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御所市柏原の神武天皇社/もうひとつの宮跡伝承地(奈良日日新聞「奈良ものろーぐ」第24回)

2018年03月31日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
奈良日日新聞に毎月1回(第4金曜日)連載している「奈良ものろーぐ」、今月(3/23)は「御所市の神武天皇社 もうひとつの宮跡伝承地」だった。
※写真はすべて2月22日(木)に撮影。参道と神武天皇社の拝殿は、一直線になっていない

日本の初代天皇・神武天皇の宮(皇居)は今の橿原神宮にあったというのが定説だが、江戸時代には御所市柏原だという説の方が有力だった。江戸時代には橿原神宮のあたりではすでに「橿原」という地名は残っていなかったという。

『日本書紀』には「畝傍山の東南」とあるが、それは「西南」の誤りだとして、御所市柏原が真の「神武天皇橿原宮」の比定地とされるに至ったのである。地元に何か伝承が残っていないか、現地を訪ねてみた。まずは全文を紹介する。


神武天皇社の拝殿。この奥に本殿が鎮座する

御所市に柏原(かしはら)という大字があり、ここに「神武天皇社」が鎮まる。最寄り駅はJR掖上駅だ。古くから、ここを「神武天皇橿原宮」の比定地とする説がある。

「柏原は柏樹の密生地であった。現在も地下に柏の巨樹が埋まり、上前柏・下前柏・前柏・戈柏などの字名が残る。(中略)神武天皇の橿原宮は現在橿原市に比定されているが、江戸期には当地に比定する説が有力であった(大和志・大和名所図会・西国名所図会・大和遷都図考・菅笠日記など)」(『角川日本地名大辞典』)。『日本書紀』には「畝傍山の東南」とあるが、それは「西南」の誤りとする説だ。

本居宣長は現在の橿原の地で「今かしばらてう名はのこらぬかととへば、さいふ村はこれより一里あまりにしみなみ(西南)の方にこそ侍れ、このちかき所にはきき侍らず」(『菅笠日記』)という聞き書きを残している。

白洲正子もこの話に興味を持ち、御所市柏原を訪れている。「何度も人に尋ねながら行くと、その社は、柏原の町中の、藤井勘左衛門氏という家の前を入った、小路の奥に鎮座していた。村の鎮守といった格好で、みすぼらしい社殿があるだけだが、畝傍の裏にひっそりとかくれて、村人たちに『神武さん』と呼ばれて護られている姿は、土豪に擁されて即位した磐余彦(イハレビコ=神武天皇)の、ありのままの姿をほうふつとさせる」(『かくれ里』)。



藤井さんにお願いして、本殿前で写真を撮らせていただいた

文中にある藤井勘左衛門氏のひ孫の藤井謙昌(よしまさ 64歳)さんにお話を聞くことができた。謙昌さんは神武天皇社の総代を務めている。「神武天皇の宮跡はここだという説は根強く、明治のはじめ、宮跡に指定されると引っ越さなければならないといって、地域の住民は証拠書類を焼き払ったそうです。神武天皇社の南には摂社・嗛間(ほおま)神社があります」。

嗛間神社には、神武天皇が即位前に后としていた吾平津媛(アヒラツヒメ)が祀られる。媛はここでわび住まいをしていたとされる。天皇は即位後に皇后として伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を迎えた。藤井さんは「地域住民は吾平津媛の不遇に思いをはせ、婚礼時には嗛間神社の前に白い幕をはり、行列も裏の『嫁入り道』を通りました」と語る。



嗛間神社。こちらも藤井さんがお祀りされている

神武天皇社の宮司は鴨都波(かもつば)神社宮司の松本廣澄(ひろすみ 83歳)さんが兼務する。宮司に神武天皇社の社伝について伺うと「記録としては、何も残っていません」。『奈良県史(第5巻)神社』にも「旧指定村社。神社の背後の山は神武天皇が登幸された嗛間丘だとの伝説があり、当社に神武天皇を祀るのはこれによると考えられる」という記載にとどまる。

レジェンド(伝説)は歴史的事実ではないかも知れないが、決してフィクション(虚構)ではない。記紀だって、伝説を記録したのであって、虚構を書きつらねたものではない。地域住民が守り伝えてきた伝説は、大切に語り継いでいただきたい。


「地域の住民は証拠書類を焼き払った」という話は、大いにありえる話だ。宮跡比定地にされると、立ち退かなければならない。明治の初期なら「比定されて名誉だ」と思うより「生まれ育った土地から引っ越すのは嫌だ」という気持ちの方が強かったことだろう。

今回の取材でお世話をおかけしました藤井謙昌さん(会社の先輩)と奥さん、そして松本宮司さん、ありがとうございました!

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コメント (2)
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