誠さんが「なら再発見」(産経新聞)で紹介されていたものだ。

灯芯引きの模範演技
灯芯と聞いても若い人にはピンとこないだろう。電灯が普及する以前の生活には、照明具として身近な日用品だった行燈(あんどん)。中の灯明皿(とうみょうざら)に油を入れ、そこに挿したヒモの先に火が灯っているのを時代劇などでごらんになったことがあるだろう。そのヒモが灯芯だ。和ロウソクの芯にも使われる。

灯芯の原料はイグサ(藺草)。イグサといえば畳表の材料だが、灯芯用には少し太い品種をつかう。茎の髄(ずい)を取り出したものが灯芯になる。
この作業を見学したとき「やってみますか」と声がかかり、チャレンジした。簡単そうに見えたが、力加減やスピード、刃の当て方が難しく、皆さんは1メートル近い灯心を次々と引くが、私は10~15センチでブツブツ切れ、不良品の山を築いてしまった


後藤舜一さん(「奈良観光研究所」世話人)。とてもお上手だ
私も用心してチャレンジしたが、これは難しい。途中でギブアップして、皆さんの真剣な姿を撮る側に回ることにした。次に訪ねたのは「極楽寺」(東安堵1453)だ。お寺のHPによると、
真言宗 紫雲山 極楽寺は第三十一代用明天皇の時代、用命二年(五八七年)今から約一四〇〇年前に聖徳太子により建立されました四六ヶ所の内の寺の一つと伝えられています。その当時はこのお寺の名前を常楽寺と申しまして、ここ安堵の守り神の牛頭天王社(飽波神社)と、共に聖徳太子により建てられました。沢山のお堂や伽藍を備えた大きな寺で聖徳太子の本願成就や牛頭天王と仏法の守りを祈願したと伝えられています。
しかしながらこの栄えた勢いも聖徳太子が亡くなられた後はしだいに衰え、わずかに檀家の人々が見守ってきました。聖徳太子亡き後のこのお寺、常楽寺は平安時代の中ごろにはお堂が新しく建った別のお寺に使われたり場所を移されたりしてお堂の基礎の部分だけが残されて半ば言い伝えのお寺となりつつありました。
この事を嘆いてこの寺の再建に努力したと伝えられるのが、恵心僧都という偉い僧侶でございます。寛弘三年(千六年)第六十六代一条天皇の御世に常楽寺を再興するようにと夢のお告げにしたがって諸々のお堂の再建の願いを立て、再建の詔を天皇より授かってようやく出来上がったのであります。恵心僧都はこれは阿弥陀様のお蔭によるものであると信じ、この時よりお寺の名前を紫雲山 極楽寺と改めたと伝えられています。

