昨日(7/15)の奈良新聞社会面トップに、「原本あった 幕末の漢詩集 寧楽(なら)百首 90年ぶり発見 元春日大社権宮司の岡本さん160年前の古都浮かぶ」という見出しが躍った。岡本彰夫さんが、オークションに出品された骨董品の中から失われていた原本を発見されたのだ。
記事全文を紹介すると、
※トップ写真は「第3回観光力創造塾」で、同僚のMくんが撮影
幕末に興福寺の僧、二條澹齋(たんさい)が奈良の社寺や風物などをうたった漢詩集「寧楽百首」の原本が、約90年ぶりに見つかった。元・春日大社権宮司で帝塚山大学特任客員教授の岡本彰夫さん(60)が昨年、県内の骨董商で発見。書道の題材などとして知られていたが、大正末に活字本が刊行された後、原本の行方は分かっていなかった。
寧楽百首は嘉永4(1851)年に作成。春日社(春日大社)、興福寺、東大寺をはじめとする社寺や祭礼行事のほか、茶粥(がゆ)や奈良墨、春日野の鹿などの風物も取り上げられ、幕末の奈良の様子を知ることができる。作者の二條澹齋は本名を長乗といい、興福寺で寺内の管理などを担った役僧「三綱(さんこう)」も務めたという。
長く存在が知られなかったが、大正15(1926)年に古書店の古紙の中から見つかり活字本を刊行。近年、書家の故・今井凌雪さんが作品の題材とし訳注本も発刊されたが、原本は再び行方不明となっていた。
岡本さんは昨年夏、インターネットオークションで県内の骨董店が出品した原本を購入。傷みが激しかったため、専門家に修復を依頼し、160年前の姿を取り戻した。岡本さんが出品された古文書を原本と気付くきっかけとなったのは、寧楽百首の序文を書いた奈良奉行の川路聖謨(としあきら)の直筆。日露和親条約で日本側全権を務めたことで有名な川路の特徴のある筆跡から、すぐに分かったという。大正の刊行本に掲載された序文の写真とも見比べ、本物と判断した。
岡本さんは「何度も行方不明になり苦難を乗り越えてきた本。失われる前に見つかってよかった。幕末の奈良の様子を知る資料としても貴重だ」と話している。
▽興味深い作者の肉筆
寧楽百首の訳注本を著した書家で岐阜女子大学名誉教授の中村象谷さんの話
今井凌雪先生は自分の故郷を歌った漢詩に創作意欲を持たれ、作品の題材とされた。これまでは印刷された本しかなく、澹齋の肉筆がどんなものだったのか非常に興味深い。大正時代に刊行された本には活字の誤りが数カ所あり訂正したが、本物ではどうだったのか確かめてみたい。
岡本さんと「ネットオークション」はあまりイメージが結びつかないが、高くアンテナを掲げておられたのだ。奈良奉行の川路聖謨の筆跡から「これは本物」と見抜いたとは、さすがである。実際にどんな漢詩が出ているのかとネットで検索してみると奈良きたまちのサイトがヒットした。全国ブランドの高級麻布「奈良晒(ならざらし)」を詠んだ漢詩が出ている。
「奈良坂や涼しさしるし晒時」(寧楽百首)
古今名高寧楽布(ここんになだかい、ねいらくのぬの)
衆人競依歩炎陽(しゅうじんきそいきて、えんようをあるく)
請看般若寺辺北(こうみよ、はんにゃじあたりのきた)
恰似漫々雪後岡(あたかもにたり、まんまんたるゆきあとのおか)
真夏に白い奈良晒の着物を着た人々を「漫々たる雪あとの丘」に見立てるとは、いかにも涼しげではないか。岡本さんは春日大社をご勇退のとき、ご自身のFacebookに「お騒がせします。2年前から心に決めておりました。何かオモロイ事を致しますので、今後ともよろしくお願いいたします」とお書きだった。発見された原本を使って、「何かオモロイ事」お考えなのだろうか、想像が膨らむ。岡本さん、今後ますますのご活躍を期待しています!
