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神武陵と綏靖陵、治定に至る紆余曲折/天皇陵古墳を歩く(朝日新聞)

2018年03月10日 | 奈良にこだわる
今井町町並み保存会会長の若林稔(梅香)さんから、朝日新聞奈良版「天皇陵古墳を歩く(75)四条塚山古墳」(3月9日付)の切り抜きをいただいた。これは力の入った特集記事だ。しかも連載が75回とは驚く。毎日、産経、奈良新聞と週刊奈良日日新聞にはくまなく目を通しているが、朝日新聞奈良版にこんなスゴい連載があったとは、盲点だった。まず記事内容を簡単に紹介すると、
※トップ写真は現在の神武天皇陵(畝傍山東北陵)、橿原市のホームページから拝借

1.橿原市の四条塚山古墳は、現在「綏靖(すいぜい)天皇陵」とされているが、元禄の修陵から幕末までは「神武天皇陵」として管理されてきた。
2.本居宣長は『菅笠日記』に、四条塚山古墳を神武天皇陵とすることへの異論を述べた。『古事記』に「神武天皇陵は畝火山之北方白檮尾上」とあり、四条塚山古墳は、畝傍山から離れているからである。宣長は、畝傍山西北麓の「すゐぜい塚」(スイセン塚古墳)が神武天皇陵にふさわしいと主張。
3.嘉永元(1848)年、北浦定政は、神武天皇陵は畝傍山東北麓(中腹)の「丸山」であると主張。
4.谷森善臣は、丸山説は陵墓としての形跡が観察できないとして、丸山の北側の下方にある畑の小字「ミサンザイ」俗称神武田(じむだ)を地名考証から神武天皇陵だと主張。
5.最後は孝明天皇の勅裁で、ミサンザイを「神武天皇陵」に決めた(現在の「畝傍山東北陵」)。四条塚山古墳は、治定替えで「綏靖天皇陵」となった。


このような紆余曲折があったのだ。これは勉強になった。最後に、記事全文を紹介しておく。

(75)四条塚山古墳
■神武天皇陵 諸説と論争
江戸時代の本格的な修陵(陵墓を定め、修理すること)は元禄修陵に始まり、おもに享保、文化、文久の数度、行われたようです。徳川幕府はそのたびに陵墓の改めを実施し、変更することで充実を図りました。しかし、近代日本は治定した陵墓を変えない施策をとります。

戦後の皇室典範でも、それまでの陵墓を追認する付則を設けることで継承します。定められた被葬者と現代の考古学成果が異なることはありますが、変更するには、現行法の整備がまず必要だと思います。

元禄の修陵から幕末まで、橿原市の四条塚山古墳(現・綏靖(すいぜい)天皇陵)は神武天皇陵として管理されてきました。「もしか」は禁物ですが、幕末に変更がなければ、管理と祭祀(さいし)がその後も続き、近現代の畝傍山周辺の景観は異なったものになっていたでしょう。

元禄10(1697)年の修陵記録に塚山について「神武天皇御廟之由村人申伝候」とあります。地元の四条村には神武天皇陵の伝承がありました。山陵絵図「廟陵記(びょうりょうき)」には陵上に松が1本、桜が2本、柵外の南側に文化5(1808)年の石灯籠が1基、描かれています。嘉永7(1854)年、与力で山陵研究家の平塚瓢斎の「聖蹟図志」は、四条塚山古墳を「神武陵」と記しながら、一説に「綏靖帝陵」と併記しています。

この間に、神武天皇陵の所在地をめぐる論争が起こります。明和9(1772)年、国学者の本居宣長は「菅笠(すががさ)日記」に四条塚山古墳を神武天皇陵とすることへの異論を述べます。「古事記」が神武天皇陵は「畝火山之北方白檮尾上」にあると記したことによります。

四条塚山古墳は、畝傍山から離れているではないか。畝傍山西北麓の「すゐぜい塚」が神武天皇陵にふさわしいと主張しました。橿原市慈明寺町にある墳丘の全長71メートルの前方後円墳、スイセン塚古墳のことです。古事記を重んじた真骨頂を発揮したわけです。

四条塚山古墳が畝傍山から離れているという古事記に基づく見方は、後の神武天皇陵の所在地論にも影響を与えました。嘉永元(1848)年、大和出身の津藩士で山陵研究家の北浦定政は「打墨縄(うちすみなわ)」に神武天皇陵は「畝火山の東北を洞(ほら)村と云、其村の上にあり、字丸山とよぶ」と、畝傍山東北麓で中腹にある丸山を主張します。各文献史料の記事内容と合致する場所を見つけようとしました。

文久修陵の中心人物の谷森善臣(よしおみ)は、安政4(1857)年の「藺笠(いがさ)のしづく」や文久2(1862)年ごろに完成した「山陵考」で別の説を示します。丸山説は、陵墓としての形跡が観察できないというのが、おもな理由です。丸山の北側の下方にある畑の小字ミサンザイ、俗称神武田(じむだ)を地名考証から神武天皇陵だと主張しました。

文久修陵にあたり、北浦の丸山説と、谷森のミサンザイ説が朝廷に提出されます。文久3(1863)年2月、最後は孝明天皇の勅裁でミサンザイが神武天皇陵に決定しました。今の「畝傍山東北(うしとらのすみ)陵」です。四条塚山古墳は治定替えとなり、1878(明治11)年2月に綏靖天皇陵となりました。

その後、神武天皇陵は変わらず、周辺の拡張整備が行われます。1917(大正6)年9月以降に数年かけた洞村の移転がありました。陵墓の神聖を侵すというのが理由でした。神武天皇陵と共に語られるべき歴史だと思います。(関西大非常勤講師 今尾文昭)
コメント (2)
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