広島大仏
このお寺を有名にしたのが「広島大仏」である。町のHP「広島大仏について」によると、
安堵町の極楽寺にある高さ約4メートルの阿弥陀如来座像が、戦後、広島市で原爆犠牲者を弔うために原爆ドーム近くの寺に安置され、その後、行方がわからなくなった「広島大仏」とみられることがわかりました。安堵町を終の住み処にされた仏様は、まさに安堵されているご様子でした。将来にわたり、安堵町が平和で発展し続けるよう、静かに見守って下さることでしょう。
昨夏(2013年)も、ここで平和を祈る式典が開かれた。産経新聞《奈良・極楽寺の「広島大仏」 原爆忌まえに平和祈る式典》(13.8.6)によると、
広島市の原爆ドーム近くの寺にあった「広島大仏」を安置する極楽寺(奈良県安堵町)で、平和を祈る式典が開かれ、約150人が参列した。広島大仏は原爆犠牲者を弔うため、昭和24年に原爆ドーム近くの寺に安置された。その後、行方不明となったが、平成23年6月、極楽寺に安置されていたことが判明した。高さ約4メートルの木製で、全身に金箔(きんぱく)が施されている。
式典では、広島大仏の前で僧侶らが原爆犠牲者をしのび、厳かに読経。参列者は焼香して静かに手を合わせ、冥福を祈った。参列した同町の主婦、中本寿美さん(63)は「毎日の平和や健康に感謝し、これからも続くようにと手を合わせました。大仏を通して平和の祈りが届いてほしい」と話していた。同寺の田中全義住職は、6日の広島平和記念式典に初めて参列する。田中住職は「平和を願って手を合わせてくださった参列者の皆さんの思いを、広島の地に届けたい」と話した。
「富本憲吉文化資料館」は、休館中なので、前を素通りした。富本憲吉とは、どんな人なのか。県のHP(歩く・なら)によると、
富本憲吉は、古典的な日本美をすばらしい近代感覚でとらえなおし、気品ある模様と器形の追求をすることで、伝統に立脚しながらも技術偏重に泥(なず)むことなく、たえず新鮮な感覚で<芸術>としての陶芸をおしすすめた、近代陶芸の父と言われています。昭和30年 第1号人間国宝(色絵磁器の技術保持者=重要無形文化財)を受賞(浜田庄司、荒川豊蔵、石黒宗麿の4人…「日本工芸会」発足)。昭和36年には文化勲章を受章。
閉館中の富本憲吉文化資料館は、来月末日で完全閉館するそうだ。奈良新聞(1/5付)「来月閉館の資料館 陶磁器をオークションに 安堵町 散逸惜しみ4点購入」からピックアップすると、
平成24年5月末に閉館した富本憲吉記念館(安堵町東安堵、現・富本憲吉文化資料館)が、所有していた富本憲吉の陶磁器作品約160点をオークションに出品し売却していたことが、4日までに分かった。町出身の偉人の作品が町内から失われたことを惜しみ、安堵町は独自に作品を取得し、6日から役場に展示する。
同記念館は、富本と親交のあった同町の実業家、辻本勇さん(故人)が昭和49年に開館。私財を投じて富本の生家を改修し、コレクションを展示してきたが、6年前に辻本さんが亡くなり、遺族が閉館を決めた。
同館にあった関係資料約660点は平成25年3月、富本とゆかりの深い京都市立芸術大学に寄付。陶磁器作品も同年9月にオークションに出品され、全国に散逸したという。
また、25年3月から週2日限定で開館していた文化資料館は今年2月28日に閉館予定で、富本憲吉ファンに親しまれてきた同館は完全に姿を消すこととなる。

さて、引き続き徒歩で「飽波(あくなみ)神社」に向かった。県のHP(歩く・なら)によると、

古くから伝わる「なもで踊り」(雨乞いの踊り)を描いた絵馬
飽波神社は安堵総社とよばれ、約600年ごろ建立されました(『続日本紀』(しょくにほんき)にも記載されています)。聖徳太子が芦垣宮(あしがきみや)に滞在中、夢で東方に5色の雲がたなびき、霊剣が現れるのを見、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が牛頭天王となって顕現したと思い、飽波宮に牛頭天王のほこら祠を作ったのが始まりだと伝えられています(『安堵社神験記』)。こういったことから、飽波宮が飽波神社でないかという説があります。

さて、次に車で訪ねたのは「天理軽便鉄道跡」である。天理軽便鉄道とは《生駒郡法隆寺村興留(国鉄法隆寺駅前)から山辺郡丹波市町川原城(天理市)を結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。天理教信者の旅客輸送を目的として建設されたが大阪電気軌道の路線延長に伴い買収され、現在路線の一部は、近畿日本鉄道天理線となっている》(Wikipedia)。


安堵町の木戸池には池を2つに割る道路があり、途中にレンガ組みの開口部が見える。JR関西線の車窓からは、富雄川のすぐ東南にあるこの池を見ることもできるのだ。さて、次は車で善照寺へ。県のHP(歩く・なら)によると、

