近頃とみに政治家が拙速ということばを使う。わかったようなつもりで聞き流していたが、実は意味を知らなかった。愛用している電子辞書の広辞苑による全文を転載してみよう。〔【拙速】せっ・そく 仕上がりはへたでも、やり方が早いこと。「兵は―をとうとぶ」「―を避ける」⇔巧遅〕
読んで、いろいろと想うことがあった。つたないけれどはやいのだから、兎と亀の寓話であったり、慌てる乞食はもらいが少ないであったり、急がば回れというような連想は瞬時にしたけれど、それより仕事における失敗経験や、目撃したことや、自分の周りの人たちの事々を想った。ところで乞食は不適切表現か?差別語ではないが侮蔑語か・・。
少し寄り道をしたい。「兵は拙速をとうとぶ」これは実にその通りではないか。目に見える結果を欲しがるのだ。戦いを運命づけられた者は戦いに焦がれ、手柄を立てることだけを目指した生き方になるのだろう。兵になること、それはすなわち人間性を殆んど捨てるということだ。
さて、想い浮かんだ仕事のこと。今まで職人といわれる人を多く見てきた。職人という言葉を使うと、かなりの人が伝統工芸の職人を思い起こす。そして、あこがれのような尊敬のような眼差しを向ける。職人というものが職業ではなく尊称のような使われ方をするのだ。
ところが、わたしのいう職人は建築関連の職人だ。一般の人からすれば、大工や左官は職人としての認識はあるかも知れないが、その他もろもろの建築職人は職人というイメージからは遠いのだろうと思う。わたしはその他大勢の中の一人だ。したがって、建築関連の人間以外に対しては職人という言葉をあまり使わない。恥ずかしくて少し嫌な思いをさせられるからだ。
建築職人はなにかといえば仕事の早さを求められる。『手が早い』というのは女性にまめだという意味ではなく、仕事が早いという意味でしか使われない。求められるだけではなく、職人もそれを競うのだ。早くなければ一人前の職人ではないとばかりに。そして拙速だ。殆んどの職人が拙速なんである。兵であることを求められるから拙速にしかならないのだ。
わたしは仕事が遅い。人の倍ほど時間が掛かるのだ。むしろ掛けることをモットーにしている程だ。でもって自分としては、時間をかけて何度も確認をしてやり直しも厭わずにゆっくり進めた方が得だと思っているのだ。クレームをつけようと身構えてくる嫌味な監督や元請や客はいくらでもいるから、多少は仕事が遅くて嫌味を言われても確実な方がいいだろうと亀の巧遅を目指すのだ。つまりいつまでたっても職人にはなれない。なりきれないんである。
巧遅は、〔巧みではあるが仕上げのおそいこと〕とある。拙速も巧遅も共に望ましいことではなく、一番いいのは巧速ということになる。巧速という言葉は広辞苑に載っていない。巧くて速いのは、職人というより達人なり名人ということなのだろう。
人に見られながら仕事をするのが嫌いだ。晴れがましいなどという言葉で、あまり見ないで欲しいとやんわり言う人もいる。私の場合、人の倍ほどの時間を掛けて仕事をやるから見られると困るのだ。見ていられると失敗もしてしまうのだ。何しろ建築現場というのは、同じ状況が殆んどないので、毎日が新しい事態と仕事の連続だ。集中力と注意力が必要なのである。
道路に面した仕事場で技を見せながら桶作りをする職人を、昼の食堂への行き返りに毎日横目で観ていたことがある。通過時の数秒だが毎日観るのが面白かった。いろんな工程があって、どの仕事をしているときも一定のリズムで揺るぎない自信にあふれているようだった。桶作りは伝統工芸になるのだろう。達人だと思った。民芸品の販売イベントなどや、観光地での○○彫りなんかの製作実演を見るたびにエライなぁと思う。手作業の仕事場が晴れがましいステージでもあるのだ。
でもわたしは建築現場での職人もどきなので、人の目から隠れるようにして時間をかけて、何度も何度も確認をして、小学校の家庭科で習った全返し縫いの案配で仕事をやっている。他の職人が昼飯を摂っている休み時間や10時3時の休憩時間はわたしのもっとも集中する時間帯だ。昼飯は食べたり食べなかったりで、話しかけられたくなくて、見られたくなくて、あくまでマイペースに拙速でも巧遅でもなく、拙遅(この言葉もなかった)と見なされて干されないように気をつけて仕事をしている。
手前味噌で言わせてもらうなら、今の急激な不景気にあって拙速はまことに具合が悪い。反対語を、巧みではあるが仕上げが遅いとしないで、遅いけれども巧みという捉え方で巧遅が良いこととして認知されるべきではないかと思っている。この頃は仕事自体が少なくなっているのだから、ゆっくり確実に巧くやろうじゃないか。今のところわたしに仕事があるのは、拙速だけは避けてきたからではないかと想っているのだ。
