■ 久しぶりに読んだ時代小説は『本所おけら長屋』畠山健二/PHP文芸文庫。おけら長屋の住人たちはまるで家族のようにお互い深く関わりながら暮らしている。みんな情に厚い人たちだ。
**「大変なことになったよ。もし優勝できなかったら、この長屋じゃ暮らしていけないからね。せいぜい精のつくものを食べさせないと」(中略)「そうだね。なんたって、お梅ちゃんの幸せがかかってるんだから」「亭主にはね、もし負けたら離縁だって脅かしてやりましたよ」**(271頁)「ふんどし」では長屋対抗相撲大会で優勝を目指すおけら長屋の住人たちの奮闘ぶりを描いている。彼らには優勝しなければならない理由がある。収録されている連作7編の中ではこの「ふんどし」、それから「はこいり」のラストの落ちが好き。
現在12巻ある『本所おけら長屋』、月2巻のペースで来年の5月には読み終えることができる。
■ さて、『ことばの教育を問いなおす』鳥飼玖美子・苅谷夏子・苅谷剛彦/ちくま新書。
ことばは言うまでもなくコミュニケーションのツールだが、思考のツールでもある。私たちは日本語で会話し、日本語で考える。「うそ」「やばい」「まじ」「むり」ごく短い表現による会話。これはコミュニケーション力の低下を招く(あるいはその結果か)だけでなく、思考力の低下も招く。これは由々しき問題だ。
明治初期、福澤諭吉らが日本にはない外国語の概念に日本語の訳語を創り出した。これはすごく重要なことで、学術的な分野においても優れた業績を残すことができているのは、日本語でどんな事でも考えることができることに因る。ところが今はカタカナ語や省略語が氾濫している。これもまた困った問題。
このような問題意識から先日、書店でこの本を買い求めた。
本の帯には**(前略)言語と思考という本質的な問題です。「ことばの力」が大切なのは、それが「考える力」と深く密接な関係があるからで、表面に現れる「ことば」の基底に存在する「考える力」をどのように育てるのか、それを追求するのが教育である、と確認したのが、本書の結論と言えるかもしれません。**とある。
じっくり読みたい1冊。