透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

松本市内にもあった濱 猪久馬の半鐘

2022-03-21 | A 火の見櫓っておもしろい

 濱 猪久馬。辰野町が登録有形文化財の指定を目指す小野下町の火の見櫓(写真①)の半鐘に銘があったことで知った鋳物師の名前。濱 猪久馬は松本城主小笠原貞慶( さだよし/さだのり)により相模国から松本に招かれて松本城近くで鋳物屋を興し、勅許御鋳物師(ちょっきょおんいもじ)として武具や仏具などを製造した濱 伊右衛門清賢の後裔。

猪久馬は安曇野市穂高の有明山神社里宮の裕明門の随神(主神に従い守護する神)も制作していた(写真②③)。


辰野町小野下町の火の見櫓 見張り台の半鐘が濱 猪久馬の作 撮影日2017年5月21日


有明山神社里宮 裕明門の随神(左) 撮影日2022.03.20


裕明門に向かって右側の随神は濱 鑛一が、左側の随神は濱 猪久馬が制作した。両人は親子か兄弟、もしくは親戚関係にあるようだ。


松本市高宮北、国道19号沿いの火の見櫓 見張り台の半鐘が濱 猪久馬の作 撮影日2015.04.04

松本市高宮北の火の見櫓(写真④)は2021年8月20日に解体撤去された。看板が写っているめいてつショーホールも今はない。見張り台に吊り下げてあった半鐘は火の見櫓が解体される前に取り外されていた(過去ログ)。その半鐘の所在が分かり、今日(21日)幸運にも見る事ができた。


松本市高宮北の火の見櫓の見張り台に吊り下げられていた半鐘 高さ約43cm、口外径約30cm。辰野町小野下町の火の見櫓の見張り台の半鐘と乳や帯など、表面のデザインは同じ。


縦帯に松本市役所と刻字されている。


反対側の縦帯に大正三年四月 松本市鋳物師 濱 猪久馬  製造と刻字されている。刻字を見て「あ、猪久馬だ!」と思わず声に出してしまった。

解体撤去された火の見櫓は1930年(昭和5年)に建設されたことが取り付けられていた銘板で分かっている。この半鐘が製作されたのは1914年(大正3年)だが、火の見櫓に設置されるまでどこにあったのだろう・・・。この半鐘にも小野下町の火の見櫓の半鐘と同じ疑問がわく。

このことについて以下の2つの説があるようだ。

かつて松本市鎌田に正福寺という古刹があったが、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となった。この時、同寺の観音堂にあった小鐘を消防組(という組織名か?)が預かったために難を逃れたのではないか、という説。尚、観音堂も難を逃れたようだ。

観音堂(写真⑧)の北隣に消防組の詰所と松本市役所の支所(現在は鎌田公民館になっている。写真⑨)があり、小鐘は観音堂ではなく支所に吊り下げてあったのではないかという説。半鐘に松本市役所と刻字してあることから、こちらの方が有力か・・・。


鎌田北向観音堂


鎌田公民館

人に家族に地域に物語(歴史)があるように、個々の火の見櫓にも物語があることを改めて思い知らされた。


 


香炉の向き

2022-03-21 | A あれこれ


 位牌や仏具を移動して仏壇の拭き掃除をする。位牌や仏具を元の配置に戻すとき、以前は香炉の向きに迷った。香炉は3脚だが、それをのように仏壇の手前(図の下側)を2脚にするのかそれとも奧(図の上側)を2脚にするのか、どっちだっけ・・・。

今月14日に善光寺参りをした。

本堂前に設置されている大香炉に線香を供え、その煙を頭にかけた。無病息災の功徳があると言われている。その時、初めて香炉の脚部に注目した。3本脚の2本を本堂側に向けて設置している。そう、仏壇の香炉の向きもこれと同じで奧に脚を2本、手前に1本が正しい。この様子を記憶すれば間違えることはない。


脚部詳細 こんな意匠になっているんだ。初めて注目した。


春彼岸 墓参り