透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

朝焼けの詩

2015-07-14 | E 朝焼けの詩


夏のフォトアルバム 撮影日時150714 04:47AM

 昔「朝やけの詩」という映画があった。熊井啓監督(松本高等学校OB)の作品で、主演は関根恵子。「朝焼けの詩」ではなく「朝やけの詩」と表記していたと思う。確か詩と書いてうたと読ませていた。

この映画は観ていないので内容は知らないが関根恵子のヌードが話題になった。映画のタイトルが気にいって覚えている。朝焼けという表記は硬い印象ではあるが、「朝焼けの詩」というタイトルで何回かブログに写真を載せてきた。

今朝(14日)4時半過ぎ、東の雲が朱色に染まっていた。山の稜線は低く垂れこめた雲に覆われていて、その上にある雲の下面が染まっていた。

その様はなんとなく不気味な感じがした。この雲の様子は日本に向かって北上している台風11号の影響だろうか・・・。


 


講演「信州を愛した北杜夫」

2015-07-13 | B 繰り返しの美学


集成材のルーバーがりズミカルな外観(図書館南側) 


2階の学習スペース内観 西日を防ぐルーバー

 信州大学の中央図書館がこの6月にリニューアルオープンした。12日、日曜日の午後、この図書館で行われた斎藤由香さんの講演「信州を愛した北杜夫」を聴いた。写真を映しながらマンボウ家のてんやわんやをユーモアを交えて語った。

北杜夫は「春寂寥」という松高の寮歌が好きで、家で歌うのを由香さんは聞いた記憶があるという。**あはれ悲し逝く春の 一片(ひとひら)毎に落る涙** 

会場のセミナー室の受付で数枚のチラシを渡された。その中に北杜夫が松本高等学校(信大の前身)在学中に書いたエッセイがあった。「アルプスへの思慕」というタイトルで上高地や北アルプスのこと、昆虫のことを綴っている。

**山々が残雪をまとって連なっている限りは、私のアルプスへの思慕は決して消えないだろう。** エッセイをこう結んでいる。

北杜夫は終生、松本を第二の故郷と思っていたと由香さんは講演で語っていた。由香さんはお母さんと一緒に来松され、前日の土曜日は上高地のホテルに宿泊されたとのこと。

講演会終了後にサイン会があって、買い求めた『パパは楽しい躁うつ病』新潮文庫の扉にサインをお願いした。北杜夫の本の大半を持っていることを伝えると**長年 父の本をご愛読 ありがとうございます。益々お元気で**と書いて下さった。あの北杜夫の娘さんに書いてもらったのだと思うと、たまらなくうれしかった。 



忙しい日だったが講演会に出かけてよかった。


 ちょうど2年前、13年の7月の斎藤由香さんの講演 過去ログ


「がっかりしました」

2015-07-12 | A あれこれ

 ある人に新国立競技場のデザインについて問われた。私は逡巡の後、「×でしょう」と答えた。この答えに我が意を得たりと、その人はこの競技場について率直な感想を語った。


日本スポーツ振興センターのHPより転載

デザインコンぺの当選案を私はエイリアンのような奇抜な姿だと思った。どこか爬虫類のようにも見えた。ただし、あくまでも上のイメージパースから受ける印象であって、仮にこのままの姿で完成した場合にも同様の印象を受けるかどうかは分からない。


信濃毎日新聞 2015年7月8日付朝刊より

「便器みたいですね」  

その後、デザインはリアルな姿、つまり技術的に実現可能な姿に変わってきた。これでは全く別のデザインだ。今現在のデザインをその人は便器のようだと感じたのだろう。そう言われてみれば確かに。カメのようだという人もいる。

「審査員の皆さんは本当にこの案が良いと思ったんでしょうか」
「工事費がどのくらいかかるかということチェックしなかったんでしょうか」
「建築ってまだ近未来的なデザインをしているんですか」
「誰も望んでいない施設を建設しなくっちゃいけないんですか」
「もう他の案に変更できないんですか。変更すると間に合わないんですか」
「がっかりしました」
このようなことをその人は次々に述べた。

誰も望んでいないというのは言い過ぎか。都市のアイコンとしてこのくらいのデザインが欲しい、と考えている人たちもいるだろうし、このアンビルドなデザインを実現して、日本の土木、建築の優れた技術力をアピールしたらいいでしょう、と思う人たちもいるだろう。このくらいの競技場を造ることをアピールしないとオリンピックは招致できない、と考えた向きも。