善照寺は、応仁元年(1467年)の開山。真宗の念仏道場として始まり、享保二十年(1735年)に今の寺号を下賜されました。浄土真宗本願寺派。明治六年には、この境内に「明倫館」という小学校が創設されていましたが、今はその面影はありません。また、境内には、福井県から水路で運ばれてきたといわれる、樹齢およそ250年の根上りの松が佇んでいます。県内でも類を見ない黒松で、「冨生の松」と名付けられています。

最後に広峰神社を遠望しながら、帰路についた。それにしても、充実したツアーだった。安堵町は県の「歩く・なら」のコースに選ばれているが、観光でこの町を訪ねる人は少ないだろう。斑鳩町と大和郡山市に挟まれているので、どうしてもそちらに目が行ってしまうのだ。
しかし、こうして巡ってみると、とても楽しいし、何より安堵観光ボランティアの会の皆さんの説明がいい。詳しくて分かりやすいだけでなく、地元愛にあふれている。まもなく、大和郡山市と安堵町の境に、西名阪の「大和まほろばスマートインターチェンジ」が完成する(名古屋行きはすでに完成)。これが観光振興の1つの契機になれば、と祈っている。
ぜひまた機会をとらえて、団体で安堵町を訪ねたいと思う。その際には安堵観光ボランティアの会の皆さんに、ぜひご協力をお願いしたいと思う。
今回のモニターツアーでは、西本町長様はじめ町役場の皆様、安堵観光ボランティアの会の会長様・副会長様に、大変お世話をおかけいたしました。これから私も、大いに安堵町をPRしてまいります。そして、またこの歴史ある町を巡らせていただきます!
※トップ写真は、中家住宅(国の重要文化財)
同会の定例会議が昨年(2013年)12月5日(木)に開催され、そこで「次は安堵町を訪ねよう」ということになった。安堵町には素晴らしい歴史・観光スポットがあるが、案外知られていない。観光ルートとしてPRできそうなコースを下見(視察)し、これを売り出そうではないか、という趣旨で、つまりは「モニターツアー」である。幹事さんからいただいたメールによると、
日 時 平成25年12月25日(水)9時30分~15時15分
集合場所 安堵町役場 入口
行 程 表 役場⇒杵築神社⇒馬場塚⇒中家住宅⇒昼食会場⇒安堵町歴史民族資料館⇒極楽寺⇒飽波神社⇒天理軽便鉄道跡⇒善照寺⇒役場
ガイドさんは「安堵町観光ボランティアガイドの会」の大西会長さんと2名の副会長さんとのこと。歩く・なら(県のサイト)によると、この会は
■ガイド団体紹介
安堵町は、世界文化遺産法隆寺の東部に隣接し、聖徳太子ゆかりの地で「太子道」が通っています。また安堵町の歴史や伝統、民俗資料を展示・伝承する「安堵町歴史民俗資料館」、近代陶芸の父、富本憲吉の作品を展示した「富本憲吉記念館」、国指定重要文化財の環濠屋敷「中家住宅」など随所に文化や歴史的スポットがあります。現在ガイドコースとして8コースを設定し、古の歴史と文化の香る安堵町をご案内いたします。
■連絡先(ガイド申し込み先)
安堵町 商工会 〒639-1061 奈良県生駒郡安堵町東安堵958
電話:0743-57-1524 FAX::0743-57-1526 E-mail anbokai@hotmail.co.jp
ホームページアドレス(ブログ) http://anbokai.cocolog-nifty.com/
■安堵町の観光に関するお問い合せ
安堵町役場 産業建設課 電話:0743-57-1519
上記ブログ(安堵町観光ボランティアガイドの会)は、とても良くできている。分かりやすくて正確で、写真もきれいなのだ。ぜひリンク先をクリックしていただきたい。

