tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の『はじめての修験道』(春秋社刊)まえがき

2023年08月26日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈自著(2)『はじめての修験道』〉(師のブログ 2013.6.9 付)。師と正木晃氏との共著『はじめての修験道』(春秋社刊)の巻頭文(まえがき)である。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録(2004年7月)された直後に刊行された。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28撮影)

〈自著の中では1番売れている本かもしれません。現在で4刷目。爆発的に売れるような本ではありませんが、ぼちぼち長く売れているのは嬉しいですね〉とのこと。今は5刷目だそうだ。共著なので、この文章も2人でお書きになった。では、以下に全文を紹介する。



自著(2)『はじめての修験道』
私の文章が載った書籍の紹介を終えましたが、自分の自著の紹介を引き続いて行っています。共著も入れて、計4冊。今日はその第2弾。『はじめての修験道』出版社: 春秋社 (2004/11)

本書は処女作『吉野薫風抄』の推薦文も書いていただいた盟友の正木晃先生との共著。私の自著の中では1番売れている本かもしれません。現在で4刷目。爆発的に売れるような本ではありませんが、ぼちぼち長く売れているのは嬉しいですね。2人で書いた巻頭の文章「表白」を以下転記します。

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「表白」
修験道というたぐいまれな精神文化を知ってほしい。山伏の本当の姿を知ってほしい。そういう想いから、この本は書かれている。書いたのは、現役の山伏と大学の宗教学者という2人組だ。

修験道は、1300年以上も前に活動した役行者が開祖だ。自然を先生として学び、日本古来の神々とインドからやって来た仏教の仏菩薩を、分け隔てなく尊崇する宗教だ。この修験道を実践する者を、修験者あるいは山伏という。験(験力=霊力)を求めて修行するから修験者、山に伏して修行するから山伏と呼ばれる。

わかりやすい例をあげると、宮崎駿さんのアニメ『となりのトトロ』や『もののけ姫』に描かれているみたいに、自然と人間が共生している世界が、修験道や山伏の世界なのだ。

ところが、山伏というと、テレビの時代劇では、悪役と決まっている。悪代官から「おぬしもワルよの~」といわれて喜ぶ悪玉商人の越後屋とか大黒屋などと並んで、ひどい嫌われ役で、当然だけれど、哀れな斬られ役でもある。どうしてこんなことになってしまったのか。原因は、明治維新から後の日本の歴史にある。

まず、明治政府は、修験道を徹底的に弾圧した。ひたすら富国強兵をめざした権力中枢からすれば、なによりも自然が大切と考え、地域に根付く神々や仏菩薩をあがめる修験道は「後進国日本」の象徴だったらしい。そこで、弾圧して、抹殺しようとした。あれほど仲睦まじかった神と仏も、むりやり離婚させられた。

この危機を、修験道は必死の努力で切り抜けはしたものの、修験道は迷信っぽくてくだらない宗教で、山伏は野蛮な悪い奴というイメージが、人々のあいだに定着してしまった。

大正も昭和も、その点はさして変わらなかった。修験道は弾圧こそされなくなったが、あいかわらず冷遇された。いまでも、山伏というと、テレビの時代劇では、悪役と決まっているのは、そのなごりといっていい。しかし、最近は事情が少しずつ変わってきた。修験道や山伏を再評価しようという気運が盛り上がってきているのだ。

特に平成16年(2004)7月、修験道の聖地として有名な吉野が、熊野や高野山とともに、世界遺産に登録されたことが非常に大きい。自然を先生として学び、日本古来の神々とインドからやって来た仏教の仏菩薩を、分け隔てなく尊崇する修験道こそ、日本の伝統文化の粋であり、世界に向かって誇るべきものだということが、ようやく理解されはじめたらしい。

あまり大きな声では言えないが、日本の伝統的な宗教や精神文化のなかには、賞味期限が切れかかっているものがかなりある。時代の変化に付いていけず、腐りかけていたり乾ききってしまっているのだ。

その点、修験道は賞味期限がまだたっぷり残っている。いや、それどころか、これからの対応次第で、ますます美味しく、しかも賞味期限が延びる可能性すら秘めている。では、これからの対応とは、いったいどういうことか。

それは、みなさんに、修験道というたぐいまれな精神文化を知っていただき、山伏の本当の姿を知っていただくことに尽きる。この本を書いたのが、現役の山伏と大学の宗教学者という二人組なのも、そこに理由がある。いわば現場と研究室から、最も新鮮な、しかもかたよらない情報を提供するためだ。

