産経新聞奈良版に、ライターのもりきあやさんが「今日も奈良はおさんぽ日和」という楽しいエッセイを連載されている。7/6付では「『タナバタ』のルーツ?」のタイトルで、保育園に通う娘さんと出かけた「棚機(たなばた)神社」(葛城市太田小字七夕)を紹介されていた。この時期にはタイムリーなテーマだったが《棚機神社に関しては、歴史的な記録が残っておらず、断定できることはほとんど何もないそうだ。神社ができたのも、地元の伝えによるしかなく「とにかくずっと昔から」としか言えないらしい》と、はなはだ心もとない。これでは、いくら「?」つきでも「『タナバタ』のルーツ?」などとは言えまい。「奈良通」をめざす私としては、ここで「棚機神社」をググッと掘り下げてみることにしたい。
まず「七夕」について、ざっとおさらいしよう。広辞苑(第5版)に《五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に1度相会するという、7月7日の夜、星を祭る年中行事。中国伝来の乞巧奠(きこうでん)の風習と日本の神を待つ「たなばたつめ」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった》とあるとおり、中国の「乞巧奠の風習」と日本の「棚機つ女(たなばたつめ)の信仰」がごっちゃになった(習合した)ものである。
なお「乞巧奠」とは《(キッコウデンとも。女子が手芸に巧みになることを祈る祭事の意)陰暦7月7日の夜、供え物をして牽牛(けんぎゆう)・織女星をまつる行事。中国の風習が伝わって、日本では宮中の儀式として奈良時代に始まり、後に民間でも行われた》(広辞苑)。「棚機つ女」とは文字通り「はたを織る女性」という意味で、《棚機の棚は宛字ではなく、棚にいて機を織る少女が棚機姫で、古代には夏秋の交叉の季節に、村落を離れた棚の上に隔離されて、海または海に通じる川から来る若神のために機を織っていた、と『古代研究』の中で折口信夫は語る。 棚機姫は水の女であり、神をもてなす女である》とHP神奈備(かんなび)にある。ネーミングも、五節句の1つの七夕(しちせき)と、棚機(たなばた)がみごとに合体し、漢字で「七夕」、ルビは「たなばた」となったのである。
さて、棚機神社である。上記のHP神奈備によると、由緒としては《鎮座地は太田の西の谷間の中央であるが、創建時には一番奥まった所だったと思われる。式内社の葛木倭文坐天羽雷命神社(倭文神社)は隣の當麻町(現 葛城市)加守に鎮座しているが、元の鎮座地はこの地で字名を七夕と言ったそうだ。倭文神社はこの国の古来からの織物の神を祭り、所謂七夕の織姫信仰とは違う神であったようで、水辺で神衣を織りながら神の来訪を待ち、神妻となる巫女の神格化されたものと、織姫とが習合したものである》。
おおっ、これは大発見だ! この地には「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)」という「式内社」(しきないしゃ)が鎮座していたのである! なお式内社とは、平安初期の「延喜式」に載っている由緒ある神社という意味だ。そんな古社なので、ちゃんとWikipediaにも載っている(最近私は、Wikipediaに載るような神社を、密かに「ウィキ内社」と呼んでいる。Wikipediaは平安以降に登場した著名な神社もカバーしている)。
さてWikipedia「葛木倭文坐天羽雷命神社」によると《単に倭文神社(しずりじんじゃ)とも呼ばれる》《天羽雷命(あまはいかづちのみこと)を主祭神とし、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀する。天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる》。
さらにWikipedia「倭文神社」によると《倭文神社(しとり、しずり、しどり)という名前の神社は日本全国にある。いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社で、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたものである。その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている》。おお、「葛木倭文坐天羽命神社」は、全国各地にある「倭文神社」のルーツだったのだ! Wikipediaには17社が紹介されていて、そのうち奈良市の倭文神社(奈良市西九条町二丁目14の2)は《祭神の武羽槌雄命は、天羽槌雄命と同名で織部の神で、倭文氏はその後裔である。辰市郷に住んで神衣を織ったと伝えている》(HPななかまど)とある。なお辰市郷とは、奈良市八条町・東九条町・西九条町・杏(からもも)町の辺りである。