中窪田の杵築神社

大西会長の説明に耳を傾ける、薬師寺の大谷徹奘さん
12月25日は、午前9時半に役場に集合。西本安博町長に挨拶させていただいた後、まずは車で中窪田の「杵築(きずき)神社」(窪田426)を訪ねた。ここには、深楽寺(廃寺)のものだったといわれる石塔(七重になった十三重石塔)がある。塔身には、薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒が雄大な梵字で彫られている。

うっかり石塔の写真を撮り忘れたので「奈良の寺社」から拝借
ここから徒歩で「馬場塚」(窪田字垣内)へ向かった。ここに小さな五輪塔がある。銘文によると、武田家の家臣・馬場美濃守信房の供養塔だ。美濃守の子が建てたといわれ、周辺には「馬場」姓の家が何軒かあるそうだ。


ここから車で、午前の部のメイン訪問先である「中家住宅」に向かった。安堵観光ボランティアの会のブログによると、

中家住宅(なかけじゅうたく) 住所:安堵町窪田133番地
・中氏の祖先(窪田氏):中氏はもと足立氏と称し、現三重県鈴鹿市の土豪と伝えられ南北朝時代に足利尊氏に従って大和に入り窪田の姓を名乗ってこの地に居館を定めました。暦応2年(1339年)12月に岡崎庄・笠目庄・窪田庄を室町幕府より拝領し、窪田対馬守康秀を名乗ったと伝えられています。のち明徳2年(1391年)に中氏と改めました。(この窪田氏が、中氏・石田氏の祖先です。)


・中家住宅:中家住宅は、上窪田の環濠屋敷を形成しています。環濠屋敷とは、大和に多い環濠集落(垣内式集落ともいわれている)の一種で、防備、水利、排水、などの目的により鎌倉時代の終わり頃に発生した集落の形式のことで中家は総面積3,500坪の広大な屋敷構えを持ち、二重の濠に囲まれた、平城形式を取り入れた武家造りと農家造りを兼ねた中世環濠屋敷の姿を良く留めています。

昭和43年4月25日に主家・新屋敷・表門が重要文化財に、昭和46年4月28日に新蔵・米蔵・乾蔵が追加され、さらに昭和53年5月31日に米蔵及び牛小屋・持仏堂・持仏堂庫裏と、宅地・山林及び溜池(濠)が指定されました。



すぐ上の写真は、天正期と安永期の梅干である。京都でもこのような古い梅干を見たことがあり「なぜ、こんな古い梅干を残しておくのだろう」と疑問だったが、ものの本によると、これらは塩を保存しておくために漬けられたものらしい。昔の塩には塩化マグネシウム(にがり)が含まれていたので、時間が経つと溶け出す。それを防ぐために梅干として塩分を保存した。つまりは「梅塩」が目的だったのだ。それにしても環濠集落はよく見るが、環濠屋敷とは珍しい。こんなすごいお屋敷を維持されるのは、大変なことだろう。

移動式のかまど

お家の中にお寺(お堂)があった!

さて、ここでランチタイムとなった。中家住宅から徒歩で「樸木(あらき)」(窪田的場190-1)に向かう。畑のまん中にぽつんと建つ山小屋風のお店である。「奈良に住んでみました」によると、


生駒郡安堵町にある、自家製天然酵母パンとケーキがいただけるお店『樸木(あらき)』さんへお邪魔しました。自家製野菜やオーガニック食材にこだわったヘルシーメニューで、建物や内装、2階で販売している雑貨類などすべてが素敵です!かなり分かりづらい場所にありますが、オープンから17年目になる、地元で愛されるお店でした。

スープの器がいろいろと変わっていて、面白い

安堵中学校から300mほどの位置にあるんですが、ちょっと大きめの通りからも外れているため、かなり分かりづらいです。古くて道の細い集落の近くですので、お車の方はお気をつけください。さらに、樸木さんの営業日は「水木金土、第1日曜」と変則的です。こんな場所で、こんな少ない営業日で大丈夫なのか…と余計な心配をしたくなるところですが、お店の方に伺ったところ、もう17年も営業なさっているのだとか!愛されてますね!

