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奈良ものろーぐ(5)松倉重政 五條で善政 新町が発展

2016年09月21日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
九度山村(現・和歌山県伊都郡九度山町)に帰省していたので、更新が遅くなった。今日紹介するのは、私が奈良日日新聞に月1回(第4金曜日)に連載している「奈良ものろーぐ」第5回「松倉重政」(8/26付)である。高校の歴史教科書では悪者扱いであるが、全く違う横顔がある。五條新町発展の基礎を築いたのである。今回は、そこをクローズアップする。全文を紹介すると、

松倉重政「五條で善政 新町が発展」
 
高校の歴史教科書にも登場する松倉重政、一般的な理解は「江戸初期の大名。大坂の陣後、肥前島原四万石領主。島民に重税を課し、キリシタンを弾圧、島原の乱を誘発した」(『大辞林』)というもので、ネガティブなイメージがつきまとう。しかしこの重政が五條二見城主として善政をしき、新町発展の基礎を築いたことはあまり知られていない。

重政は大和郡山市横田町で、松倉重信の長男として生まれた。越中国(富山県)出身の祖父の代から、郡山筒井家家老職の家柄だった。重政は、筒井順慶の養子定次に仕え、関ヶ原では徳川方について武功をあげ、慶長13(1608)年、定次の改易処分後に大和国五條一万石余の大名に取りたてられ、二見城(五條市二見)に藩主として入部した。重政が二見城を与えられたのは、紀州九度山(和歌山県伊都郡)に蟄居(ちっきょ)する真田信繁(幸村)や高野山を警戒してのことといわれる。

入部した重政は、すぐさま二見村と五條村の間に約900メートルの直線道路をつけ、新しい商業の町「五條新町」を現出させた。そこでは「諸役免許」(諸税免除)という特権を与えて商業活動を奨励し、近郷から有力商人を集めた。「五條は、江戸期、大和盆地においては奈良に次ぐ都市であった」(司馬遼太郎著『街道をゆく 12 十津川街道』)という基礎を築いたのは、重政の功績である。。さらに重政は防火対策として新町に水門屋敷(水溜め場)を設けるとともに、類焼対策を兼ね南北に横小路(水門道)を通した。

重政は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で、郡山城の救援や道明寺方面での後藤又兵衛勢との戦いの功により、翌元和2(1616)年、肥前日之江城へ4万3000石余に加増のうえ転封となった。新町の住民は、重政の転封ののちも「諸役免許」の特権を守るため、団結して時の領主や代官にくり返し請願を行うとともに、「豊後様祭り」を行って重政への感謝の意をあらわした。

平成20(2008)年は重政の二見城入部400年の年で、同年五條市では「松倉豊後守重政四〇〇年記念事業」が行われた。法要、記念式典、記念講演会のほか豊後様祭り(松倉祭り)、顕彰碑の建立、『新町と松倉豊後守重政四〇〇年記念誌』の刊行などの事業が実施された。

同年6月、同事業実行委員会のメンバーは島原市を訪れた。驚くべきは「島原市長さんはじめ歴史に詳しい島原の皆さんは、異口同音に『重政公は島原城をこの地に築き、今日の島原市の礎を造った恩人として尊敬しており、悪く言う人はいません。五條の皆さんは心配しすぎではないでしょうか』と勇気づけられて帰ってきた」(「五條市広報」平成20年11月号)というくだりだ。慰安婦問題ではないが、くもりのない目で歴史を見つめ直すことは、いつの時代にも必要なのだ。=毎月第4週連載=


いかがだろう。重政はのちにも「築城に優れていた人物」「城下町を形成し町を振興させた人物」「浪人者などを集めて上手く人を使った人物」「貿易活動に注目した人物」として高い評価を得たが、これらが現在もよく知られているとは言いがたい。ステレオタイプを脱し、そろそろ松倉重政を再評価して良いのではないだろうか。

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