そして、できるなら、明治維新の神仏分離からずっと、近代化を推進する精神的な原動力として、日本人の頭を洗脳してきた一神教的な価値観をはらい清めたい。修験道のように、大自然と深く関わり、神と仏が仲良く暮してきた多神教的な価値観こそ、荒廃した日本人の心身を癒し、ひいては世界中の人々の心身を癒す、最高の方途なのだから。私たちは固くそう信じている。

この本を書くにあたり、さまざまな方々にお世話になった。まず、世界遺産登録にご尽力いただいたすべての方々に、あつくお礼申し上げたい。

修験道の信仰を、苦難を乗り越えて紡いできた先人たちの恩徳に感謝したい。そして、修験道大結集に賛同していただいた現代修験の正統なる継承者のみなさんと、世界遺産登録の喜びを分かち合うとともに、大護摩供出仕にあつくお礼申し上げたい。

春秋社の神田明社長、鈴木龍太郎編集長をはじめ、編集部と営業部の方々には、企画から本作りの最終段階まで、いろいろなところでお世話になった。とりわけ編集部の桑村正純さんには、具体的な作業のすべてにおいてご協力いただいた。あつくお礼申し上げたい。

平成16年9月吉日 田中利典 正木晃
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奈良のいいものを集めた「奈良のトビラ」(大阪編)、あべのandで 10月15日(日)まで開催!(2023 Topic)

2023年08月25日 | お知らせ
毎日新聞奈良版(8/19付)に、こんな記事が出ていた。〈奈良のいいもの、全国おじゃまします 編集者ら各地商業施設で出店〉。近鉄大阪阿部野橋駅近くの商業施設「あべのand」1階に、奈良のグッズを置くアンテナショップが出来ているのだ。
※写真は、1枚を除き8/24撮影。雷鳴がとどろき、激しい雨の降った日だった




真ん中奥に掛かっている衣類は、なんと!「もんぺ」だった

早速、昨日(8/24)訪ねてみた。これは良いものが揃っている。観光土産物のたぐいではなく、目利きが選んだ奈良の「本当に良いもの」が並んでいるのだ。許可を得て、店内の写真を撮らせていただいた。記事全文を紹介すると、


「奈良のトビラ」を企画した編集者の生駒あさみさん(右)とツアープランナーの岡下浩二さん
岡下さんが手にするのは奈良漆器の器だ。この1枚のみ、毎日新聞の記事サイトから拝借

奈良を愛する編集者らが全国を巡回してアンテナショップを開く取り組みを始めた。ものづくりに携わる県内の人たちの商品を各地でPRする。第1回目として大阪市阿倍野区の商業施設「あべのand」の一角で10月15日まで出店しており、来場を呼び掛けている。【吉川雄飛】



「奈良のトビラ」と銘打ったプロジェクト。県内の魅力を伝える書籍やウェブサイトなどの制作に携わる編集者のほか、イベントや旅行ツアーの企画・運営を手がける人たちで企画した。アンテナショップは自治体などが地元の特産品を知ってもらうため、特定の場所で店を構えることが多い。しかし、より多くの人に奈良の魅力を伝えたいと、各地の商業施設などで間借りして出店する形式にした。



企画メンバーの一人で編集者の生駒あさみさん(45)=奈良市=は「奈良にはいいものがたくさんあるのに知られていないことが多い。私たちが全国を回り、一人でも多くに魅力を伝えたい」と語る。プロジェクト名には、奈良に興味を持つ始まりの場所になればとの思いを込めた。企画したメンバーが仕事で関わった人に出品を打診したところ、50超の事業者から300種類以上の商品が集まったという。



第1弾として出店した「あべのand」は周囲に雑貨店やスーパーがあり、さまざまな世代が訪れる。こうした人たちに日ごろから使ってもらえるよう、正倉院宝物をモチーフに和紙で作ったメモ帳や、薬草の大和当帰の葉を使った入浴剤など生活雑貨を中心に取りそろえた。奈良漬けや奈良漆器といった工芸品なども扱うが「歴史や特産品にこだわりすぎず、『奈良のいいもの』というコンセプトに沿った商品を選んだ」と生駒さん。暮らしの中で奈良の良さを感じてほしいというのが狙いだ。



「赤膚焼に、こんな器があったのか!」と驚いた。並みのセンスでは、こんな選択はできない

大阪での開催期間中、奈良に詳しいライターらがスタッフとして常駐して県内の見どころなども紹介する。県内市町村が主催のワークショップなどのイベントも週末に開かれる。今冬には東京での出店も考えている。生駒さんは「奈良に興味を持つ人を増やすことにつながればうれしい」と意気込んでいる。

〈今冬には東京での出店も考えている〉とのことで、これは頼もしい。奈良のいいものを全国に発信していただきたい。皆さんも、ぜひ「あべのand」に足をお運びください!

