建築雑誌08年04月号の表紙と特集記事
■ スティーブン・スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演の「ターミナル」、この映画の公開からもう3年経ちました。主人公ビクターは祖国がクーデターで事実上消滅、パスポートが無効になってアメリカ入国を拒否されます。出国も入国もできない状況に陥ったビクター、このにっちもさっちもな状況で彼はJFK国際空港の国際線ターミナルで生活することになります。
ビクターが空港という公的空間を私的空間として器用に使いこなし、やがて仕事を見つけ恋もするというストーリーでした。彼の空港での暮らしぶりは空間の公共性、私性を規定する根拠が曖昧で希薄なものであるということを示していて興味深いものでした。
ところで日本建築学会発行の「建築雑誌」の4月号の特集は「拡張する「私んち」?」です(写真)。電車の中で化粧に勤しむ人の出現からすでに久しいのですが、このような社会現象を建築的視点で捉えて空間の公共性、私性について考察しています。
**「私の家」という概念から少しはみだしたオルタナティブな「私の家的なるもの」の存在をこの「私んち」?という言葉に託した。**ということですが、この特集を先日目にして映画「ターミナル」を思い出しました。
電車内という公的な空間に出現する化粧のための「私んち」?。乗客が違和感、不快感を感じるのは公共空間の中に私的な領域が突如出現するから。親の顔が見たい「人の出現」などと社会現象として捉えるのではなく私的「空間の出現」と捉えるこの建築的視点って面白いかもしれません。
「私の家」を持たずネットカフェに暮らす人々、公共の場で暮らすホームレス、自宅に本のサロンをつくって地域に開放した研究者、遊歩道に蚊帳を張ってその中に私の部屋の一部を表出させる、千葉県の「おゆみ野の私んち」という試み。
この特集をとりまとめた杉浦久子さんはこのような現象を私有・公共の境界が変容、曖昧化している事例と指摘し、更にそこに新しい公共性/私性の萌芽を予測しています。
『「おじさん」的思考』内田樹/晶文社を読んでいますが、この中に「押し掛けお泊り中学性」というタイトルの論考が収められています。「押し掛けお泊り」とは本文の説明によると**住所を調べ上げて、前連絡もなしに合宿所よろしく突然人の家に上がり込んで好き放題する** ことだそうです。知りませんでした、そんなことが起こっているなんて。で、このような現象を建築的な視点で捉えると、私的空間に突如別の私的空間が出現してしまう、ということになるでしょう。この事態、驚く他ありません。
このような現象に応答するように空間を規定するハードな建築も変容していくことになるのでしょうか。
う~ん、どうなる建築? どうする建築?
■ 今月読んだ本、4冊。
『終らない旅』小田実/新潮社
ベトナムのホテルで偶然再会したふたり。男は日本人、女はアメリカ人。男がかつてアメリカに留学した時に知り合った女性との奇跡の再会。「偕老同穴」の恋のはずだった・・・、しかし男は阪神大震災で死亡、女は9.11に衝撃を受けて病没。
ふたりの恋をべトナムに神戸に辿ることになるそれぞれの娘、久美子とジーン。
戦争とはなにか、平和とはなにか、そして民主主義とは・・・。小田実の思索が恋愛小説という形式を通じて綴られていく。
例えばこんなくだり。
**「私の母はよく言っていました。」ジーンは久美子の反応に力を得たのか、先刻よりも自信のこもった、そう久美子に感じられた声で、軽くウェーブのかかった薄栗色の髪に手をやりながら言った。
「民主主義は、価値の多様性を政治的に容認、保障するとともに、各価値観の対等、平等関係を政治的、社会的に形成、維持する政治技術だ、と。」
久美子はそのあともつづけようとするジーンを、また「ジーン」と呼んでさえぎった。「私の父も私によく同じようなことを言っていました。」
ふたりの恋は理性的で良識的だった、と思う。
『風花』川上弘美/集英社
真人(まこと)、マコちゃんはのゆりの叔父。この物語はふたりが東京駅で待ち合わせて東北の温泉に出かけるところから始まる。
ふたりが叔父、姪の関係だという設定が不自然だと感じさせないところがこの作家。
**「ねえマコちゃん、わたし、離婚した方がいいのかな」のゆりが突然聞いた。真人は答えなかった。考えているらしい。
雪はまるで空気よりも軽いものであるかのように、なかなか地面には落ちず空中をただよっている。
「風花(かざはな)っていうんだっけ、こういうの」真人は言った。**
雑誌「すばる」に連載された恋愛小説、「風花」から季節は巡って「下萌」までの13章。
さて5月はどんな本と出会うことになるだろう。