NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(7/12)掲載されたのは「三碓(みつがらす)の地名の起源 奈良市の添御県坐(そうのみあがたにいます)神社」、執筆されたのは四条畷市にお住いの津山進さんである。
※トップ写真は根聖院の唐臼
「御県坐神社」とは、大王(天皇)に献上するための野菜を栽培する神聖な菜園の霊を祀る神社のことで、たいてい平野部の穀倉地帯・田園地帯にあり、周囲には集落が形成されている。延喜式「祝詞(のりと)」には、大和の国の6社の御県坐神社(大和の六御県坐神社)が登場する。その1つが「添御県坐神社」(奈良市三碓3-5-8)である。お隣の「根聖院(こんしょういん)」は同神社の神宮寺である。スーパー中村屋富雄店(奈良市三碓5-2-14)の東方向にある。では、記事全文を紹介する。
添御県坐神社の境内
生駒山を望む奈良市三碓(みつがらす)にある添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、添郡にある県の地を守る神社として建立されました。添郡は添上(そえかみ)と添下(そえじも)の二つの郡に分かれていましたが、神社は添下郡にあたります。
県(あがた)は朝廷の直轄地のことで、皇室に農作物などを納める御料地であったため、御をつけて御県と名付けられました。神話によると富雄川一帯は登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)が治めていた地とされ、三祭神の一柱は那賀須泥毘古と伝えられています。
本殿は室町時代の初期に建てられ、柱の間が五つの五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で、国の重要文化財に指定されています。神社に隣接する根聖院(こんしょういん)には、三碓の地名の起源である三穴のくぼみがあったであろう大石が展示され、唐臼(からうす)の残片と伝えられています。「三つからうす」が訛(なま)って「みつがらす」となったそうです。
■メモ 近鉄奈良線富雄駅下車、富雄川沿いに南へ進み「三碓」バス停を左折し直進、徒歩約15分(奈良まほろばソムリエの会 津山進)。
「三碓」は小学校や阪奈道路の交差点、奈良交通のバス停などの名前に使われているので、よく「何と読むの?」「どういう意味?」と聞かれることが多い。さすがに中村屋は、三碓の地にあるのに分かりやすく「富雄店」としているが…。
津山さん、興味深いお話をありがとうございました!
※トップ写真は根聖院の唐臼
「御県坐神社」とは、大王(天皇)に献上するための野菜を栽培する神聖な菜園の霊を祀る神社のことで、たいてい平野部の穀倉地帯・田園地帯にあり、周囲には集落が形成されている。延喜式「祝詞(のりと)」には、大和の国の6社の御県坐神社(大和の六御県坐神社)が登場する。その1つが「添御県坐神社」(奈良市三碓3-5-8)である。お隣の「根聖院(こんしょういん)」は同神社の神宮寺である。スーパー中村屋富雄店(奈良市三碓5-2-14)の東方向にある。では、記事全文を紹介する。
添御県坐神社の境内
生駒山を望む奈良市三碓(みつがらす)にある添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、添郡にある県の地を守る神社として建立されました。添郡は添上(そえかみ)と添下(そえじも)の二つの郡に分かれていましたが、神社は添下郡にあたります。
県(あがた)は朝廷の直轄地のことで、皇室に農作物などを納める御料地であったため、御をつけて御県と名付けられました。神話によると富雄川一帯は登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)が治めていた地とされ、三祭神の一柱は那賀須泥毘古と伝えられています。
本殿は室町時代の初期に建てられ、柱の間が五つの五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で、国の重要文化財に指定されています。神社に隣接する根聖院(こんしょういん)には、三碓の地名の起源である三穴のくぼみがあったであろう大石が展示され、唐臼(からうす)の残片と伝えられています。「三つからうす」が訛(なま)って「みつがらす」となったそうです。
■メモ 近鉄奈良線富雄駅下車、富雄川沿いに南へ進み「三碓」バス停を左折し直進、徒歩約15分(奈良まほろばソムリエの会 津山進)。
「三碓」は小学校や阪奈道路の交差点、奈良交通のバス停などの名前に使われているので、よく「何と読むの?」「どういう意味?」と聞かれることが多い。さすがに中村屋は、三碓の地にあるのに分かりやすく「富雄店」としているが…。
津山さん、興味深いお話をありがとうございました!