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田中利典師の「平和の祈りのメッセージ」(奈良県宗教者フォーラム 2013)

2023年08月24日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「人が信じる、すべての神と仏に、合掌」(師のブログ 2013.5.21 付)。第10回奈良県宗教者フォーラムの平和祈願祭で、師が発信された「平和の祈りのメッセージ」である。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28撮影)

このフォーラムは、奈良県内の宗教団体が集い、宗教や宗派を超えた交流と対話を深める催しで、今も続けられている。この時、利典師は同フォーラムの実行委員長、平和祈願祭での大護摩供の導師、フォーラムのコーディネータの三役を見事にお務めになった。では、ブログ記事の全文を以下に紹介する。

「人が信じる、すべての神と仏に、合掌」

ここ数日にわたって、とても大事なお役わりの仕事を果たすことが出来て、ほっとしています。もちろん自分だけの力ではないのですが、私だから果たす役割というのもあったように思います。自分の力を越えた役割は自分自身を磨いてくれますし、鍛え上げてくれます。たとえば5月14日に終えた奈良県宗教者フォーラムと昨日の紀伊山地三霊場会議高野大会は、まさに私にとって、晴れ舞台でしたね。

そんな晴れがましいことがやりたくてやってきたわけではないですが、結果的に、東大寺や薬師寺、春日大社、天理教などなどをはじめ奈良県中の宗派をこえた宗教者が修験道をテーマにしてフォーラムを各寺社がお金まで出してやってくれて、その実行委員長、平和祈願祭の大護摩供導師、フォーラムのコーディネータの三役を、私が皆に望まれてやらせていただいたわけです。

また昨日の紀伊山地三霊場会議では、高野山金剛峯寺を思うがままにつかって、施設の使用だけではなく、松長座主の講演をはじめ宗務総長以下内局全員が参加して、総会や懇親会が開けたことも、なんともいいようがない使命と充実感を感じました。でもまあ、調子に乗らないようにしないと、いけませんね。

以下、5月14日の奈良県宗教者フォーラムでの、平和祈願祭で読み上げた、「平和の祈りのメッセージ」と転記します。奈良県中の宗教者の方が共同して、このメッセージが発信出来たことも大きな喜びです。

*************************

奈良県宗教者フォーラム実行委員会「平和の祈りのメッセージ」
「人が信じる、すべての神と仏に、合掌」


私たち人間は、地球の住人です。その地球、そして大宇宙の森羅万象の中で、私たち人間は特別に優れているとか、劣っているとか、そういうことはありません。あらゆる命、あらゆる存在が、全て等しくこの世にあります。

しかし、人間はその真理を忘れ、今に至りました。欲望を満たすことだけが生きる意味ととりちがえ、森羅万象をないがしろにする。人間同士、些細な理由で互いをわけへだて、差別する。宗教、人種、歴史、文化…。互いの価値観のちがいを、ことさらにあげつらい、
蔑み、妬み、争い、ときには殺し合う。なんとあさはかなことでしょう。

歯止めのきかない自然環境破壊、頻発するテロや戦争、すべてが、その結果です。今、人間はみずから播いた災いの種に苦しめられています。そして、この苦しみは、私たちの子や孫の世代まで、そのもっと、ずっと先の世代まで続くのです。

人間は、自然との深い関わりなしに、その歪んだ心を正すことはできないのです。山に伏し、野に伏し、自然を、そこに坐す神仏を祈る修験道は、そうした人間の心に巣食う罪、過ちを戒め、五体を通した修行の中で、清め、再生することを実践してきました。大自然の霊気に接することで、山を、木々を、一切の存在、命を敬い、感謝する心を育んできました。