当初1,300億円の予定だった総工費が2,520億円(開閉式の屋根の工事費は含まれない)にもなった。このことに関して、長さ約370m、重さ約3万トン!のキールアーチを使った屋根の架構方式に関する疑問というか批判が多い。

新聞記事(信濃毎日新聞7月8日朝刊)によると約765億円がキールアーチなどにかかる工事費だという。これは構造的合理性に欠けていることを示しているのではないか、これが私が×とした理由だ。

キールアーチを構造的にバランスさせるために地下にケーブルを使ったタイビームを設置するようだが(そうしないとライズの少ないアーチは外側に開いてしまう)、ケーブルは一体どの位の太さになるのだろう・・・。すぐ近くを通る地下鉄への影響を心配する人もいるようだ。

開閉式の屋根を設置すると、最終的な工事費は3,000億円を超過する。東北出身のその人は工事費を今までのオリンピック施設のように1,000億円以下に抑えて、2,000億円を東北の復興に使ったらいいのに、と言った。その時、目が少しうるんでいるようにも見えた。

このような施設、オリンピック以降はあまり必要だとは思えない。そう一過性の施設に巨費を投じることを悲しく思うその人の気持ちはよく分かる。

もう後には戻れないと戦前の日本軍の体質そのままに突き進むのだろうか、負の遺産になると指摘する声も少なくないようだが・・・。

「学習していないんですね」とその人、「環境から浮いていますよね」とも。なかなか鋭いというか的確な指摘だ。

コンペの審査では日本を元気づけるような案を選びたい、ということだったようだが、毎年高額の維持管理費がかかるこの施設、本当に日本を元気づける施設になるのかどうか・・・。

これからの建築のあるべき姿を世界に示す絶好の機会だったのに・・・。


過去ログ1

過去ログ2


557 大町市大町の火の見櫓

2015-07-09 | A 火の見櫓っておもしろい


557 撮影日150709

 大町の中心市街地で見つけた火の見櫓。JR大糸線の信濃大町駅から北に延びる市内の幹線道路(県道474号)沿いに形成されている商店街から脇道を少し入ったところに立っている。上の写真で分かる通り、火の見櫓は建物で囲まれている。この火の見櫓を見つけることができたのはヤグラセンサーの感度が良好な証し、と自己満足。



大町市内の火の見櫓は梯子が櫓の外に架け、落下防止カゴを設置するのが一般的だが、この火の見櫓もそのようになっている。

火の見櫓の場合、ブレースのターンバックルはやはりリングでないと・・・。



脚が長い。ただし美脚かどうかは判じかねる、いや、美脚か・・・。


 


「日本の歴史03 大王から天皇へ」

2015-07-08 | A 読書日記



■ 講談社から15年ほど前に出た『日本の歴史』全26巻。その03巻、「大王から天皇へ」を読み始めた。この本を買い求めた当時、少しは日本史の知識を身につけようと考えたのかもしれない。でも、きちんと全巻を通読したわけではなく、興味のある巻にざっと目を通した程度だった。仕事が忙しくてじっくり本を読む時間などなかった、と言い訳を書いておく。

本は良い、その気になればいつでもこうして書棚から取り出して読むことができるのだから。

**古墳時代が中期を迎える四世紀末前後から、七世紀後半の天武天皇の即位の時期**(9頁) までを本巻は扱っている。この時代はまだ「日本」という国名はなく、「倭国」だった。倭国という呼称はいかにも古代史という感じがする。

史料をどのように解釈するかで大きく変わる古代史観。

今年は古代史の迷宮をさまようことになりそう・・・。




 


「信濃が語る古代氏族と天皇」

2015-07-06 | A 読書日記



 先日縄文の美女ふたりに会うために茅野市尖石縄文考古館まで出かけた。その時、他の展示室もざっと見て回り、復元された縄文土器が印象的で写真を撮った。

破片が少ないと欠損部分をどのように復元するかで土器の姿、全体形はずいぶん違ったものになる。古代史について論ずることは、この写真の左手前の復元土器のように、ごくわずかな破片から土器の全体形を推測することと同じだ。少ない史料をどのように解釈するか、そこからどのような推論をするかでその全体像はかなり違ってくる・・・。

このことを押さえた上で、たとえ荒唐無稽な論考だと評されるようなものでも、そこに提示される古代史を楽しみたい。

『信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎』で展開されている信濃(科野)が舞台の古代史に関する論考について、著者は「はじめに」で**古代の信濃は、先見性のある古代氏族や天皇たちが注目するフロンティアだった。本書は、その事実をひとつずつ明らかにすることで、日本古代史の全体を見直し、正史「日本書紀」によって植えつけられた史観を修正しようというものである。**(4頁) と書いている。そう、どんな食材であれ、それをどのように料理するか、ということにおもしろさがあるのだ。

