透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

模倣について考える の巻

2008-08-17 | A あれこれ
 
信濃毎日新聞(0817)読書面より

○ 今日の朝刊の読書面に取り上げられた『<盗作>の文学史』栗原裕一郎/新曜社の書評の**倉橋由美子「暗い旅」や庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」における海外作品の「模倣」疑惑(後略)** という件(くだり)を読んであれっ?と思った。

芥川賞受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』は高校生のときに読んだ作品だが、模倣疑惑があったとは・・・。知らなかった(「有名な話なのに知らなかったの」という声が聞えてきそうだ)。

ネットで検索すれば何でも載っている。この模倣疑惑についても何件もヒットした。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は昨年だったけ、あるいはもう一昨年のことかな、村上春樹訳が出て話題になったが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』とこの作品のプロットや文体(野崎孝訳)とがよく似ているというのだ。

小説に限らない、芸術全般に模倣疑惑はある。もちろん建築作品にも。詳細はすっかり忘れたが、プレハブ住宅のメーカーが他社のデザインを模倣したとして訴えられたことがあった。

建築に限らないと思うが過去の作品の「写し」はよく行われるし、「オマージュ」も模倣につながりやすい、というか模倣ではないかという指摘もある。

現代建築のボキャブラリーはコルビュジエが全てつくってしまっているともいわれる。その後の建築家はコルビュジエから引用してるだけ、という指摘は極端に過ぎるとは思うが、オリジナルなデザインの創造はやはり難しいと思う。

人は「未知」な状態をなかなか認知しようとしない。「既知」のものに帰着させようとする「癖」が脳にはあるらしい。だから建築作品、いや芸術作品を鑑賞する時にも既知のものに結びつけようと脳はするのかもしれない。その反応が既視感となるのだ(などともっともらしいことを書いてしまおう)。

月の表面の影だって餅つきをするうさぎだとか読書をする女性だとかカニだとか、既知のものに見立ててしまうではないか。あるいは星座だってそうかも知れないぞ、ばらばらな状態、わけの分からない状態はやはりいやなのだ。そこでばらばらな状態を秩序付ける「星座という方法」を考え出したのかもしれない。

なんだか、まとまらなくなってきた・・・。いきなり書き出すからいつもまとまらないのだな。

人は全く未知の、オリジナルなものなど創り得ないのかもしれない。少年少女雑誌(例えば小学館の「小学一年生」などのような)に昔よく紹介された火星人だってタコのようだったではないか。そして提示された作品を鑑賞する際にも既知のものに帰着させようとする。

創造する人も観る人も知らないものは嫌なのだ。それ故「模倣」ではないかという感想は常についてまわるのだろう。

以上、眉唾な「模倣について考える」をでっち上げて本稿、おしまい。