葛城市太田に葛木倭文坐天羽雷命神社があったということは、葛城市のHPにも載っているので、史実と考えて間違いはない。太田というと、山麓線(県道30号)と南阪奈道路の(立体)交差地点のあたりなので、私も帰省のつど通っている場所である(交差点には「太田南」の標識がある)。いちど、棚機神社を訪ねてみることにしよう。
さて、以上で解明できた(と思われる)「棚機神社」(葛城市太田小字七夕)の成り立ちをまとめよう。
1.創建年代は不明ながら、少なくとも平安初期までに、この地に「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)」という式内社があった(現在は葛城市加守に移されている)。この古社は、機織の神である天羽雷命を祖神とする倭文(しとり)氏によって創建された。全国の倭文神社のルーツである。
2.天羽雷命は織物の神であったことから、次第に中国の「乞巧奠(きこうでん)」の風習(7月7日の夜、牽牛・織女星にお供え物をする)とごっちゃになり(習合し)、小字名(地名)も七夕となった。
3.葛木倭文坐天羽雷命神社が葛城市加守に移されたあと、それを偲んで小さな祠がこの地(同市大田小字七夕)に祀られ鳥居も整えられ、いつの間にか「たなばたさん」(棚機神社、棚機宮)と呼ばれるようになったのである。したがって、残念ながら棚機神社は「タナバタのルーツ」ではない(ただし葛木倭文坐天羽雷命神社は、機織の神(⇔織女・牽牛)のルーツと言っても間違いではない)。
なお全国にはたくさんの「たなぱた神社」が存在する。ネットで検索しただけで、名古屋市の多奈波太神社(たなばたじんじゃ)、静岡市の七夕神社、福岡県小郡市の七夕神社などがヒットした。いずれも織物の神さまをお祀りする神社で、やはり中国の乞巧奠(きこうでん)と日本の棚機つ女(たなばたつめ)の習合のようである。偶然1枚だけ買った宝くじが当たるような「タナボタ神社」は、残念ながらヒットしなかった。
ナゾの解明にはいろんなサイトを参照し、結構時間がかかった。「奈良まほろばソムリエ検定」には出題されないと思うが、産経新聞を読んで「もやもや感」が残っていた人には、これでスッキリしていただけたことと思う。理屈っぽい話に最後までお付き合いいただいた当ブログ読者の皆さん、有難うございました。
※当記事のイラストは、すべて「楽々はがき2009」から拝借しました
まず「七夕」について、ざっとおさらいしよう。広辞苑(第5版)に《五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に1度相会するという、7月7日の夜、星を祭る年中行事。中国伝来の乞巧奠(きこうでん)の風習と日本の神を待つ「たなばたつめ」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった》とあるとおり、中国の「乞巧奠の風習」と日本の「棚機つ女(たなばたつめ)の信仰」がごっちゃになった(習合した)ものである。
なお「乞巧奠」とは《(キッコウデンとも。女子が手芸に巧みになることを祈る祭事の意)陰暦7月7日の夜、供え物をして牽牛(けんぎゆう)・織女星をまつる行事。中国の風習が伝わって、日本では宮中の儀式として奈良時代に始まり、後に民間でも行われた》(広辞苑)。「棚機つ女」とは文字通り「はたを織る女性」という意味で、《棚機の棚は宛字ではなく、棚にいて機を織る少女が棚機姫で、古代には夏秋の交叉の季節に、村落を離れた棚の上に隔離されて、海または海に通じる川から来る若神のために機を織っていた、と『古代研究』の中で折口信夫は語る。 棚機姫は水の女であり、神をもてなす女である》とHP神奈備(かんなび)にある。ネーミングも、五節句の1つの七夕(しちせき)と、棚機(たなばた)がみごとに合体し、漢字で「七夕」、ルビは「たなばた」となったのである。
さて、棚機神社である。上記のHP神奈備によると、由緒としては《鎮座地は太田の西の谷間の中央であるが、創建時には一番奥まった所だったと思われる。式内社の葛木倭文坐天羽雷命神社(倭文神社)は隣の當麻町(現 葛城市)加守に鎮座しているが、元の鎮座地はこの地で字名を七夕と言ったそうだ。倭文神社はこの国の古来からの織物の神を祭り、所謂七夕の織姫信仰とは違う神であったようで、水辺で神衣を織りながら神の来訪を待ち、神妻となる巫女の神格化されたものと、織姫とが習合したものである》。
おおっ、これは大発見だ! この地には「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)」という「式内社」(しきないしゃ)が鎮座していたのである! なお式内社とは、平安初期の「延喜式」に載っている由緒ある神社という意味だ。そんな古社なので、ちゃんとWikipediaにも載っている(最近私は、Wikipediaに載るような神社を、密かに「ウィキ内社」と呼んでいる。Wikipediaは平安以降に登場した著名な神社もカバーしている)。
