2/11NHKドキュメンタリー『無縁社会 新たな“つながり”を求めて。』を観ていろいろと想うことがあった。どういう感想をもったかとか、その番組内容を説明するブログなどは膨大な量の発信が成されているだろう。
私が想った些細なことを一つ。『仕事』についてだ。仕事もなく社会とのつながりもない孤独な人が近所のゴミ拾いを始めるというシーンがあった。社会と繋がりを持つきっかけに一人でボランティア活動をするのは、実に自然な成り行きだと思った。
私は毎日、車であちこちに行っているので、そのような人を目撃することがある。複数で同じジャンパーなどのしるしを付けてやっているボランティアではなく、自分のオフィス前の清掃をやる人とも違う個人的ボランティアだろうと思われる人が原付バイクで投げ捨てられた空き缶を拾い集めながら道路端をゆっくり行くのを見たことがある。他にも善意の個人的行動をよく見るようになった。
高校生の頃、仕事という言葉が住んでいる場所によって違うことを知った。私は里山そのものの田舎に住んでいて、子供の頃から割り当てられた仕事があった。毎朝の拭き掃除や、時季に応じての薪割りや草取りや雪降ろしなどをやるのは、一人前にできなくても義務的に当たり前の役割だったので、それを仕事と呼んでいた。ところが、高校のある市の中心地に住む同級生たちにとって仕事とは金を稼ぐことだった。彼らはこじんまりした家に住み、小遣いも沢山なら、アルバイトをして賃金を得るのもいて金まわりが良かった。私の『仕事がある』と言った事について『何それ・・そんなの仕事じゃない』と馬鹿にする風だった。
話はずれるが、理科や物理でベクトルや熱量なんかを習う時に『仕事』や『仕事量』が出てくる。私は牧歌的な生活だったので素直にその言葉を受け入れることはできたが、街中で育った人らは受け入れにくかったのではないだろうか。仕事というのは経済活動をして賃金を得るものだろうに、と思ったりしなかっただろうか。
現代の世の中は、仕事というのを経済活動に狭めて使っている。「赤ん坊は泣くのが仕事だ」という言葉がある。泣くことは不満不快の自己主張だけれど泣いて肺が鍛えられるのだから、適度に泣かせておくのも必要ということなのだろう。
と、このように奇妙な羅列をしたのは『仕事』の意味を広義に使いたいからだ。自分はこの世にいても意味がないのではないか・・・社会に必要とされていないのではないか・・・と仕事のない孤立した生活をしていて絶望する人が多くいるようだ。何でもいいから、動いたらいいのに・・・動いたら、賃金は得られなくてもそれは広義の仕事になるのに・・・と想うのである。仕事とは人とのつながりを持つこと確認することだとも言えそうだ。
自分の身内のことを言えば、私の母は田舎で父の死後、独居老人となって7年間過ごした。認知症となり晩年を不幸なまま終えさせてしまった。独身を通している姉が東京で難病を抱えながらも働き独り暮らしをしている。もう一人の姉は長野県で子を成さず未亡人となり独り年金暮らしをしている。娘も東京で独り暮らしで自活している。何ということだろう。必要なときに助けを求める人が身近にいるのだろうか。
私は独り暮らしを独身時代に10年間したけれど、独りで住むことはもう考えられない。どのような形態であれ独り暮らしは避けて同居人のいる生活を続けようと想っている。私は孤独を愛する風によそおい、そんな思われかたをしているかも知れない。でも周りには宣言しているのだ。独り暮らしは不自然だから自分は決してしたくないと。不自然だけではなく不合理で不経済で不利益が多い。私には成したい仕事も成さねばならない仕事もわんさかとある。殆んど賃金にならない事だけが頭のなかで空回りしているだけだけれど、広義の仕事が一杯で風邪を引く閑などないのだと見えを張ってみる、或いは見えを切る。
私が想った些細なことを一つ。『仕事』についてだ。仕事もなく社会とのつながりもない孤独な人が近所のゴミ拾いを始めるというシーンがあった。社会と繋がりを持つきっかけに一人でボランティア活動をするのは、実に自然な成り行きだと思った。
私は毎日、車であちこちに行っているので、そのような人を目撃することがある。複数で同じジャンパーなどのしるしを付けてやっているボランティアではなく、自分のオフィス前の清掃をやる人とも違う個人的ボランティアだろうと思われる人が原付バイクで投げ捨てられた空き缶を拾い集めながら道路端をゆっくり行くのを見たことがある。他にも善意の個人的行動をよく見るようになった。
高校生の頃、仕事という言葉が住んでいる場所によって違うことを知った。私は里山そのものの田舎に住んでいて、子供の頃から割り当てられた仕事があった。毎朝の拭き掃除や、時季に応じての薪割りや草取りや雪降ろしなどをやるのは、一人前にできなくても義務的に当たり前の役割だったので、それを仕事と呼んでいた。ところが、高校のある市の中心地に住む同級生たちにとって仕事とは金を稼ぐことだった。彼らはこじんまりした家に住み、小遣いも沢山なら、アルバイトをして賃金を得るのもいて金まわりが良かった。私の『仕事がある』と言った事について『何それ・・そんなの仕事じゃない』と馬鹿にする風だった。
話はずれるが、理科や物理でベクトルや熱量なんかを習う時に『仕事』や『仕事量』が出てくる。私は牧歌的な生活だったので素直にその言葉を受け入れることはできたが、街中で育った人らは受け入れにくかったのではないだろうか。仕事というのは経済活動をして賃金を得るものだろうに、と思ったりしなかっただろうか。
現代の世の中は、仕事というのを経済活動に狭めて使っている。「赤ん坊は泣くのが仕事だ」という言葉がある。泣くことは不満不快の自己主張だけれど泣いて肺が鍛えられるのだから、適度に泣かせておくのも必要ということなのだろう。
と、このように奇妙な羅列をしたのは『仕事』の意味を広義に使いたいからだ。自分はこの世にいても意味がないのではないか・・・社会に必要とされていないのではないか・・・と仕事のない孤立した生活をしていて絶望する人が多くいるようだ。何でもいいから、動いたらいいのに・・・動いたら、賃金は得られなくてもそれは広義の仕事になるのに・・・と想うのである。仕事とは人とのつながりを持つこと確認することだとも言えそうだ。
自分の身内のことを言えば、私の母は田舎で父の死後、独居老人となって7年間過ごした。認知症となり晩年を不幸なまま終えさせてしまった。独身を通している姉が東京で難病を抱えながらも働き独り暮らしをしている。もう一人の姉は長野県で子を成さず未亡人となり独り年金暮らしをしている。娘も東京で独り暮らしで自活している。何ということだろう。必要なときに助けを求める人が身近にいるのだろうか。
私は独り暮らしを独身時代に10年間したけれど、独りで住むことはもう考えられない。どのような形態であれ独り暮らしは避けて同居人のいる生活を続けようと想っている。私は孤独を愛する風によそおい、そんな思われかたをしているかも知れない。でも周りには宣言しているのだ。独り暮らしは不自然だから自分は決してしたくないと。不自然だけではなく不合理で不経済で不利益が多い。私には成したい仕事も成さねばならない仕事もわんさかとある。殆んど賃金にならない事だけが頭のなかで空回りしているだけだけれど、広義の仕事が一杯で風邪を引く閑などないのだと見えを張ってみる、或いは見えを切る。