建物の前にはパン焼き用の窯が。薪ストーブの煙突が伸びていたり(よく見るとトカゲが張り付いてます)、可愛らしい窓があったり、かなり凝ってます。冬なのでお庭はさっぱりして見えますが、春になればまた様子が一変するんでしょうね

店内に入ってすぐ、テーブルに販売用のパンが並んでいます。店内でいただくカフェメニューもありますし、パンを買って帰ることもできます。その右手には、テーブル席と薪ストーブが。冬はストーブの近くに座っていると幸せですね。さらに奥には小上がりのような席も。本棚には絵本がずらりと並んでいます。

これがコーヒーカップだ
ランチタイムにはお肉を使わず、季節の野菜をたっぷり使ったピザやサンドイッチなどもいただけます。すべてミニケーキとドリンク付きで、「季節の野菜と天然酵母ピザセット(@1,050円)」「ブルーチーズの天然酵母ピザセット(@1,207円)」「クロックムッシュセット(@1,207円)」「くるまふのフライサンドイッチセット(@1,050円)」など。

私たちがいただいたのは、「季節の野菜と天然酵母ピザセット」(ケーキ・ドリンク付き)である。ふんわり・もっちり、ボリュームも満点のピザが出てきた。これはうまい! 外は寒かったが、心の中からぽかぽかと温まった。さて車で午後一番に訪ねたのは、「安堵町歴史民俗資料館」。県のHP(歩く・なら)によると、

安堵町歴史民俗資料館の茶室で、お抹茶と茶菓子をいただいた

この歴史民俗資料館は、平成3年(1991年)今村家より土地・建物・資料を町に寄贈されたものを安堵町が修復、改装の整備を行い、平成5年10月安堵町の歴史や伝統、民俗関係資料を展示・伝承する場、安堵町歴史民俗資料館として一般公開しています。

主な展示物は
1.安堵町関係古文書資料2.安堵町伝統産業「灯心」関係資料
3.江戸時代中期からの安堵町域の民俗資料4.維新の魁 天誅組関係資料
等となっています。

お茶の後は、「灯芯引き体験」。以前、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の西川誠さんが「なら再発見」(産経新聞)で紹介されていたものだ。

灯芯引きの模範演技
灯芯と聞いても若い人にはピンとこないだろう。電灯が普及する以前の生活には、照明具として身近な日用品だった行燈(あんどん)。中の灯明皿(とうみょうざら)に油を入れ、そこに挿したヒモの先に火が灯っているのを時代劇などでごらんになったことがあるだろう。そのヒモが灯芯だ。和ロウソクの芯にも使われる。

灯芯の原料はイグサ(藺草)。イグサといえば畳表の材料だが、灯芯用には少し太い品種をつかう。茎の髄(ずい)を取り出したものが灯芯になる。
この作業を見学したとき「やってみますか」と声がかかり、チャレンジした。簡単そうに見えたが、力加減やスピード、刃の当て方が難しく、皆さんは1メートル近い灯心を次々と引くが、私は10~15センチでブツブツ切れ、不良品の山を築いてしまった


