tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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三日地蔵 in 奈良市丹生町(柳生地区)

2016年04月11日 | 奈良にこだわる
こんなスゴい民俗行事が丹生町(奈良市の柳生地区)に残っているのだそうだ。3日ごとにお地蔵さんを集落の家々に回すのだそうだ。金(かね)やんこと金田充史さんのFacebookで知った。朝日新聞奈良版(4/10付)に掲載されているのだ。この丹生町、柳生観光協会のHPによると、
※これら3枚の写真はブログ「マネジャーの休日余暇」から拝借

柳生氏とともに春日社の荘官を勤める「国民」であった「丹生氏」がいた土地です。町内には2つの古城跡があります。また、丹生神社の本殿は国の重要文化財となっています。丹生町には寺はなく、明治十九年に全村が改宗して、多くの寺を廃しましたが、「三日地蔵」として、地蔵尊が三日ごとに各戸持ち送りで順にまつられる風習が残っています。



とあり、神仏分離(廃仏毀釈)が契機であったことを匂わせる。私は以前「奈良は民俗行事の宝庫」と書いたことがあるが、まさにその通りの行事である。金田さんのFacebookによると、

噂では、聞いた事が有るんだけど、実際には、見たことも、直接聞いた事も無い。また、言いふらすものでは、絶対にないので、まず、広まる事は無い。特定エリアの、特定の家のみで、静々と行われている、民俗的な風習である。

3日おきに、お地蔵様を、家から家に回して、その家々で、お祀りするのだが、その家も、特定のエリアの、特定の家だけだ。山間部の、今では、ダムも出来て、道路も出来上がって、交通の便も、良くなった所だが、しかしながら、かつては、山村の一角だったと、推定される。

よくぞ、この朝日新聞の、古澤記者さん。ここまで、調査されたのは、すばらしい。私みたいな、下世話な、観光産業系に従事している立場として見ても、これが、観光資源であるとは、絶対に思えないし、また、観光資源化させるべきでは無い、と、考えるが、奈良市内に住んでいれば、こういう風習が有る事を、全く知らない方も多い。

奈良を知るって事は、こういう、住んでいる方々の風習を知る事も、大切な事であるって事を、再確認した記事だと感じた。




新聞には出ていないが、お地蔵さんにはお茶やご飯をお供えするのだそうだ。
ブログ「マネジャーの休日余暇」によると、

基本は三日だというがそれぞれの家の事情で一日だったりすることもある。受け入れてからの日々は湯飲みにお茶と高坏にご飯を供える。ご飯はダイコンメシと決まっている。ダイコンやったら地蔵さんが喜びはるからそうしているという。三度、三度に供えるわけではなく、当家の食事にまかなうご飯を炊いたときになる。家族構成の関係で一日一回もあれば二日に一回のときもあるがお茶は三度、三度と決まっている。

家の食事で作ったおかず料理も供える場合がある。アゲ、シイタケ、高野豆腐、コンニャク、豆などをその時に炊いたんものやと話す。魚や肉を使わない煮浸しであって、いわゆる精進料理。ちなみにダイコンメシの作り方はといえば、千切りしたダイコンを水からお米と一緒に炊くのである。千切りはナマスと同じ切り方だ。その際、味付けにというて塩を一つかみいれておくそうで、味はまさしくシオメシ。また、お汁を作ることもある。それはやはりダイコンであってみそ汁になるらしい。

お産の神さんが回ってくるという三日地蔵の風習。子安地蔵とも呼ばれる地蔵さんは「お産に失敗した人が丹生にはいーひんで。嫁に行った子も手を合わせたらお産をしくじったことがない。」と話される。どっしりとした厨子に納められた地蔵は二体だそうだ。引き出しには簪(かんざし)があるという。

傍らに置かれているのは瀬戸物の高坏を収納している「弁当箱」。面白い名称だが丹生ではその名で呼ばれている。この弁当箱の蓋には「昭和5年十二月吉日 今久保」の銘記があった。当時の大工さんだったというから、その人が作って寄進したものと思われる。


「大根飯」と聞くと、NHKの「おしん」を思い出す。貴重な米を節約するため、大根で増量したご飯のこと、いわゆる糅飯(かてめし)の1種である。それがお地蔵さんの好物だったとは、始めて知った。しかもお地蔵さんは「子安地蔵」だという。昔、お産は命がけだったから、お寺がなくなっても願をかける対象として、地蔵菩薩が求められたのだろう。では最後に肝心の朝日の記事全文を紹介しておく。古澤さん、良い記事を有難うございました!


これら2枚の写真は朝日新聞デジタルから拝借

三日三晩で次の家へ 奈良市丹生町の「三日地蔵」
奈良には、お地蔵様がよく似合う。街角でもあぜ道でも、老若男女が路傍の祠(ほこら)や石仏に手を合わせる風景にしばしば心和まされる。雨の日も風の日も同じ場所で見守ってくれる姿が尊いのだと思っていたが、奈良市東部の山あいに、3日ごとに集落の家から家へ巡るお地蔵様がいらっしゃるという。市中心部から20キロほどの丹生町へ、連綿と続く信仰の姿を訪ねた。


剣術・柳生新陰流で名高い柳生の里から南へ。茶畑や狭い田んぼの間を曲がりくねった道を進むと、不意に目の前が開けた。「隠れ里」という名が似合う田園地帯が広がる。林からウグイスの声、遠くからは子供の歓声が響いてくる。

ちょうど3日前から「三日地蔵」をおまつりしているお宅にお邪魔した。高さ40センチ余りの厨子(ずし)は床の間の前に置かれ、果物や水が供えられている。年季を感じさせる厨子の、わずかに開いた扉の奥に大小2体の地蔵像が安置されていた。

丹生で生まれ育ったという南君代さん(60)は「子供の頃から見ているから珍しいとも感じない」と笑う。旧・丹生村は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で村を挙げて神道に改宗した。寺は廃寺となり、一切の仏事を廃した。現在も村内の葬儀は原則として神葬祭で営まれる。



仏教の流れをくむ三日地蔵の信仰がどのように生まれ、残されたのかは定かでない。お地蔵様は三日三晩まつられると、夕暮れ時に次の家へ送り届けられる。所用のある日や雨の日は翌日に延ばし、病気や高齢のため若い世代が動ける週末を待つこともある。50戸ほどを巡り、どの家にあるかは当人たちしか知らない。1年に1度だけ、お盆の祭りで人前に出て、ハギの葉でくるまれて飾られるという。

厨子には、担ぐためのひもが結え着けられている。夕方、南さんは縁側から立ち上がり、祭祀(さいし)用の道具が入った小箱を孫に持たせて、隣家に向かった。「お客さんですよぉ」。声をかけた。「お客さん」は、お地蔵様への敬意と親しみを込めた呼び方だという。返事がなく、留守だと見極めると戸を開けて屋内に置き、一礼して去った。

30分ほどして帰宅した中窪三三子さん(85)は「あら、お地蔵様が」とつぶやいて、座敷に運んだ。ひもをほどき、手を合わせた。「嫁に来た時、丈夫な子を授かるようお願いしなさいと教わりました」と60年以上前を振り返る。長男に嫁いできた和代さん(64)にも、同じように伝えた。

「そうでしたねえ」。和代さんも昔を振り返る表情になった。「去年の秋に結婚した息子が明日お嫁さんを連れて来るから、初めてお参りしてもらえますよ」と、うれしそうに笑った。子供が元気に育ちますように。脈々と続くその願いが込められたお地蔵さまは、今も丹生のどこかの家を巡っている。(古澤範英)
コメント (3)
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