《月見櫓跡から サクラの鶴が城を望む》
本格的な春が来た。体調も何とか普通に元に戻った。明日の天気予報は雨降り、今満開のお城に行った。
三の丸から二の丸のテニスコート脇から、朱塗りの廊下橋を渡って天守閣に向かった。平日なのにやはり満開の桜、観光客でいっぱいだった。
廊下橋を渡りながら下の内掘りを覗いてびっくり、今まで見たこともない巨大な鯉が悠々と泳いでいた。周りの鯉が5~60cmであろう。とするとゆうに1m2、30あるのではないだろうか。お堀の主であろう。
《廊下橋》 《巨大な鯉》
桜の枝が内堀や石垣を背景に実に美しかった。
本丸の広場では地元の高校生がホームルームであろう、大勢で花見に来ていた。大きなゴミ袋持参だ。また物珍しい光景も目にした。観光客を案内する昔かたぎな人力車、また、どこから、なぜか、結婚式の最中に抜けてきたような花嫁・花婿が歩いていた。
お城に来るといつも決まったコースで本丸を一周している。天守閣が一番絵になる眺めは月見櫓跡からだと思う。荒城の月の歌碑のある櫓だ。桜の枝越しに天守閣を配置する撮影スポットを探しながら花の鶴が城を撮った。
鉄門から北出丸に向かう広場では植木市が行われ、周りの満開のサクラの林の中では花見客が塩ビのシートを敷いて宴会中だった。今夜はハナ金、最高の人手だろうと想像した。
《月見櫓跡から磐梯山が見える》 《鉄門から天守を望む》
● 鶴ケ城 (ネットから)
文禄2年(1593)年、蒲生氏郷が築いた7層の天守閣の姿が、鶴翼に似ていたことから名づけられた。 寛永6年(1627)加藤嘉明が伊予の松山から入府し、その子明成によりお城の大改修が行われました。二の丸・北出丸・西出丸から本丸への入り口に石垣を築き、枡形門が作られ、防備には備えました。寛永16年7層から5層に天守閣が改修され現在の白亜の天守閣が生まれました。現在の城は昭和40年に再建されたもの。
(2007.4.20)
本格的な春が来た。体調も何とか普通に元に戻った。明日の天気予報は雨降り、今満開のお城に行った。
三の丸から二の丸のテニスコート脇から、朱塗りの廊下橋を渡って天守閣に向かった。平日なのにやはり満開の桜、観光客でいっぱいだった。
廊下橋を渡りながら下の内掘りを覗いてびっくり、今まで見たこともない巨大な鯉が悠々と泳いでいた。周りの鯉が5~60cmであろう。とするとゆうに1m2、30あるのではないだろうか。お堀の主であろう。
《廊下橋》 《巨大な鯉》
桜の枝が内堀や石垣を背景に実に美しかった。
本丸の広場では地元の高校生がホームルームであろう、大勢で花見に来ていた。大きなゴミ袋持参だ。また物珍しい光景も目にした。観光客を案内する昔かたぎな人力車、また、どこから、なぜか、結婚式の最中に抜けてきたような花嫁・花婿が歩いていた。
お城に来るといつも決まったコースで本丸を一周している。天守閣が一番絵になる眺めは月見櫓跡からだと思う。荒城の月の歌碑のある櫓だ。桜の枝越しに天守閣を配置する撮影スポットを探しながら花の鶴が城を撮った。
鉄門から北出丸に向かう広場では植木市が行われ、周りの満開のサクラの林の中では花見客が塩ビのシートを敷いて宴会中だった。今夜はハナ金、最高の人手だろうと想像した。
《月見櫓跡から磐梯山が見える》 《鉄門から天守を望む》
● 鶴ケ城 (ネットから)
文禄2年(1593)年、蒲生氏郷が築いた7層の天守閣の姿が、鶴翼に似ていたことから名づけられた。 寛永6年(1627)加藤嘉明が伊予の松山から入府し、その子明成によりお城の大改修が行われました。二の丸・北出丸・西出丸から本丸への入り口に石垣を築き、枡形門が作られ、防備には備えました。寛永16年7層から5層に天守閣が改修され現在の白亜の天守閣が生まれました。現在の城は昭和40年に再建されたもの。
(2007.4.20)