後藤舜一さん(「奈良観光研究所」世話人)。とてもお上手だ
私も用心してチャレンジしたが、これは難しい。途中でギブアップして、皆さんの真剣な姿を撮る側に回ることにした。次に訪ねたのは「極楽寺」(東安堵1453)だ。お寺のHPによると、
真言宗 紫雲山 極楽寺は第三十一代用明天皇の時代、用命二年(五八七年)今から約一四〇〇年前に聖徳太子により建立されました四六ヶ所の内の寺の一つと伝えられています。その当時はこのお寺の名前を常楽寺と申しまして、ここ安堵の守り神の牛頭天王社(飽波神社)と、共に聖徳太子により建てられました。沢山のお堂や伽藍を備えた大きな寺で聖徳太子の本願成就や牛頭天王と仏法の守りを祈願したと伝えられています。
しかしながらこの栄えた勢いも聖徳太子が亡くなられた後はしだいに衰え、わずかに檀家の人々が見守ってきました。聖徳太子亡き後のこのお寺、常楽寺は平安時代の中ごろにはお堂が新しく建った別のお寺に使われたり場所を移されたりしてお堂の基礎の部分だけが残されて半ば言い伝えのお寺となりつつありました。
この事を嘆いてこの寺の再建に努力したと伝えられるのが、恵心僧都という偉い僧侶でございます。寛弘三年(千六年)第六十六代一条天皇の御世に常楽寺を再興するようにと夢のお告げにしたがって諸々のお堂の再建の願いを立て、再建の詔を天皇より授かってようやく出来上がったのであります。恵心僧都はこれは阿弥陀様のお蔭によるものであると信じ、この時よりお寺の名前を紫雲山 極楽寺と改めたと伝えられています。

広島大仏
このお寺を有名にしたのが「広島大仏」である。町のHP「広島大仏について」によると、
安堵町の極楽寺にある高さ約4メートルの阿弥陀如来座像が、戦後、広島市で原爆犠牲者を弔うために原爆ドーム近くの寺に安置され、その後、行方がわからなくなった「広島大仏」とみられることがわかりました。安堵町を終の住み処にされた仏様は、まさに安堵されているご様子でした。将来にわたり、安堵町が平和で発展し続けるよう、静かに見守って下さることでしょう。
昨夏(2013年)も、ここで平和を祈る式典が開かれた。産経新聞《奈良・極楽寺の「広島大仏」 原爆忌まえに平和祈る式典》(13.8.6)によると、
広島市の原爆ドーム近くの寺にあった「広島大仏」を安置する極楽寺(奈良県安堵町)で、平和を祈る式典が開かれ、約150人が参列した。広島大仏は原爆犠牲者を弔うため、昭和24年に原爆ドーム近くの寺に安置された。その後、行方不明となったが、平成23年6月、極楽寺に安置されていたことが判明した。高さ約4メートルの木製で、全身に金箔(きんぱく)が施されている。
式典では、広島大仏の前で僧侶らが原爆犠牲者をしのび、厳かに読経。参列者は焼香して静かに手を合わせ、冥福を祈った。参列した同町の主婦、中本寿美さん(63)は「毎日の平和や健康に感謝し、これからも続くようにと手を合わせました。大仏を通して平和の祈りが届いてほしい」と話していた。同寺の田中全義住職は、6日の広島平和記念式典に初めて参列する。田中住職は「平和を願って手を合わせてくださった参列者の皆さんの思いを、広島の地に届けたい」と話した。
「富本憲吉文化資料館」は、休館中なので、前を素通りした。富本憲吉とは、どんな人なのか。県のHP(歩く・なら)によると、
富本憲吉は、古典的な日本美をすばらしい近代感覚でとらえなおし、気品ある模様と器形の追求をすることで、伝統に立脚しながらも技術偏重に泥(なず)むことなく、たえず新鮮な感覚で<芸術>としての陶芸をおしすすめた、近代陶芸の父と言われています。昭和30年 第1号人間国宝(色絵磁器の技術保持者=重要無形文化財)を受賞(浜田庄司、荒川豊蔵、石黒宗麿の4人…「日本工芸会」発足)。昭和36年には文化勲章を受章。
閉館中の富本憲吉文化資料館は、来月末日で完全閉館するそうだ。奈良新聞(1/5付)「来月閉館の資料館 陶磁器をオークションに 安堵町 散逸惜しみ4点購入」からピックアップすると、
平成24年5月末に閉館した富本憲吉記念館(安堵町東安堵、現・富本憲吉文化資料館)が、所有していた富本憲吉の陶磁器作品約160点をオークションに出品し売却していたことが、4日までに分かった。町出身の偉人の作品が町内から失われたことを惜しみ、安堵町は独自に作品を取得し、6日から役場に展示する。
同記念館は、富本と親交のあった同町の実業家、辻本勇さん(故人)が昭和49年に開館。私財を投じて富本の生家を改修し、コレクションを展示してきたが、6年前に辻本さんが亡くなり、遺族が閉館を決めた。
同館にあった関係資料約660点は平成25年3月、富本とゆかりの深い京都市立芸術大学に寄付。陶磁器作品も同年9月にオークションに出品され、全国に散逸したという。
また、25年3月から週2日限定で開館していた文化資料館は今年2月28日に閉館予定で、富本憲吉ファンに親しまれてきた同館は完全に姿を消すこととなる。

