シンビジュームが花盛りだ。鉢植えをもらった9年前は水遣りを欠かさなかったので立派に咲いた。何を育てるのも下手なのだけれど、特に植物は駄目だ。だんだん花の茎がでなくなり、去年も全く駄目だったのだが、今年は4本も花茎が出て育った。ウチの鉢植えはたいてい底穴から根を地面にまで伸ばさないと生きていけない。今までどれくらい枯らしてしまっただろう。頂いた好意も買った期待も無にして・・。
でも何故かシンビジュームだけは強くて、半日陰のような場所において気付いたら適当に水をやり、冬には観葉植物代わりに玄関に入れたりしてるので、地面に根を伸ばすこともなく生きのびている。根はあまり伸びないものなのか・・? 花を咲かす技を調べるのは簡単なのだが、それをきちんと実行して毎年きっちり同じように咲かせるなんて、ずぼらなウチでは無理だ。
ところでシンビジュームは鉢のなかが窮屈じゃないと花を咲かせないのだそうで、何かしら示唆的だ。柿の木などは枝を折るどころか、幹に生木責めとか成木責めとかいってナタで傷をつけると実をたくさんつけるのだ。実際に傷をつけないまでも、実をつけないと切り倒すぞと脅す風習と言うのか、まじないと言うのかを子どもの頃やったと石川県出身の知人から聞いたことがある。
花だけを楽しむ花木にも、ナタ責めをするのがあるというのを読んだことがある。先日香川県の人参農家を取材したテレビニュースを観たが、ビニールトンネル栽培でも暑くなりすぎだとビニールに穴を空けるなどして温度管理をしつつも、何より水の制限をすることにより甘い人参になるのだそうだ。危機感から糖分を蓄えるのだ。たぶん。
先日生まれ故郷に法事ででかけ、農家の知人と話す機会があった。信濃川の水を利用している田より、山からの水を利用している田の方がだんぜん米がおいしいそうだ。科学的根拠をきちんと分析してもらったわけではないがと言いつつ、長い距離を流れてきて多くのモノを含んでいる水よりも、ほとんど何も含まない山からの湧水の方がいいのだと言う。
ここでいきなり人類の人口問題を見てみると、日本などで人口が減るのは当たり前のような気がする。自分を犠牲にしてまで、未来に花咲くようにと子に希望を託すことができにくいのだ。それに引き換え、発展途上国などでは、と言うより貧しい家庭では・・・ということで話を進めた方がいいような気がする・・・多少苦しくても家族を多くして互いを守る。つまり貧乏人の子沢山。よそから手も差し伸べられたりして、中から当然優秀な子もあらわれたり、ヒーローも出現したりするわけだ。花も咲くのだ。
これを民族や人種国家ということで論じたら差別意識や宗教が絡んで複雑になる。地域や環境ということで見るならば、高速大量情報化の進んだインターネット社会になったればこそできあがった、ドバイのような都市を、現代社会の全くのあだ花でしかないと見做したい。技術を結集し、エネルギーを大量浪費し、食料を簒奪する禍々しい都市。のような気がしてならない。でもあれは危機感からの開花なのだろうか?
何だか、連想が当初予定していたラインから外れて暴走しはじめた。これはまた改めて考えて書いてみたい。『あんた何様?』と読んだ方は思われるかも知れない。私は市井の生活者で運良くインターネットを楽しむことができてブログなんかも今のところできているだけの、半年先は分からない自転車操業一人親方だ。納まりがつかないので仕舞いは一人ツッコミ・ボケで居直ってみた。