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悲劇のヒーロー護良親王(大塔宮)と村上義光/軍書に悲し吉野山(毎日新聞「ディスカバー!奈良」第75回)

2018年07月25日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(7/19付)掲載されたのは「悲運の英雄 護良(もりよし)親王 吉野町の大塔宮(おおとうのみや)仰徳碑と村上義光墓」、執筆されたのは、姫路から来た優等生こと池内力(ちから)さんである。池内さんは同会理事で、姫路市出身・在住だ。月1回のペースで奈良県(主に吉野郡)を訪ねておられる。
※トップ写真は村上義光墓(吉野町)

大塔宮こと護良親王の悲話は、『太平記』に詳しい。各務支考(かがみしこう)曰く「歌書よりも軍書に悲し吉野山」だ。「軍書」とは、もちろん『太平記』のことである。『世界大百科事典』「護良親王」によると、

伝承 一般には大塔宮の名で知られるこの皇子は,《太平記》に登場する悲劇的な南朝の英雄たちの中でも,父天皇との葛藤と敗北というさらに悲劇的な運命をたどった人物として伝えられた。早くから将来を期待されたこの皇子は,天台座主になりながら仏事をよそに武芸に熱中して人々を驚かせ,内乱が始まるや軍勢を率いて縦横に活動した。

敵の追及を欺くために,般若寺の大般若経の経箱に隠れた話や,村上義光(よしてる)・義隆父子を従えて吉野,熊野を潜行中,つぎつぎに危難を逃れるが,ついに敵の手中に落ちたとき,義光の壮烈な身替りの自刃によって脱出した話などは,《太平記》の名場面として語られた。

奸計に陥って鎌倉に流され,長期の土牢幽閉で足もなえた親王が,志を果たせず怨念を抱いて殺される最期の場面は,とくに人々の心を動かし,浮世絵の画題にもなった。1869年,明治政府は鎌倉の土牢跡に親王の霊をまつり,義光の霊も併祀したが,この社はその後官幣中社鎌倉宮となった。



大塔宮仰徳碑(吉野町)

なお五條市大塔町(旧大塔村)の地名は、当地で大塔宮を守護したという逸話に基づく。では、記事全文を紹介する。

後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)親王は僧となり大塔宮(おおとうのみや)と称した後、天台座主にも就任しました。後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕をめざす元弘の変を企てた際には、還俗(げんぞく)して吉野で挙兵し、6万人の幕府軍を相手に善戦しました。

本陣を構える金峯山寺の蔵王堂近くまで幕府軍が迫ってきた際は死を覚悟しましたが、忠臣の村上義光(よしてる)が身代わりとなって自害したことにより、高野山へ落ち延びることができました。義光の首は、里人が埋葬して供養したと伝えられています。

建武の新政では征夷大将軍に任じられましたが、やがて後醍醐天皇に疎まれて失脚し、鎌倉で幽閉後、足利直義に殺害されました。最期の時、脳裏には吉野の雄大な自然が浮かんでいたのではないでしょうか。皇紀2600年を記念して「大塔宮仰徳碑」が建てられました。
 
【メモ】金峯山寺から大塔宮仰徳碑は南へ徒歩約20分、村上義光墓は北へ徒歩約20分(奈良まほろばソムリエの会理事 池内力)。


なんとも壮絶な話である。親王と義光を祀る鎌倉宮(かまくらぐう)は、鎌倉駅(JRまたは江ノ電)から徒歩30分、京急バスも出ている。いちどお参りしなければ。

池内さん、興味深いお話をありがとうございました!

コメント (4)
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