さて、引き続き徒歩で「飽波(あくなみ)神社」に向かった。県のHP(歩く・なら)によると、

古くから伝わる「なもで踊り」(雨乞いの踊り)を描いた絵馬
飽波神社は安堵総社とよばれ、約600年ごろ建立されました(『続日本紀』(しょくにほんき)にも記載されています)。聖徳太子が芦垣宮(あしがきみや)に滞在中、夢で東方に5色の雲がたなびき、霊剣が現れるのを見、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が牛頭天王となって顕現したと思い、飽波宮に牛頭天王のほこら祠を作ったのが始まりだと伝えられています(『安堵社神験記』)。こういったことから、飽波宮が飽波神社でないかという説があります。

さて、次に車で訪ねたのは「天理軽便鉄道跡」である。天理軽便鉄道とは《生駒郡法隆寺村興留(国鉄法隆寺駅前)から山辺郡丹波市町川原城(天理市)を結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。天理教信者の旅客輸送を目的として建設されたが大阪電気軌道の路線延長に伴い買収され、現在路線の一部は、近畿日本鉄道天理線となっている》(Wikipedia)。


安堵町の木戸池には池を2つに割る道路があり、途中にレンガ組みの開口部が見える。JR関西線の車窓からは、富雄川のすぐ東南にあるこの池を見ることもできるのだ。さて、次は車で善照寺へ。県のHP(歩く・なら)によると、

善照寺は、応仁元年(1467年)の開山。真宗の念仏道場として始まり、享保二十年(1735年)に今の寺号を下賜されました。浄土真宗本願寺派。明治六年には、この境内に「明倫館」という小学校が創設されていましたが、今はその面影はありません。また、境内には、福井県から水路で運ばれてきたといわれる、樹齢およそ250年の根上りの松が佇んでいます。県内でも類を見ない黒松で、「冨生の松」と名付けられています。

最後に広峰神社を遠望しながら、帰路についた。それにしても、充実したツアーだった。安堵町は県の「歩く・なら」のコースに選ばれているが、観光でこの町を訪ねる人は少ないだろう。斑鳩町と大和郡山市に挟まれているので、どうしてもそちらに目が行ってしまうのだ。
しかし、こうして巡ってみると、とても楽しいし、何より安堵観光ボランティアの会の皆さんの説明がいい。詳しくて分かりやすいだけでなく、地元愛にあふれている。まもなく、大和郡山市と安堵町の境に、西名阪の「大和まほろばスマートインターチェンジ」が完成する(名古屋行きはすでに完成)。これが観光振興の1つの契機になれば、と祈っている。
ぜひまた機会をとらえて、団体で安堵町を訪ねたいと思う。その際には安堵観光ボランティアの会の皆さんに、ぜひご協力をお願いしたいと思う。
今回のモニターツアーでは、西本町長様はじめ町役場の皆様、安堵観光ボランティアの会の会長様・副会長様に、大変お世話をおかけいたしました。これから私も、大いに安堵町をPRしてまいります。そして、またこの歴史ある町を巡らせていただきます!