狛犬巡りから古代史という迷宮に迷いこんでしまった・・・。




 


「再現 江戸の景観」

2015-07-05 | A 読書日記


『再現 江戸の景観 広重・北斎に描かれた江戸、描かれなかった江戸』清水英範・布施孝志/鹿島出版会

■ 先日、カフェ バロで医師・溝上哲朗氏による山当てという手法による松本城下の街路計画、見通し景に関する講義があった。講義は「都市景観」という研究分野に位置づけられる内容だった。

江戸の町割りや街路計画でも見通し景が取り入れられていたことを指摘する論考がある(*1)。溝上氏のオリジナルな「発見」は松本のシンボル・常念岳の扱いで、城主は常念岳を山当ての山にすることを避け、城の玄関、黒門の前からしか見ることができないように演出しているというものだった。そこに城主の美意識、意気込みを感じるという。

講義が終わってからこの本を紹介していただいた。

**広重や北斎が描いた江戸の風景画の多くは名所絵である。(中略)モチーフの誇張や構図のデフォルメなど、風景の情趣を高めるための絵操作を行っていたことが知られている。彼らの風景画を通して、江戸に思いを馳せることはできても、江戸の景観の実態に迫るには必然的に限界がある。**(はじめに 3頁)

本書はこの限界に挑戦し、**江戸の都市景観、特に地形や城の眺望景観をビジュアルに再現する(後略)**(はじめに 3頁)という研究の成果をまとめたもの。

興味深い内容だ。




*1 既に数回書いたことだが、同じ鹿島出版会から出ている『見えがくれする都市 江戸から東京へ』 槇文彦他著の中の「微地形と場所性」で若月幸敏氏は**周囲の山は場所の位置関係を知るうえで重要なランドマークであり、なかでも富士や筑波は江戸名所図絵に見られるように、町の遠景に数多く描かれている。(中略)
日本には古くから周囲の山を生けどって借景とする造園手法があった。この場合遠景の山は単なる背景ではなく、より積極的に庭園内部の構成と関係付けられている。(118頁)と日本の伝統的な造園手法を紹介し、この手法が江戸市街地の町割り、街路計画にも活かされたのではないかと述べている。


 


朝カフェ読書「火の路」

2015-07-03 | A 読書日記



■ 今日(3日)の朝カフェ読書で松本清張の長編小説『火の路』文春文庫を読み終えた。

酒船石(上)や益田岩船(下)の用途は? この謎に関する松本清張の緻密で周到な論考。既に書いたがこれは「論文小説」だ。上巻と下巻にそれぞれ1編ずつ、主人公の高須通子が書いた飛鳥の石造遺物に関する論文が掲載されている。


上巻13頁より


同67頁より

**日本には仏教が六世紀後半に百済から伝わったといわれているが、祆教はそれよりおくれても六世紀末までには日本に伝来していたと筆者は推定している。
中国では、仏教と同時に祆教が盛行していたのであるから、この宗教が日本に到達しないはずはない。しかし、それが祆教そのものだったかどうかは不明である。が、その要素の濃い宗教が渡来していたであろうことは推測できる。**(下巻340頁) これは松本清張が主人公の高須通子に書かせた論文の一部。

**筆者は、前回に、これらは斉明天皇が造営を試みて中止となった「両槻宮」の付属物であろうと推測した。その推測は今も変わらない。
いま、両槻宮の「天宮」を祆教ないし中央アジア的ゾロアスター教の拝火壇・拝火神殿と想定すれば、これらの付属石造物もその宗教に属するものと考えなければならぬ。**(下巻353頁)

松本清張はこの考え方に基づき、酒船石の用途については製薬用に使用されたと推測し、益田岩船は二つの焚火孔をもった拝火壇だとしている。 


ナクシェ・イ・ルスタムというところに残る拝火壇 下巻267頁より

ゾロアスター教の拝火壇と飛鳥の拝火壇。ペルシャと古代日本とが「火の路」によって繋がっている。小説のタイトルはこのような松本清張の推論そのものだ。

この小説で、松本清張は古代のミステリー解きに熱心だが、現代のミステリーについては、単なる付けたしに過ぎないと考えていたのだろう。あくまでも古代史の謎について自説を展開することが目的だと。

登場人物のうち3人が死亡するが、警察が捜査するような事件にはならない。ひとつは事故に見せかけた殺人だと思われるのに・・・。でも登場人物の人間関係に関する謎などをとり入れて現代のミステリーにも仕立てているところはさすが松本清張。