人と人は、過去にとらわれず、互いを思いやる。すべてを咎めず、許す。その精神は「恕」の一文字に集約されます。私たち第10回奈良県宗教者フォーラム「神と仏と日本のこころ」実行委員会は、この「合同平和祈願祭・修験道採灯大護摩供」に際し、神道・仏教・修験道さらに天理教や立正佼成会など日本で育まれたあらゆる宗教の垣根を越えて、この「恕」の心を、世界に、未来に発信します。

そして、地球上の山川草木、さらには大宇宙のありとしある全存在とともに、宗教、人種、歴史、文化の違いを超え、すべての人間に、森羅万象の一切に、「地球平穏・世界平和」への祈りを捧げ続けることを宣言します。

第10回奈良県宗教者フォーラム実行委員会 委員長 田中利典 敬白
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キャンパーの皆さん、しないでください!火気の使用、ゴミの放置

2023年08月23日 | 環境問題
先週の奈良新聞(2023.8.17付)一面トップに〈川上村行楽地、マナー違反に苦悩の声 放置ごみ絶えず 山火事の恐れも〉という大きな記事が出ていた。全文は画像を見ていただくとして、リード部分には、
※トップ写真は、奈良新聞の記事サイトから拝借した

バーベキューをキャンプ場で楽しむなど、環境に配慮したアウトドアレジャーが主流になる中で、気ままに遊んだごみを河川敷などに放置して立ち去るマナー違反がなくならない。奈良県川上村では先月、無人の河川敷で放置ごみが燃え出し、野焼きなどを禁じた廃棄物処理法違反の疑いで吉野署が捜査している。村は啓発やパトロールを通じて環境保全を根気強く訴える。

昨年の8月には〈クマ目撃相次ぐ 放置ゴミ影響か〉という記事を紹介したが、今回は河川敷の大きな切り株を「焚き火台」代わりに使っていて、職員が現場確認中に再燃したというから、より悪質だ。可燃物の上で焚き火をするなど言語道断、山火事になったらどうすると言うのだろう。これはマナーの問題というよりもはや犯罪(廃棄物処理法違反)である。村は今年8月4日から、「しないでください!」という動画を配信し、啓発に努めている。


毎年5月頃になると、100円ショップなどに「キャンプ用品」のコーナーが出来て、多種多様な商品が並ぶ。テントやシート関係、テーブル関係、コンロ関係、調理器具・食器、保冷グッズ・水タンク、ランタン・ライトなどが安価で買えるのである。

しかし金属製品やシリコン製品など、家庭用に買ったとしてもゴミ出しの分別に悩むものも多い。そもそも、このようなキャンプ用品を安価で提供することで、キャンプに慣れない(マナーをよく知らない)初心者キャンパーを大量に生み出しているのではないだろうか。

川上村では「森と水の源流館」が中心となり、大淀町の道の駅などで啓発活動を行っているが、むしろ、安価なキャンプ用品を大量に販売している100円ショップやホームセンター、スーパーなどに働きかけることが先決のように感じる。

それにしても、日本人のレベルも、落ちたものだ、嗚呼!

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田中利典師、若き日の「葬式仏教」論

2023年08月22日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」では、2003年2月に行われた「全日本仏教青年会全国大会」シンポジウムでの師の「まとめ」発言(前半部分)を紹介する(師のブログ 2013.5.18 付)
※トップ写真は、吉野山の桜(3/28撮影)

このシンポジウムの模様は、全日本仏教青年会編『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』(白馬社刊)として刊行されている。シンポジウム当時、利典師は意気盛んな47歳。「葬式仏教」と揶揄される仏教に対する、僧侶側からの意見表明である。

最近では、通夜も葬式も行わず、病院や自宅から直接葬儀場へ向かって火葬するという「直葬」も行われているので、当時とはまた様相を異にするが(葬儀自体のお坊さん離れ)、当時の青年僧の発言として、興味深い。では、以下に全文を紹介する。

シリーズ・山人の自薦書籍(12)
『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』


シリーズ「山人の自薦書籍」(12)…いろんなお陰様で、私は自著以外でもたくさんの関連書籍を出していただいています。その第12弾。『葬式仏教は死なない―青年僧が描くニュー・ブッディズム 』出版社:白馬社・編集:全日本仏教青年会 (2003/08) 。

