透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

― 火の見櫓観察入門 柱の数(再掲)

2019-12-19 | A 火の見櫓っておもしろい

 柱の数に注目してみましょう。

火の見櫓の柱の数は1本、2本、3本、4本とあります。ただし「櫓」とは立体的な構造のことですから柱が1本、2本の場合は狭義には火の見「櫓」ではありません。1本の場合は火の見柱、2本の場合は火の見梯子と呼称すべきでしょう。ただし広義にはこれらも火の見櫓としています。


① 1本柱 実にシンプルな造り 

半鐘を吊るしている腕木(横材)の位置が絶妙。これより上でも下でも見た目のバランスが良くないでしょう。


② 1本柱 梯子が架かっていて、見張り台もある火の見柱 戸倉上山田にて 写真提供:Tさん


③ 2本柱 火の見梯子  大町市美麻にて

梯子タイプでも半鐘に雨がかかるのを防ぐために小屋根が付いているのも珍しくないです。この写真の例では柱の上端まで屋根で覆っています。


④ 2本柱 火の見梯子 恵那市の大正村にて 

柱が木ですが、火の見櫓の材質については別の記事で。



⑤ 2本柱 北杜市にて

これを3本柱と判断するかどうかですが、梯子に控え柱(つっかい棒)がついたものとみるべきでしょう。


⑥ 3本柱 松本市にて

3本柱の火の見櫓 平面形が正3角形で櫓の3面が同じ構造になっているのが基本タイプ。松本平ではこのタイプが多い、という印象です。


⑦ 3本柱 北杜市にて

これは⑤の梯子につっかい棒のタイプと似ていますが、斜材を横架材で繋ぎ、ブレースを入れていることから櫓を構成する部材であることが分かります。従ってこれは3本柱の変形タイプです。


⑧ 4本柱 安曇野市明科にて

4本柱の火の見櫓は東信や南信方面に多い、という印象です。

以上が柱の本数に注目した火の見櫓のタイプ分けです。

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5本以上の柱タイプもあり得ますが、おそらく存在しないでしょう。わざわざ柱を5本、6本にする必要性がないからです。それでも何か特別な理由で、5本以上の柱の火の見櫓があるなら、たとえ遠くでも見に行きたいと思います。

この件を『あ、火の見櫓!』に書きました(152、153頁)。
茨城県に6本柱の櫓があることをある方に教えていただき、2016年9月に見に行ってきました。


20140119


― 小谷村の火の見櫓

2019-12-19 | A 火の見櫓っておもしろい

 


(再)北安曇郡小谷村 この茅葺きの小谷村郷土館はもと村役場だったとのこと 撮影日191219

 来年から意図的に火の見櫓の撮り方を変えようと思っているが、そのための準備として試してみた。単なる火の見櫓のある風景という写真ではない。では何か、と問われても今のところ自分でもよく分からず、答えることができない・・・。




 


― 十を知って一を書く(加筆・再掲)

2019-12-19 | A 火の見櫓っておもしろい

■ 私が遠い昔に在席していた大学の研究室では研究生活の心得を標語にしていた。

全体から部分へというのは、いきなり各論(部分)に入るのではなく、まず総論(全体)からという研究論文の構成に関する標語。例えば東北地方の民家の形式や構造を論ずるにしてもまず全国の民家を論じて、その中に東北の民家を位置づけてから、ということを学生に理解してもらうためのもの。日本を論ずるならば、まず世界を論じ、その中に日本を位置づけてからというわけだ。この標語は研究そのもののあり方を示しているともいえるだろう。

全体像と部分詳細のT字型構造も結局は同様のことを示している。総論だけでは論文としては「弱い」し、かといって各論だけでは、それが研究分野のなかにどのように位置づけられるものなのかがはっきりしない。まず広く総体を押さえてからその一部について(つまり研究対象について)深く掘り下げて論ぜよということだ。

前段が長くなった。本稿のタイトルはそのうちのひとつ、十を知って一の説明という標語を思い出してつけた。

このところブログで火の見櫓を盛んに取り上げているが、それぞれの火の見櫓には誕生から今現在に至るまでのものがたりがある。下は長野県の山形村は下竹田という地区の火の見櫓の脚元に置かれている「警鐘楼建設費寄附者芳名」表示板の写真だが、ここには約250人の氏名と寄付金額が記入されている。「昭和参拾七年六月貮拾四日」とあるから、今から50年前に地元の多くの人たちの寄付によって火の見櫓が誕生したことをものがたる貴重な資料だ。新しく建設する火の見櫓に寄せる当時の人たちの期待、思いが伝わってくる。

 

建設当時のことを知る古老に聞き取り調査をしたり、資料を探したりして、そのようなものがたりまでも読みとる努力をしなければならないだろう。それには厖大な労力を要するが・・・。多くのものがたりの上に火の見櫓は立っている、ということを意識すべきだ。

また、全体から部分ということから火の見櫓を論ずるならば、まず「櫓」や「塔」にはどのようなものがあるのか、その全体像を明らかにした上で、その中に火の見櫓を位置づけてからという手続きを踏むべきだったと反省する。別に学術的な研究をしているわけではないと言い訳をすることもできるが・・・。

先日(20120918)地元の「松本平タウン情報」という新聞に火の見櫓を紹介する記事が掲載された。安曇野のヤグラーのぶさんと私へのインタビューをまとめた記事だが、紹介された火の見櫓のうち、ひとつは火の見櫓ではなく、太鼓櫓だという指摘が読者からあったようだ(*1)。

前述したように櫓にはどのようなものがあるのかをきちんと調べておけば、あるいは気が付いたかもしれない、と反省している。

ああ、たかが火の見櫓、されど火の見櫓・・・。


2012年9月に掲載した記事に加筆して再度掲載する。 

追記
・拙著『あ、火の見櫓!』は上記のことを意識して書いた。
・*1については拙著のコラム1に書いた。
・十を知って一を書く、ということに関しては火の見櫓の歴史については十を知って十を書くといった状況で全く余裕がな かった。内容に誤りがあればご指摘願いたい。このブログで訂正記事を書きたい。