上下巻合わせて800頁もの長編だが、短期間で読み終えた。


 


黒部ダムカレー3

2015-07-02 | F ダムカレー



■ 黒部ダムは黒部峡谷に造られた日本最大のアーチ式ダムで、高さは186m。大町市は黒部ダムへの長野県側の玄関口。


ねむの木の外観

その大町市内には黒部ダムカレーがメニューにある店が20軒くらいある。「ねむの木」はその内の1軒。今日(2日)の昼食はねむの木の黒部ダムカレー。

大きくない曲率のライスアーチ。よく煮込んだカレールーはまろやかでなかなか美味。ルーはダムが決壊しても流れ出しそうにない。ガルベ(遊覧船)は大きなコロッケ。

大町にでかけたら黒部ダムカレーを食べよう!


 


視点場

2015-07-01 | A あれこれ

 先週の土曜日(6月27日)の夕方、カフェ バロで行われた医師・溝上哲朗先生のミニミニ講座に参加した。

溝上先生は下の景色(写真1)を**松本城黒門前から望む常念岳を背景にした天守の景観は、時の城主が描き上げた作品**と捉えておられる。

松本は周りを山に囲まれた町で城主は城下の町割りというか道路計画に際し、山当て、すなわち道路のヴィスタに特徴的な山を当てる(山を真正面に据える)方法を採っているという。当時も現在も周囲の山の景観も城下の道路も変わっていないから、今でもこのことは確認できる。講座では美ヶ原や乗鞍岳、袴越山などを当てている道路がいくつか紹介された。

松本は山に囲まれているのだから、道の真正面に山が座っているのは当然であって、意図的なものではない、という指摘もあるようだが、山のピークから外れていないことを偶然と片付けていいものかどうか・・・。

江戸の街でも富士山と江戸湾をヴィスタに据えた道路計画がなされたことが知られているし、借景(その多くは遠くの山)を取り入れた庭園の構成が古くから行われていたことなども、このような捉え方の妥当性を裏付けることになると思う。

溝上先生は遠く山形県鶴岡市にも取材をされ、城下町鶴岡でも同様の手法が採られていることを確認しておられるし、ダメを押すように鹿児島県知覧町の例も挙げておられた。

先日読んだ『道路の日本史』武部健一/中公新書にも東山道の針路の目標として伊吹山を正面に望むように計画されたことが例示されている。この古道を踏襲した国道8号でこの様子が確認できるそうで本には写真が載っている。やはり山当ては古くから道路計画に取り入れられていたようだ。

さて、ここからが興味深いのだが、常念岳を山当てとした道路は城下にはないのだそうだ。松本平のシンボルの山なのに。

なぜか・・・?


写真1

意図的に城下から常念岳が見えないように隠しているというのが溝上先生の見解というか、発見。

大手門(縄手通りの入口辺り)から太鼓門(松本市役所側にある門)へと進み、更に黒門の前まで来て、そこで初めて常念岳を望むことができるように計画されているという。天守へ来訪者と同じルートをアプローチしてこのことを検証しておられる。

溝上先生はこの景色(写真1)に城主の作為を「発見」されたのだ。

写真1は黒門前の視点場(ビューポイント)で撮った。ここに立つと手前の石垣から天守の石垣、そしてその後方の城山、更に特徴的な三角形の常念岳へと視線はごく自然に誘導される。いままで意識したことがなかったが、なるほど納得。確かに遠近感が強調された美しい景色だと思う。


写真2

ほんの少しだけ視点場を移動してみると・・・。

景色がずいぶん変わる(写真2)。来訪者にはあまり見せたくないであろう朱の埋橋(裏通路)が上の視点場からは全く見えないのに、それが見えてくる。石垣が重なって見えているが、のっぺりしていて、あまり奥行きを感じない。城山の後方に有明山が見えてはいるものの、この山は景色のアイキャッチとはならず、あまり意識されないだろう。やはり、絶好の視点場は写真1を撮ったところだと実感する。

講座で溝上先生が示された古地図にはこの位置まで立ち入ることができないようにゲートが設置されていた。それが城主の美意識によるのだとすれば、すごいとしか言いようがない・・・。

松本城にこんな空間的な演出がされていたとは・・・。このことを見つけ出した溝上先生もすごい。


 この記事に関連する過去ログ ←

過去ログで取り上げた常念岳をほぼ正面に望むこの通りは松本城の西方にあり、城下外になるそうだ。常念通りという名称が付けられたのはそれ程昔のことではないということを以前中日新聞で読んだ。