読んで、いろいろと想うことがあった。つたないけれどはやいのだから、兎と亀の寓話であったり、慌てる乞食はもらいが少ないであったり、急がば回れというような連想は瞬時にしたけれど、それより仕事における失敗経験や、目撃したことや、自分の周りの人たちの事々を想った。ところで乞食は不適切表現か?差別語ではないが侮蔑語か・・。
少し寄り道をしたい。「兵は拙速をとうとぶ」これは実にその通りではないか。目に見える結果を欲しがるのだ。戦いを運命づけられた者は戦いに焦がれ、手柄を立てることだけを目指した生き方になるのだろう。兵になること、それはすなわち人間性を殆んど捨てるということだ。
さて、想い浮かんだ仕事のこと。今まで職人といわれる人を多く見てきた。職人という言葉を使うと、かなりの人が伝統工芸の職人を思い起こす。そして、あこがれのような尊敬のような眼差しを向ける。職人というものが職業ではなく尊称のような使われ方をするのだ。
ところが、わたしのいう職人は建築関連の職人だ。一般の人からすれば、大工や左官は職人としての認識はあるかも知れないが、その他もろもろの建築職人は職人というイメージからは遠いのだろうと思う。わたしはその他大勢の中の一人だ。したがって、建築関連の人間以外に対しては職人という言葉をあまり使わない。恥ずかしくて少し嫌な思いをさせられるからだ。
建築職人はなにかといえば仕事の早さを求められる。『手が早い』というのは女性にまめだという意味ではなく、仕事が早いという意味でしか使われない。求められるだけではなく、職人もそれを競うのだ。早くなければ一人前の職人ではないとばかりに。そして拙速だ。殆んどの職人が拙速なんである。兵であることを求められるから拙速にしかならないのだ。
わたしは仕事が遅い。人の倍ほど時間が掛かるのだ。むしろ掛けることをモットーにしている程だ。でもって自分としては、時間をかけて何度も確認をしてやり直しも厭わずにゆっくり進めた方が得だと思っているのだ。クレームをつけようと身構えてくる嫌味な監督や元請や客はいくらでもいるから、多少は仕事が遅くて嫌味を言われても確実な方がいいだろうと亀の巧遅を目指すのだ。つまりいつまでたっても職人にはなれない。なりきれないんである。
巧遅は、〔巧みではあるが仕上げのおそいこと〕とある。拙速も巧遅も共に望ましいことではなく、一番いいのは巧速ということになる。巧速という言葉は広辞苑に載っていない。巧くて速いのは、職人というより達人なり名人ということなのだろう。
人に見られながら仕事をするのが嫌いだ。晴れがましいなどという言葉で、あまり見ないで欲しいとやんわり言う人もいる。私の場合、人の倍ほどの時間を掛けて仕事をやるから見られると困るのだ。見ていられると失敗もしてしまうのだ。何しろ建築現場というのは、同じ状況が殆んどないので、毎日が新しい事態と仕事の連続だ。集中力と注意力が必要なのである。
道路に面した仕事場で技を見せながら桶作りをする職人を、昼の食堂への行き返りに毎日横目で観ていたことがある。通過時の数秒だが毎日観るのが面白かった。いろんな工程があって、どの仕事をしているときも一定のリズムで揺るぎない自信にあふれているようだった。桶作りは伝統工芸になるのだろう。達人だと思った。民芸品の販売イベントなどや、観光地での○○彫りなんかの製作実演を見るたびにエライなぁと思う。手作業の仕事場が晴れがましいステージでもあるのだ。
でもわたしは建築現場での職人もどきなので、人の目から隠れるようにして時間をかけて、何度も何度も確認をして、小学校の家庭科で習った全返し縫いの案配で仕事をやっている。他の職人が昼飯を摂っている休み時間や10時3時の休憩時間はわたしのもっとも集中する時間帯だ。昼飯は食べたり食べなかったりで、話しかけられたくなくて、見られたくなくて、あくまでマイペースに拙速でも巧遅でもなく、拙遅(この言葉もなかった)と見なされて干されないように気をつけて仕事をしている。
手前味噌で言わせてもらうなら、今の急激な不景気にあって拙速はまことに具合が悪い。反対語を、巧みではあるが仕上げが遅いとしないで、遅いけれども巧みという捉え方で巧遅が良いこととして認知されるべきではないかと思っている。この頃は仕事自体が少なくなっているのだから、ゆっくり確実に巧くやろうじゃないか。今のところわたしに仕事があるのは、拙速だけは避けてきたからではないかと想っているのだ。