本書は私が全日本仏教青年会の副理事長時代におこなった全国大会のシンポジウム記録。大樹玄承さんが理事長だったけど、大会の仕切りを友人のT氏に依頼して、理事長以下、加盟団体のみなさんの協力を得て、ほとんどふたりで中身はやらせていただいた。

はじめから青年会の編集で、記録集を作成するつもりで大会も企画したが、シンポジウムで講師のひろさちやさんがコーディネーターの私やパネリストの高橋卓志さんとのやりとりで、怒ってしまい、ひろさんが呼んでいた春秋社での出版が出来なくなり、T氏のご縁で、京都の白馬社から上梓することとなった、なかなか苦労した本。

ひろさんが怒っちゃったので、かえって、シンポは面白くなりました。でもあとで謝ったけど、どうしても許してもらえなくて、出版社を替えないと上梓できなかったのです。

ひろさんの講演と私がコーディネートしたシンポジウム記録や葬式仏教の現状を調査した報告書のほか、「青年僧が描くニュー・ブッディズム」と題した私のまとめ文も載っている。もう10年も経つが、私が仏教青年会でいろいろやらせていただいた集大成の一冊(私は副理事長を7年させていただいた。結構、異例なのです)。

もちろんAmazonでは新品は売ってないが、中古品はあるらしい。金峯山寺ではまだ在庫があります。以下、所収された私の文章の原稿がありましたので、最初の部分を添付します。ご参照ください。考えが、若ーーい!…正直照れる。。

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まとめ――青年僧が描くニュー・ブッディズム 田中利典

シンポジウム中でもコメントしたが、私は昔「檀家制度があるかぎり、僧侶の資質は上がらない。日本仏教をダメにする」と思っていた。しかし近年は宗旨替えをして「檀家制度があるからまだましなんだ」と思うようになった。

偉そうに言うと「今ならまだ間に合う。日本仏教も捨てたものじゃない」と思っているのである。全日本仏教青年会全国大会「葬式仏教を考える~日本仏教活性化への道」のテーマに関わったのはまさしくそういった思いを持ってのことであった。

◎「葬式仏教」と揶揄される二つの理由
「葬式仏教」という言葉は、僧侶が自らを認めて使う言葉ではなく、外から仏教のあり方を揶揄して使用される批判的な言い方である。全国大会のテーマを決める実行委員会の席上、一部の理事から「僧侶自らが葬式仏教という言葉を使うのには抵抗がある」と反対意見が出たのも、世間の批判に対する嫌悪感の表れであろう。ではその葬式仏教のどこが問題なのであろうか。私は2点を考えている。

1つ目は仏教原理からみて葬儀に関わる仏教は間違いである、という見方である。基調講演の中でひろさちや氏も「お釈迦さまは葬儀は出家者のすることではないと言われた」と述べられ、「今の日本の様子をみたらお釈迦様はさぞや驚かれるだろう」とさえ言っておられる。

ところが逆にそんなことを聞いたら「えー、お釈迦さんってお葬式の親分じゃないの?」と一般の人からはびっくりされるくらい、日本仏教は仏教本来の原理原則から離れ、葬儀や法事に奔走している感がある。実際に今回の全国大会に際して行った僧侶アンケートの結果を見ても、その7割以上が、葬儀あるいは法事や墓地に関わる葬送儀礼の収入に依存しており、祈祷や拝観収益などを大きく凌駕していた。葬式仏教と言われる所以である。

しかし、だからといってお葬式や先祖回向に携わってきた日本仏教が全否定されるわけではないと私は思っている。シンポや全体会でひろ氏が述べられた仏教原理主義への回帰は見識である。仏教原理を離れてしまっては仏教でもなんでもなくなってしまう。

しかしながら私たちの先人は仏教伝来以前からある、我が国独特の祖霊信仰や、あるいは後に出てくる怨霊思想などと仏教原理を融合させ、日本ナイズした形で受容して、日本の精神文化を形成してきた。原理を捨てたのではなく、活用して変容させ、日本文化の血肉としたと言えるのではないだろうか。少なくとも今の日本仏教の基盤はそこにある。

問題は葬儀への関わり自体を否定するのではなく、仏教原理をどう活かして葬儀に携わるのかということであろう。今、多くの僧侶は宗門立の大学で仏教を学ぶが、大学で学ぶ仏教は仏道の実践ではなく、頭で学ぶ仏教原理ばかりである。そして卒業した彼らが直面する現実は葬式仏教の現場である。肝心の、大学で学んできた仏教原理をどう実践し、どう活かしていくかは個々人の問題として、放置されたままなのである。