※7/16追記 宝蔵院流槍術高田派宗家の一箭(いちや)順三さんから《50首目に「宝蔵院流槍術」が詠われています》という情報をいただきました。有難うございました。そして全百首はこちらのサイトに出ています。
50 寶藏院槍術(ほうぞういんのそうじゅつ)
四面縦横十字槍(四面に縦横たり 十字の槍)
潜龍深蟄海鴎翔(潜龍のごとく深くかくれ 海鴎のごとくかける)
順逆陰陽退還進(順逆陰陽 退きまた進む)
鉾鋩所向勢難當(ほうぼう向う所 勢い當り難し)
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※トップ写真は「第3回観光力創造塾」で、同僚のMくんが撮影
幕末に興福寺の僧、二條澹齋(たんさい)が奈良の社寺や風物などをうたった漢詩集「寧楽百首」の原本が、約90年ぶりに見つかった。元・春日大社権宮司で帝塚山大学特任客員教授の岡本彰夫さん(60)が昨年、県内の骨董商で発見。書道の題材などとして知られていたが、大正末に活字本が刊行された後、原本の行方は分かっていなかった。
寧楽百首は嘉永4(1851)年に作成。春日社(春日大社)、興福寺、東大寺をはじめとする社寺や祭礼行事のほか、茶粥(がゆ)や奈良墨、春日野の鹿などの風物も取り上げられ、幕末の奈良の様子を知ることができる。作者の二條澹齋は本名を長乗といい、興福寺で寺内の管理などを担った役僧「三綱(さんこう)」も務めたという。
長く存在が知られなかったが、大正15(1926)年に古書店の古紙の中から見つかり活字本を刊行。近年、書家の故・今井凌雪さんが作品の題材とし訳注本も発刊されたが、原本は再び行方不明となっていた。
岡本さんは昨年夏、インターネットオークションで県内の骨董店が出品した原本を購入。傷みが激しかったため、専門家に修復を依頼し、160年前の姿を取り戻した。岡本さんが出品された古文書を原本と気付くきっかけとなったのは、寧楽百首の序文を書いた奈良奉行の川路聖謨(としあきら)の直筆。日露和親条約で日本側全権を務めたことで有名な川路の特徴のある筆跡から、すぐに分かったという。大正の刊行本に掲載された序文の写真とも見比べ、本物と判断した。
岡本さんは「何度も行方不明になり苦難を乗り越えてきた本。失われる前に見つかってよかった。幕末の奈良の様子を知る資料としても貴重だ」と話している。
▽興味深い作者の肉筆
寧楽百首の訳注本を著した書家で岐阜女子大学名誉教授の中村象谷さんの話
今井凌雪先生は自分の故郷を歌った漢詩に創作意欲を持たれ、作品の題材とされた。これまでは印刷された本しかなく、澹齋の肉筆がどんなものだったのか非常に興味深い。大正時代に刊行された本には活字の誤りが数カ所あり訂正したが、本物ではどうだったのか確かめてみたい。
岡本さんと「ネットオークション」はあまりイメージが結びつかないが、高くアンテナを掲げておられたのだ。奈良奉行の川路聖謨の筆跡から「これは本物」と見抜いたとは、さすがである。実際にどんな漢詩が出ているのかとネットで検索してみると奈良きたまちのサイトがヒットした。全国ブランドの高級麻布「奈良晒(ならざらし)」を詠んだ漢詩が出ている。
「奈良坂や涼しさしるし晒時」(寧楽百首)
古今名高寧楽布(ここんになだかい、ねいらくのぬの)
衆人競依歩炎陽(しゅうじんきそいきて、えんようをあるく)
請看般若寺辺北(こうみよ、はんにゃじあたりのきた)
恰似漫々雪後岡(あたかもにたり、まんまんたるゆきあとのおか)
真夏に白い奈良晒の着物を着た人々を「漫々たる雪あとの丘」に見立てるとは、いかにも涼しげではないか。岡本さんは春日大社をご勇退のとき、ご自身のFacebookに「お騒がせします。2年前から心に決めておりました。何かオモロイ事を致しますので、今後ともよろしくお願いいたします」とお書きだった。発見された原本を使って、「何かオモロイ事」お考えなのだろうか、想像が膨らむ。岡本さん、今後ますますのご活躍を期待しています!
※7/16追記 宝蔵院流槍術高田派宗家の一箭(いちや)順三さんから《50首目に「宝蔵院流槍術」が詠われています》という情報をいただきました。有難うございました。そして全百首はこちらのサイトに出ています。
50 寶藏院槍術(ほうぞういんのそうじゅつ)
四面縦横十字槍(四面に縦横たり 十字の槍)
潜龍深蟄海鴎翔(潜龍のごとく深くかくれ 海鴎のごとくかける)
順逆陰陽退還進(順逆陰陽 退きまた進む)
鉾鋩所向勢難當(ほうぼう向う所 勢い當り難し)