さてWikipedia「葛木倭文坐天羽雷命神社」によると《単に倭文神社(しずりじんじゃ)とも呼ばれる》《天羽雷命(あまはいかづちのみこと)を主祭神とし、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀する。天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる》。
さらにWikipedia「倭文神社」によると《倭文神社(しとり、しずり、しどり)という名前の神社は日本全国にある。いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社で、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたものである。その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている》。おお、「葛木倭文坐天羽命神社」は、全国各地にある「倭文神社」のルーツだったのだ! Wikipediaには17社が紹介されていて、そのうち奈良市の倭文神社(奈良市西九条町二丁目14の2)は《祭神の武羽槌雄命は、天羽槌雄命と同名で織部の神で、倭文氏はその後裔である。辰市郷に住んで神衣を織ったと伝えている》(HPななかまど)とある。なお辰市郷とは、奈良市八条町・東九条町・西九条町・杏(からもも)町の辺りである。
葛城市太田に葛木倭文坐天羽雷命神社があったということは、葛城市のHPにも載っているので、史実と考えて間違いはない。太田というと、山麓線(県道30号)と南阪奈道路の(立体)交差地点のあたりなので、私も帰省のつど通っている場所である(交差点には「太田南」の標識がある)。いちど、棚機神社を訪ねてみることにしよう。
さて、以上で解明できた(と思われる)「棚機神社」(葛城市太田小字七夕)の成り立ちをまとめよう。
1.創建年代は不明ながら、少なくとも平安初期までに、この地に「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)」という式内社があった(現在は葛城市加守に移されている)。この古社は、機織の神である天羽雷命を祖神とする倭文(しとり)氏によって創建された。全国の倭文神社のルーツである。
2.天羽雷命は織物の神であったことから、次第に中国の「乞巧奠(きこうでん)」の風習(7月7日の夜、牽牛・織女星にお供え物をする)とごっちゃになり(習合し)、小字名(地名)も七夕となった。
3.葛木倭文坐天羽雷命神社が葛城市加守に移されたあと、それを偲んで小さな祠がこの地(同市大田小字七夕)に祀られ鳥居も整えられ、いつの間にか「たなばたさん」(棚機神社、棚機宮)と呼ばれるようになったのである。したがって、残念ながら棚機神社は「タナバタのルーツ」ではない(ただし葛木倭文坐天羽雷命神社は、機織の神(⇔織女・牽牛)のルーツと言っても間違いではない)。
なお全国にはたくさんの「たなぱた神社」が存在する。ネットで検索しただけで、名古屋市の多奈波太神社(たなばたじんじゃ)、静岡市の七夕神社、福岡県小郡市の七夕神社などがヒットした。いずれも織物の神さまをお祀りする神社で、やはり中国の乞巧奠(きこうでん)と日本の棚機つ女(たなばたつめ)の習合のようである。偶然1枚だけ買った宝くじが当たるような「タナボタ神社」は、残念ながらヒットしなかった。
ナゾの解明にはいろんなサイトを参照し、結構時間がかかった。「奈良まほろばソムリエ検定」には出題されないと思うが、産経新聞を読んで「もやもや感」が残っていた人には、これでスッキリしていただけたことと思う。理屈っぽい話に最後までお付き合いいただいた当ブログ読者の皆さん、有難うございました。
※当記事のイラストは、すべて「楽々はがき2009」から拝借しました
奈良の地誌の奥の深さを改めて実感できる マニア垂涎のマニアックな探訪ですね
しかし 謎の解明には執念とたゆまない努力が必要ですね 心より敬意を表します
> 謎の解明には執念とたゆまない努力が必要ですね 心より敬意を表します
恐縮です。神社のことですので、きっと何か手がかりがあると見当をつけて、調べてみました。もともと葛木倭文坐天羽雷命神社があったという情報を得て、天羽雷命→織物の神さま→織姫・七夕というつながりが解明できました。
こういう作業は、ミステリーを解くようで、とてもスリリングでした。「知れば知るほど 奈良はおもしろい」ですね。
気になって今日早速自転車で見に行きました。
とても小さな神社ですが、
こんなところに、と思うと厳かな気分になりました。
> 自転車で見に行きました。とても小さな神社ですが、
> こんなところに、と思うと厳かな気分になりました。
もと葛木倭文坐天羽雷命神社の鎮座地ですから、やはり厳かな場所なのでしょうね。私もよく近くを通りかかりますので、いちど訪ねてみます。