2つ目の問題点は、肝心の僧侶たちがはたして葬儀自体を厳粛に執行できているのかという問題である。こういっては失礼かも知れないが、葬儀屋さんは商売で葬式をしている。同様に僧侶も商売で葬式をしている、とすればまさに葬式仏教、葬式坊主のそしりは免れない。

人生最終の通過儀礼の場で僧侶が必要とされているのは、宗教人としての聖職性や引導者としての信頼性があるからである。仏教原理の体現者としての実践性に帰依をするから、檀徒は檀那寺に信頼を寄せてきたのである。

それが檀家制度に胡座(あぐら)をかき、寺を私物化し、商売で葬式をやっているかのような姿勢を僧侶が取ったとき、葬式仏教と揶揄されることになったのではないだろうか。葬式を厳粛に執行しているというのは、仏教者として真摯に関わっているということである。

アンケート調査の結果を見ても「葬式仏教と批判されても仕方がない事実がある」と答えた人が8割を超え、僧侶自身の後ろめたさを感じさせる結果となったが、もっと自信をもって僧侶として葬儀に関わらなくてどうするんだ、と言いたい。

葬儀屋主導である、時間が限られている、などという言い訳も聞きたくない。たとえどうであれ、三界の導師として、死者や遺族に向き合う自信がなくて、僧侶と言えるであろうか。葬式仏教大いに結構! と言い飛ばすくらいの信心決定がないのなら、商売坊主に違いないのである。

◎葬儀をめぐる現代的問題
実は葬儀の問題は大変に複雑な要素を含んでいる。「葬儀は習俗である」とひろ氏は一刀両断にされたが、今はその習俗・習慣もくずれている。

明治初期に行われた神仏分離施策によって、神仏習合という我が国の精神文化の基層の部分を支えてきた独特の習俗は打ち壊され、戦後は家や家族、村を中心とする共同体社会の急速な崩壊によって、精神文化だけでなく慣習や社会制度など、あらゆる分野で大変革を迎えた。その結果、僧侶も習俗がわからない。神官も、村の長老もわからない。だれも習俗がわからなくなっている。

そもそも仏教葬儀式自体が習俗の上に、各宗派の教義を融合させて出来上がったという経緯がある。だから同じ宗派の葬儀式や追善儀礼も、土地土地によって多種多様である。その習俗が壊れ、変容している現状の前に、僧侶もまた立ちつくしているといえよう。正しい葬儀とは何なのか、今は誰もがそれを知らない時代なのかも知れない。「自分らしい葬儀」「友人葬」「音楽葬」などが流行る所以である。

しかし仏教徒としての葬儀、僧侶が関わる厳粛な葬儀を行うという定義は明白であろう。宗旨によっていささかの違いはあるにせよ、仏教原理の体現者として、死者に対してはこの世の執着を除き、遺族には故人の死への悼みを癒すと共に、死を通して今生の自らの命の意味に目覚めさせる務めを果たすことであろう。シンポのまとめとして私が提言した「オーダーメイドの葬儀を心掛ける」とはそういう意味である。

実は冒頭で「檀家制度が日本仏教をダメにする」と書いたのには2つの意味合いがあった。1つは檀家制度によって日本仏教は葬式仏教化し、社会のインフラが整い分業化が進んだ今日では寺院は葬儀のみをすればよいということになって、仏教本来の仏教教理の体現という側面が損なわれたという点と、檀家制度は寺族の世襲制や寺院私物化を促し、僧職自体が職業化してしまった点である。いずれにしても僧侶としての資質を問わずに僧侶となってしまう状況を生んでしまったというような一面を持つ。

しかしながらマイナス面だけを見ていた若い頃と違って最近檀家制度の優れた面に目がいくようになった。日本仏教は明治初期に起きた神仏分離政策による廃仏毀釈運動や、戦後の農地解放による寺院の財政基盤の喪失など近代社会を迎えてから幾たびかの大きな法難に遭っているが、ある意味、檀家制度が支えとなって生きながらえた。

もちろん先に指摘したとおり、僧侶の資質を低下させた面もあろうが、傍らでは多くの優れた僧侶を輩出してきた事実もある。日本仏教自体が死に絶えてはどんな優秀な僧侶も生まれ得ないだろう…。
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