tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

真田丸(37)信之

2016年09月24日 | 日々是雑感
前回(9/18)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第37回 信之」だった。「信幸」が「信之」に変わったところがミソだ。NHKのHP「あらすじ」によると、

関ヶ原での西軍敗北により徳川に降伏した信繁と昌幸。信幸と忠勝による、家康への必死の助命嘆願により、高野山への流罪と決まる。しかし、その代わりに家康が信幸に命じたのは厳しい条件であった。一方、大坂に立ち寄った信繁は、三成と刑部の最期について知ることになる。そして高野山に向かった信繁たち一行を待ち構えていたのは…。

徳川秀忠を相手にした第二次上田合戦で勝ったものの、関ヶ原で西軍が負けたことで敗者となった昌幸は、まだその現実を受け入れられず、自領に残る徳川勢を急襲する。これはやけっぱちの行動で、徳川の印象をさらに悪くしてしまう。そろそろ昌幸も、トシなのだろうか。

信繁は昌幸に「これ以上の戦いは無駄だ」と言う。「まだ上杉が残っている」と悔しがる昌幸は、握りこぶしを床に何度も叩きつけ、人生最後の賭に負けた無念を見せる。草刈正雄、迫真の演技だ。

真田は上田城を明け渡すことになる。立ち会ったのは徳川方の平野長泰(ひらの・ながやす)。もと豊臣家家臣で賤ヶ岳七本槍の一人。田原本町ゆかりの人物だ。



信幸は本多忠勝とともに大坂に向かい、家康に父と弟の助命嘆願をするが、家康は「死んでもらう」の一点張り。そこで本多忠勝は「自分の命に免じて助命してほしい、それが許されないなら婿とともに上田城に籠城して戦う」言い切る。

ここまで言われれば家康は苦笑しながら「命までは取らぬ。平八郎(忠勝)にそこまで言われたらな」と譲歩。そのかわり、これからは父を絶縁し、「昌幸」から引き継いだ「信幸」の「幸」の字を捨てるように言い渡す。家康はつくづく嫌なやつだ。

高野山に向かう途中、父子は大坂に立ち寄る。家康は「なぜ命を助けたと思う」と父子に問いかける。昌幸は「信之と忠勝が助命嘆願したからでは?」。信繁は「死より苦しい仕打ちを与えようとしているのでは?」と答える。これは図星だった。家康は「お前から兵も武器も馬も金も全部取り上げてやる。今後、戦を起こす機会も一切奪ってやる。残りの人生を、高野山の麓で過ごすのだ」「この生き地獄、たっぷりと味わえ」。



雪が舞う中、真田父子は紀州・九度山の屋敷に入る。きりと佐助もついてくる。ここから彼らの新たな暮らしが始まるのだ。しかし、やはり悲壮感が漂っている…。番組の最後に流れる「真田丸紀行」、今回は九度山町(和歌山県伊都郡)だった。NHKのHPには、

和歌山県九度山町。真田親子の新しい生活の舞台となったこの町は高野山参詣の玄関口でした。九度山町の慈尊院(じそんいん)は、弘法大師の母親ゆかりの地として知られ、古くから女性の参拝客でにぎわいました。妻子を伴った信繁たちもこの地で暮らすこととなったのです。

昌幸の屋敷跡とされる地に建つ善名称院(ぜんみょうしょういん)。地元の人々は真田庵と呼び、親しんでいます。敷地内の社には、昌幸、信繁、その息子、大助がまつられています。毎年、多くの人が集まる真田まつり。老若男女が赤備えで町中を練り歩きます。信繁たちが14年を過ごした、ここ九度山からは今も真田の息遣いが聞こえてきます。




昌幸は九度山での生活が11年目を迎えた慶長16年、ここで65年の生涯を閉じた。その様子は早くも次回「第38回 昌幸」に登場する。さて今回も締めは、藤丸タダアキさんの感想。彼のブログから紹介させていただく。

徳川家の後継者秀忠に完勝した真田昌幸と信繁。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成が敗戦することで状況は一変します。戦いに勝って城と領地を失う昌幸と信繁。真田丸37話信之の感想を書きます。

家康は武権を確立します。東軍の信幸は義父の本多忠勝にフォローされながら、昌幸と信繁の助命を家康に懇願します。家康は昌幸と信繁の死を免じる一方、真田家の諱である幸を名前から取るように信之に命じました。



小早川秀秋は関ケ原の戦いで裏切りを敢行します。彼の行動は関ヶ原前から不透明で西軍の根拠地大垣城にも入らずに松尾山に陣取りました。そして突如、東軍に寝返って裏切りを敢行します。しかし、この裏切りにあらかじめ備えていた信繁の妻はるの父大谷刑部吉継。
小早川軍は500mも押し戻されましたが、別の裏切りが発生し、西軍は崩壊しました。

彼はこの2年後に21歳で若死にします。それも西軍の亡霊に呪い殺されたといわれています。昌幸と信繁は高野山の麓の九度山に蟄居を命じられます。真田丸37話信之では多くの人の関ヶ原後が紹介されていました。特に敗者の物語を多く紹介されていました。



信幸は父と弟の投機性のような強いお茶目な面を本来は持っていたでしょう。しかし、彼は真田家を残すことに全力をかけました。これは彼がキャリアで培ってきた考えです。戦乱の世、大名たちの考え方は子孫繁栄と先祖供養を第一に考えます。子孫が繁栄しなければ先祖供養はできません。

信之をフォローした本多忠勝は地味な徳川軍団にあって珍しく知名度の高い武将でした。彼は弱冠20代から合戦師としての名声を持っていました。年上の家康も忠勝のいうことならばと何度も採用して作戦を成功させてきました。著名な話は武田との合戦における大井川の退却です。

真田丸の登場人物 本多忠勝について そして、実は本多忠勝は信之に惚れ込んで娘を嫁がせたといわれています。信之は地味ですが、そのように当時から評価が高かったのでしょう。真田丸37話信之の感想を書きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする